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ノートの穴
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PAPERS Special Issue: "NOTE 44" by Akio Miyazawa
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Apr.25

 それにしても演劇のことばかり考えすぎだ。まあ、それが仕事だからしょうがない。作家としての活動もやらなくては。それはもちろん、小説や戯曲を書くこともあるが、たとえば、「解放した身体」に対する作家としての視点があるはずで、そこから見つめていない。どうも演出家というか、現場からの視点になりがちだ。あと秋から大学で講義をすることも気になっているが。

 作家の視点ということでいうと、「演劇における解放系訓練」や、「人格改造セミナー」、あるいは、「解放」「リラクゼーション」のことを考えていると、どうしてもひとつ引っかかることがあって、それらに共通して内在する、「人の不可思議さ」に興味がある。具体的でなくて、またわからない話になってしまうが、それはまたいつか詳しく書こう。

【さて、『アングラ的心性による解放』の話】
 とりあえず、「近代主義の枠組みのなかに存在する解放」のことをきのう書いた。それで、ある種の「演劇における解放系訓練」の気持ち悪さの正体がおぼろげながら見えてきたのである。
 読み返してみると説明不足なのだが、演劇にはどう考えても、論理化や方法化できないわけのわからないものが無数にある。演劇というか、表現の領域、芸術全般にそれはいえる。ここで問題にしているのは、「俳優の演技における神秘的ななにか」のことだ。
 それは、きのう紹介したY君のメールの、「崇高」だし、スタニスラフスキーが言う、「霊感」のことで、それはしばしば、稽古場に出現するよく見慣れたものだ。たとえば、「崇高」だったら、「言葉にならない俳優の深み」というものかもしれないし、「霊感」は、「あるとき、とつぜん出現するわけのわからない俳優のかがやき」などと言葉にしてもいい。
 近代主義はこのわけのわからなさを、言葉として記述しようとした。特にここでは後者を問題にしたい。それを分析するに、「リラックスしたなにかの意識が俳優のなかに出現しそれがインスピレーションを生み出した」といったようなことが考えられたのではないか。
 それこそが、「演劇における解放系訓練」だ。「リラックスしたなにかの意識」を訓練で出現させようとする。
 で、やっぱり近代なだけに、科学的であり、そこにゆがみがあるとすれば、ゆがみが極端になったのが、「自己改造セミナー」だ。あれは徹底して近代的な生産主義を背景にしている。きのうも書いた、「例のWeb」のルポを見れば一目瞭然で、そう考えるとあれだな、「洗脳」って言葉は神秘主義に結びつきそうなものだが、意外にあれで近代の産物ではないのか。科学的だ。だから、「洗脳」の怖さの正体は、「バイオテクノロジー」に対するイメージに近いと感じる。
 きのうNHKでやってたんだ。最新のバイオテクノロジーのドキュメント。怖いよ。人間の耳が背中についてるねずみ。

 と、極端な話になったが、「解放のテクノロジー」を医療の現場に生かし、「セミナー」とはまったく異なる仕事をしていらっしゃる医師や教師たちがいるのも忘れてはいけない。
 こういうのはなんでしょう。なにがわかつのか。「倫理」でしょうか。

【本題】
 それはそうと、では、「アングラ的心性による解放」はどうなのか。
 寺山修司の演劇論から引用する。

「俳優の訓練は俳優学校などで教えられるものではありません。学校では技術しか教えてくれませんが演技するうえで技術の占める比重はみんなが予想しているより遥かに少ないものです。わたしが俳優訓練で思い浮かべることはパタンジャリのスートラが述べたように、出生、瞑黙、呪文、強度の禁欲などによってしだいに忘我的恍惚状態にいたるものなのです」

 ものすごいことになっている。
 ここでは、「忘我的恍惚状態」が気になるが、それより見るべきは過程だろう。「出生、瞑黙、呪文、強度の禁欲など」と書かれているように、あきらかに「前近代的なるもの」へ訓練の方法が志向されている。で、「俳優学校」といった制度を批判するのは、「俳優学校」が近代的制度だという態度であって、ことごとく「反近代」になってゆくわけだが、俗に、「アンダーグラウンド演劇」と呼ばれた、六〇年代に顕著であった小劇場演劇は、では、「新劇=近代」に対立するものとしてそれを戦略的に選択したのだろうか。
 いままで僕はそう考えていた。
 だが、この一連の、「演劇における解放系訓練」のノートを書いているうちに、どうもそれだけではない、というか、あきらかにそうではないと感じる。
「身体がうながした」
 つまり、身体が自然発生的に近代の枠からはみだしたのではないか。

 で、結論めいたことを書くと、僕がしばしば書いている、「気持ちが悪い」は、たとえば、「俳優訓練の本」にあるお手本を示す俳優たちの身体や表情に感じていたが、あれはつまり、それを生み出している枠組みや、もっと具体に即して書けば「俳優訓練のシステム」そのものが、「いまの身体」とずれていることからくるゆがみのことだろう。
「いまの身体」とはなにか。
 だが、そこにゆくのはまだ早い。って、結論めいたことを書いていながらどうもあれだが、あまり性急すぎてもいけない。もう少しゆっくり考えよう。アングラにおける、「解放」と「身体」について、当時の演劇や舞踏のことも書こうと思うが、ちょっと気になっているので、アントナン・アルトーについても考えることにする。あと、たくさん来ているメールにも返事をしなければ。

【またべつのYさんのメール】
 で、Yさんという女性の方がいたような記憶があり、きのうのメールを送ってくれたYさんはY君と表記したが、だからって、またべつのYさんのことを、「Yちゃん」と書くわけにもいかず、あと、「Y殿」とか、「Yどん」もまずいだろう。そう考えていたら、ラジカル・ガジベリビンバ・システムの当時やったある場面を思い出した。討論会の出席者が同じ名前なので、便宜上、一方を「山本さん」、もう一方を、「山ちゃん」と司会者が呼ぶというもの。
 どうでもいいんだ、そんなことは。
 さて、またべつのYさんのメール。
「『ただ立つ』の中で書かれていますが、『構築』が解体され、『ポストモダニズム』へ、『脱構築』へと思考された現代建築の新しい流れの後、『プログラムと建築』という、ひとつの流行があります。(ここで使われているプログラムは様々な与条件を整理し、ダイアグラム化し、建ちあげることと個人的には考えています。)22日のノートで使われているプログラムとは少し意味合いがずれているとは思いますが、この点に関して宮沢さんのお考えがあれば、ぜひ聞かせていただきたいのですが」
 僕は、「プログラムと建築」という「流行」を知りませんでした。ただ思うのは、それは流行にとどまらず、ひとつの潮流として歴史的な存在なのかという疑問です。僕も調べます。とても興味があります。

 ということで、きょうの勉強はここまでだ。



Apr.24

 さて、Y君のメールだ。
 Y君のことを、以前は、「Yさん」と書いていただろうか。たしかほかに、女性の方でYさんという方のメールを紹介したような気がし、「君」で区別することにしたが、というのも、「大学でフランス演劇を研究しているYさん」と書くと、長くてたいへんだからだ。だんだん頭文字だけで表現するのがむつかしくなってきた。
 世田谷パブリックシアターでフランスの演劇人とシンポジュウムがあってそれに出席したとき、Y君はスタッフ(なのだろうか)をやっていた。その直前、このノートで、シンポジュウムに出席するのが憂鬱だと書いたら、気さくなフランス人たちだから大丈夫だというような内容のメールで励ましてくれた。アントワーヌの演劇に関する研究論文も送ってくれて、まだ途中のようだったが、刺激的で、早く先が読みたかった。

【ほんとうの本題】
 Y君のメールに次のようにあった。

「非常に重要な演技論の古典の一つとして、18世紀後半にディドロが書いた『俳優についての逆説 Paradoxe sur le Comedien』というのがあります」「ディドロは、最終的に、俳優は『無感性』であるべきだ、という『逆説』を提示します。あまり感情が高ぶると、演技にムラができてしまい、きちんとした段取りの計算ができないために、『完璧な演技』ができなくなってしまう、というわけです。理性的な外面的模倣の方が、感情的な内面的同一化よりも成功する、という話です。」

 以前、ある女優からそれまで所属していた劇団の演技論を聞いた。まず「身体の形」をびたっと決めてから演技するという。身体の形がきまればそれに応じて意識も生まれてくるという。
 それはやはり、身体と意識を区別する二元論に基づく。
 ディドロの「無感性」もまた、二元論に端を発し、「演技」という客観的ななにかが、意識や身体の外側にありそこへ到達させる技法として意識や身体を操作するとすれば、「理性的な外面的模倣」は、おそらく、身体への信仰を、あくまでも、「理性的」に出現させるのではないか。 
 印象に残ったのは次の一節。

「フランス演劇においては、これがある種の常識になっていくのですが、スタニスラフスキー・システムは、いわばこれを否定するところからはじまるわけです」

 だが、「身体への信仰」はしばしば退廃を生む。スタニスラフスキーの否定はもっぱらここに注がれるだろう。以前、ある場所に書いたことがあるが、「身体への信仰」は、ちょっと突飛ですけれども、「文学主義」だと僕は思っているのだった。
「わたしは俳優だ。わたしは走る」
 というわけのわからない心性が感じられる演劇訓練はしばしば目にするところだ。「文学主義」は退廃だ。通俗化であり、そこに「思考の運動」はなにも感じられない。ピーター・ブルックの『なにもない空間』によれば、当時の演劇があまりにも堕落していたのでそれをスタニスラフスキーがきちんと整理しようとシステムを作ったとあったが、つまりそうした、「思考の運動の停滞」への否定だと僕は解釈した。というのも、字義通りの「堕落」なら、それはそれで面白そうだからである。否定すべきは、「思考の運動の停滞」だ。どんどん、堕落するならそれは運動が感じられる。
 まあ、それはいいとして。
 停滞する身体が硬直するのは当然である。

 さて、ディドロの「無感性」を否定するのは、スタニスラフスキーばかりではなかった。

「タルマによれば、確かに『無感性』の演技はより『完璧』な演技を可能にするかも知れないが、『崇高な』演技を可能にするのは俳優が『感じている』ときだけ、つまり感情的な内面的同一化がある時だけなのだそうです。では、『崇高な』演技とは何かというと、それは、大体、『想像を越えたなにか』、『理性的判断を停止させるほどの驚きをあたえるもの』ということのようです」

 スタニスラフスキーもまた、『俳優修行』のなかで、「霊感」という言葉を使っているが、なんだろう、ある種のインスピレーションというか、いわゆる、「さえてる」とかそういった、論理化が困難な状態が「演技」には出現する瞬間があって、それがここでは、「崇高」という言葉になっているのではないか。なにしろ、「想像を越えたなにか」、「理性的判断を停止させるほどの驚きをあたえるもの」である。ちょっと納得できないのではないか。徒弟制度による、「親方のありがたい言葉」を思い出す。
「それはそういうもんなんだから、そうなんだ」
 それを納得のゆく形で技法化したものこそ、近代主義というやつだろう。

「簡単に図式化してしまえば、近代主義の申し子のように思われている自然主義的リアリズムの中にすら、近代主義の象徴としての『理性』を超越しようとする、ほとんどアングラ的な心性があったわけです。スタニスラフスキーシステムの発想もこれとそれほど遠いものではないかも知れません」

 なるほど。これは面白い。
 しかし、スタニスラフスキーはあくまで「近代主義」をつきつめたのだと思う。その「霊感」や「崇高」を、なんとか、科学的に出現させようとしたふしがあるからだが、つまりこの「科学的に出現させようとしたなにか」こそが、いわゆる「解放された身体」ではないか。
 僕がしばしば、「気持ちが悪い」と書く、「解放された身体」は、つまり、あくまで「近代主義の枠組みのなかに存在する解放」のことであり、近代主義の象徴としての『理性』を「演技」に適用することで出現する硬直の気持ち悪さが、そこに発生しているにちがいない。
 端的にというか、乱暴に書けば、「解放してる解放してると、まじめくさった顔で言われても、たまんないっての」という感じだ。
 で、この近代の力はぶあつい。
 なんだかんだいっても、しょせん私たちは近代に存在する。

 では、「アングラ的心性による解放」は肯定できるのかどうか。

 (この項、つづく)

【それにしても】
 Nさんに教えてもらった、「人格改造セミナー」をルポしたWebは面白かった。このことに関しても、あしたまた書こう。



ノートの穴


ノートの穴
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PAPERS Special Issue: "NOTE 43" by Akio Miyazawa
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Apr.23

 きょうはとてつもなく長くなるかもしれない。

 というのも、紹介したいことが多すぎるのだ。このノートは様々な人が読んでいてくれているようで、アドバイスのメールを送ってくれる方がこのところたいへんに多い。たとえば、大学でフランス演劇を専門にやっているY君が、「演技論」についていま研究している課題とからめて長文のメールを書いてくれたし、きのう紹介したNさんも、またべつの角度から、「解放」についてメールをくれた。また、Hさんという方は、「演劇における解放系訓練」が一般化してゆく状況について、いくつかの情報を報告してくれた。
 で、Y君やNさん、あるいは、北九州のTさんも演劇の専門だからいいが、たとえば、大学時代の友人のN君は次のように書いている。
「う〜ん、最近のノートは難しくてなかなかついていけないな」
 そうだな。僕のWebを読むのは演劇が専門の方ばかりではなく、たとえば小説やエッセイの読者もいるだろうから、なにが書いてあるのかよくわからないかもしれないし、僕がよく書く「できる人とできない人」の差異について、彼のメールに「モチベーションのちがい」といった意味の理解で書かれている部分があって、いや、そうじゃないのだがと思いつつ、だが、これは演劇人にしたら切実な話だけれど、ふつうの人にとってはどうでもいいことだ。
 しかし、そうでもないんじゃないか。
 というか、ほんとはこれは演劇だけの話ではない。
 つまり、「演劇における解放系訓練」や「身体」について考えつつ現在を読み解こうという、これは試みでもあるし、そもそも、「演技」というか、「身体のありかた」とは、「思想」そのもののことだと、わたしは思うのであるが、それに関しては、かつて書いた、「ただ立つ」という文章を参考にしてもらいたい。
 あと、やっぱりこの話の展開には、既存の「演劇論」が前提になっている部分があって、前提がわからないとなんだかまったく意味不明かもしれないという危惧もあるのだ。
 ま、それはそれとして。

 Y君のメールを全文引用したいが、そうもいかない。
 とりあえず、北九州のTさんのメールから紹介しよう。医療関連の現場で演劇の方法が取り入れられているいくつかの実例(これは上記したHさんも書かれていましたが)の報告があり、それで次のように感想が書かれている。

「演劇産業の経済的な『展開』としては、数年前からずいぶん『医療系』に踏み込んでいるとこが多いようですね。今まで『是・是』とした意見しか聞かなかったものの、『演劇を医療に』というのは上のような『生き残りの展開』としては理解できるのですが、私のやってる『芝居』とはきっと違う、なんかその展開してる人が『マジ本音で』それを言ってるなら『コワイ』という印象があったので、宮沢さんの切り口は新鮮でした」

 どうかな。やはりあれは、「経済的な展開」というより、Tさんの言葉で表現すれば、「マジ本音」ではなかろうか。医療関連の現場で演劇の方法が取り入れられていることについて、たとえば、竹内敏晴さんの活動などを見ても否定はできないが、なにか安易に、「よさそうだからやってみるか」といったことになるとですね、かなりまずいと思う。というか、無自覚だとかなりまずいでしょう。無自覚に「マジ本音」では。「マジ本音」のぶん、なおさら始末に悪い気がする。
 なぜなら、演劇の方法には、すごく危険なものがあると思うからだ。
 セラピストが高い技術を持ち、そのための訓練をきちんと収めていなかったらだめだろう。いいのかなあ、安易にそんなことをやって。という懸念をいだく。情熱だけじゃだめだろう。情熱だけじゃ。「自己啓発セミナー」だって、あれ、やってる本人たちはかなり情熱的である。

 だが、さらに僕の、「マジ本音」を書かせていただければ、いったいいつからそんな「えらい先生」に演劇人がなってしまったんだという思いはある。Tさんも書いている。

「むかしむかしの『演劇ってアカ』『極道』『浮浪人』から、『役者カッコイイ』『文化人』になっていって、更に『演劇をすることは、癒され、自己変革もできる!』という世間の印象があるとしたら、なんだかまた揺り戻しがありそうな。」

 まあ、「先生」になるのはその人の意識のありようだが、やはりここでもそれがどう演劇の状況や表現そのものに反映してくるかだと思う。「情熱」というか、なんだろう、「熱意」というか、「良識」でしょうか、そういったあれに支配された表現など、それこそ気持ちが悪い。
 論理がなくて申し訳ないっす。
 なんども、「気持ち悪い」と書いているが、論理がないですね。それをはっきりとした言葉にしようと思ってこのノートを書いているのですが。あと、僕もこの秋から大学の助教授というものになってしまうので、「いつから演劇人がそんなえらい先生になってしまったんだ」と書いてもなんだか説得力がない。
 かつて、六〇年代から七〇年代にかけての演劇人が、自分たちのことを河原者などと名乗ることのばかばかしさを批判的に無視して、八〇年代以降の演劇は準備されたが、それがまた、妙な場所に向かっている気もしないではないのだった。
 そしてそれを、「状況論」だけではなく、表現の問題、「解放系訓練はいかがなものか」、「そこから出現する表現はいかがなものか」というところへと、論をすすめなければいけないのだろう。

 と、ここまで一気に書いていたら少し疲れました。長くなると最初に予告したのになんだけれど、Y君とNさんのメールはあしたにしよう。

 Y君のメールにこうあった。
「今後ともこの問題に関してはねちっこく考えていってほしいと思います」
 もちろん、今後もずっとこのことを書いてゆくが、ちょっと小説を書かなければならないのだった。小説を書くとなると、その世界に没頭しなければ書けないところがあり、いままでのように、「ねちっこく」いけるか心配だが、小説のあいまに、少しずつ、ゆっくり考えてゆこう。
 それにしてもY君のメールは全文、紹介したい。あと、Y君の研究を早く読みたいぞ。

 それから、Nさんから、「自己啓発セミナー」がらみで、「僕がセミナーのことについて調べている時に発見したページです。僕が知る限り、ここが一番詳しく書かれています。ルポがスゴイです」と、次のWebを教えもらった。→ GO!

 きのうのノートは、少し書き直して、version 2 になっています。



Apr.22(version 2)

 コンピュータのアナロジーで考えるということを思いついたのだった。いや、俳優の訓練の話である。

 何度か書いたが、いくら解放されると言われても、「水に浮かぶ木の葉」になったり、「チューリップの歌」を笑顔で歌うことのできない人はいる。スポーツの世界でも最近、「イメージトレーニング」ということが言われ、たしかに、「イメージ」は効果的なのだろう。僕も稽古のとき、「〜ということをイメージしてみたら」と俳優に口にすることがあるが、あまり突飛なことにはならないのは、突飛なイメージというか、そこにはどうしたって限度は出てくるので、やってみて、気持ちの悪いことはまずさせないだろう。
 竹内敏晴さんの『ことばが劈かれるとき』には次のように書かれている。
「マットの手前端に一人がうずくまる。マットの中央あたりに布をおく。演技者は部屋の隅でこれを狙い、まず虎になる。四つん這いになってもよし、猛然と身をゆすりながら歩き廻ってもよし、自分にとっての虎のイメージが動いてくればいいのだ。--そしてぴたっと獲物(布)に向かうと、ウォーと吼える--実を言えばここまでは別のレッスンでやっているのだが--吼えるや否や走り出し、マットの手前で踏み切りうづくまった人を飛び越して布をつまみ前へころがる」
 ここでは、「ウォー」が疑問だ。
 虎をイメージし、虎のようにするとびっくりするほどジャンプできるとすれば、それを必要としている人にとっては驚くべき効果がもたらされるが、「ウォー」ができるかどうかではないか。俺はいやだなあ。あと、それを自分の稽古場で俳優たちにさせるのもいやだ。なにか恥ずかしい気持ちになる。
 とりあえず、百歩譲って虎はいいとしよう。だが、「ウォー」はいやだ。虎をイメージするのに、なにかもっとべつの方法がないだろうか。

 たとえば「イメージ訓練」。この場合で考えれば、「方法」のことを、「プログラミング」という言葉におきかえてみる。コンピュータを使っているとき、ソフトがどうも自分にぴったりこなくてそれをカスタマイズすることはよくある。必要があれば、あるいは技術があれば、自分でプログラミングしたほうがいいという考え方がある。(『コンピュータで書くということ』を参照してください。といっても、どこに書いたか僕も忘れてしまったのですが)
 自分にもっともふさわしいプログラムがそれによって生まれる。
 これを俳優訓練におきかえるとしたら、一方的に俳優を演出家のプログラムにあてはめるのではなく、俳優が自らプログラミングし自分にもっともふさわしいプログラムを作ればいいのではないか。もちろん、コンピュータのプログラミングと同様、そのための技術が必要になる。演出家、あるいは、指導者は、「プログラミングのための技術」をレクチャーすればいい。

 となると、教えるべき、「プログラミングための技術」とはいったいなにかだ。「技術」という言葉はふさわしいかわからないが、もっと単純な表現をすれば、「自分のアタマで考えさせる」ということになるかもしれない。とすれば、なにを、どう、教えればいいか。

 たとえば、僕のワークショップでは、「肉体訓練」を自分たちで考えさせる。俳優には肉体訓練が必要だ。ぜったいにそうだ。ただ、集団でやることでもないし、やたら走るとか、車座になって体操する必要があるのか、僕にはよくわからなかった。しかも俳優は、なにも考えずに肉体訓練のプログラムに従いがちだ。「肉体訓練」に対して意識的にさせるために、自分でその方法を考える。そこで出たのは次のようなものだ。
「口笛を吹きながら、ほふく前進する」
 これが訓練になるだろうか。だがやってみると、意外にたいへんで、しかもばかばかしい。
「床に寝っころがり、足で壁を蹴り、そのまま床をすーっと動く」
 これもかなりばかばかしい運動である。

 さて、「解放」はいいことなのかどうかといった疑問から、この一連のノートは出発している。竹内敏晴さんは、すでに、「演劇のレッスン」という現場を離れ、たとえば自閉症児の治療に演劇の方法を応用するといった方向で成果を上げ、それは評価してやまないし、もちろん、「自己啓発セミナー」とはまったく異なる性質の作業だ。
 だが、僕は演劇の現場から離れられないし、そこでものを考えている。繰り返すが、「解放のための手続き」がどうも納得できないのだし、「解放された俳優」や、「解放」によって出現する表現が僕にはどうしても理解できず、そのことをあきらかにしたいと思ってこうして考えている。

 きのう書いた、「それはおそらく自分が主宰する劇団だと思われます」という方のメールを紹介しよう。名前が記されていなかったので、メールアドレスからとりあえず、Nさんと表記させていただく。
メールに書かれた内容には多少、歪曲した部分もありますが、あれは、訓練の場を欲しがる役者たちのために、演技訓練系のテキスト(今、手元にないので書名等は忘れましたが、大体のものにそれはあります)に紹介されている方法をそのまま実践してみた時のことなのですが、実は、やらせた自分自身、宮沢さんが繰り返しているように、どうにも『気持ち悪さ』を感じ、すぐにやめてしまったのです」
 まず、その「演技訓練系のテキスト」のことが知りたかった。誰が書いた、どういった傾向のものなのか。
 それはともかく。
 S君の報告を読んでなにか迂闊にいろいろ書いてしまい、それをまず謝りたい。Nさんののメールはとても面白かった。
 その「演技訓練系のテキスト」の内容や、そのことに疑問を抱いて調べた様々な演劇訓練の例が書かれている。

「人通りの多い公道で詩を大声で朗読する」「異性どうしが唇を合わせる」「裸になって横たわり、その状態のままみんなの前で小便をする」

 で、さらにNさんは、そのことから「自己啓発セミナー」にも興味を抱いて調べたという。

「(目の前にいると仮定して)母親に対する想いを暗がりの中で大声で叫ぶ」「輪になった人たちの真ん中で、バカを演じる」…これは『村のバカ』という名前がついていました(笑)さらに驚くのは、「セミナー最終日、みんなの前で自慰行為をする」

 すごいな、これ。特に最後。
 で、Nさんが次のように書いている部分が示唆的だ。
「今、思ったんですが、メカニズムというよりは、『ふるいにかける』という考え方もあるのかもしれません」
 なるほど。つまり僕が繰り返して書いた、「できる人」と、「できない人」の問題は、「できる人」だけをふるいにかけて残し、結局、そのことで集団が純化されてゆくという仕組みだということだ。
 純化するとは、「閉じる」ということだ。閉じた集団。指導者はしばしばそのことのまちがいに陥る。だが、一概にまちがいと言い切れないのは、純化し、閉じた集団は(演劇にしろ、ダンスにしろ、あといろいろ)、そのことで表現を高める場合もあるから、ことは複雑である。
 思想の問題だよ、こうなると。
 あと、僕の場合は、「できない人」ばかりで純化させているような気がする。ただ、「できない人の純化」は、純化に見えないから不思議である。ダメな人のあつまりのようにも感じさせるので、いいんだか、悪いんだかよくわからない。

 (以下、あしたにつづく)




ノートの穴


ノートの穴
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PAPERS Special Issue: "NOTE 42" by Akio Miyazawa
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Apr.21

 メール特集だったきのうのNOTEについて、いくつかレスポンスがあった。きのう学習院大学のS君のメールを引用したが、「それはおそらく自分が主宰する劇団だと思われます」という方からメールをいただいた。読むといろいろなことがわかったのだった。その件など、「演劇における解放系訓練の話」はまたあしたにしよう。
 福岡のと書いてしまった北九州のTさんや、「いきなりリラクゼーションのセミナーの人になってしまったある演出家」について書いてくれたSさんのメールについても書きたいが、それもあしただ。

 きょうはちょっと疲れたのだよ。



Apr.20

 さて、本日はメール特集である。
 いろいろな人から、「演劇における解放系訓練」(わたしが勝手につけた名前だが)についてのメールをもらった。ほんとにうれしい。

 まず、福岡のTさんのメール。Tさんのメールは、あるワークショップにTさんの劇団に所属している人が行ったという話で、劇団員のレポートがまずある。途中から、劇団員のレポートなのか、Tさんの意見なのかよくわからなくてですねえ、次の引用部分は、誰の感想なのか不明なのだけれど、というのも、劇団員がワークショップに参加したことは明記されているのでいいとして、Tさんも行ったのかもしれないし、そのへん、どういうことかわからないのだった。とりあえず引用させていただく。期間が三日だったというそのワークショップでは、まず、「倒れる」ということをするらしい。

「単純にダンスがしたくて来た人もいるだろうし、誘われたから来た人もいるし、サクラの人もいるでしょう。そういった人がこのようなワークショップでまず感じる充実感が“解放”なんでしょう。普段できない『大声を出す』とか『好きなように体を動かす』とか。きっと“倒れる”作業だけでも、始めて体験する人にとっては“解放”を感じるはず。“解放”されてない人は普段それを意識していないでしょうから “解放”を感じたときの喜びは大きいかもしれません」

 ここでは、ワークショップに対する「充実感」を、「解放」としている部分が重要だ。なるほどと思った。うん、それはたしかにある。わかる気がする。「参加者」はワークショップに何かを求めてくる。求めたものが何らかの形で見つけられたとき、参加者はそれを、身体が「解放」したと感じる。また一方で、ふだんやらないことができる場としてのワークショップがあるのもわかる。ふつう人は、他者の前で、ばたばた倒れたりなどめったにしないし、大人にもなると、できないことのほうが多くなり、ワークショップはそのことをそれこそ解放してくれる。

 だとしたら、この「ワークショップ」はいったいなんだろう。引用に続けて、Tさんかもしれないし、劇団員かもしれない「感想を抱いた人」は、ワークショップの主宰者の表現の方法を見られたことがよかったと書いているが、それは特別だろう。一般的な参加者にとって、このワークショップの意味は、ひとつのアジールというか、救済の場になるのかもしれないとすれば、ここには、「セミナー」のにおいが強くする。

 もちろん主宰者にはそんな意図はないだろう。だが、そう意識したわけでもないのにそうなっていたことが問題になる。というか、油断しているとワークショップはそのような場になっているのだ。なぜなら、参加者もまた、意識しないうちにそれを求めているからだ。
 この構造だ。
 「解放系」がついついはらんでしまうところの構造をこそ、問題にしなければいけないのではないか。

 次は、学習院大学のS君からもらったメールの引用である。S君は、ある劇団にスタッフとして関わったことがあるという。

「……そこで『解放』と呼ばれる訓練がありました。それは劇団員が二人一組で行うもので、まず、二人が並んで立ち、そしてその前にいる一人が後ろに倒れ、後ろにいる一人がその倒れてきた者を支えるというものです。これを何度も繰り返していました。これが『解放』と呼ばれる訓練でした。また、劇団員十数人が『罵り合う』訓練というのもありました。ただただみんなで罵り合っているのです。その劇団主宰者はこれによって『感情のリミッターをはずす』ということを強調していました。あと、『世界の共有、空気の一体感』ということもよく言っていました」
「それからある時、ある一人の劇団員が、前に出されて椅子の上に立たされその周りを他の劇団員達が取り囲み、その椅子の上に立たされた一人の劇団員を『ただずっと見つめる』ということもやっていました。これも『意識の解放』につながるようです」

 こりゃあすげえ。S君のメールにはその劇団名が書かれていなかったが正直なところ、それを知りたかった。いったいどこだそれは。まず気になったのは、言葉の使い方だ。
「感情のリミッターをはずす」
「世界の共有、空気の一体感」
 感情のリミッターなんかはずしたら大変だぞ。
 これはあきらかに、「自己改造セミナー」である。やっていることがほとんど同じだ。しかし、これは特殊なケースではないのだろう。演劇の訓練ではわりと一般的なのではないか。
 まあ、方法はともかくとして、やはり、「感情のリミッター」を外したり、世界を共有してしまった俳優たちがどんなことになってしまうのかそっちが疑問だ。彼らが作っている空間がどのような場所になるか。
 とりあえず問題にすべきなのは、「方法」より「構造」だ。「演劇における解放系訓練」の空間を形成している構造を、まず、考えてみることではないか。それから、「方法」についてゆっくり考えてみたい。

 翔泳社のE君からも、メールをもらった。

「ぼくも竹内さんの本や野口体操の本などいくつか読みましたが、とくに野口体操のお弟子さんの羽鳥さん(でしたっけ?)の本で気になったのは、『第三者による記述はかんたんにマニュアル化する』ということですね。野口さんと直接対話したりレッスンを受けたりする関係ではもっと自由なんだろうけど、第三者(とくに信奉者)によって書かれたものは『単なるマニュアル』でしかなくなってしまう。いくら『やわらかい身体』と書かれても、マニュアル化された『やわらかい身体』はちっともやわらかくない、のでしょう」

 重要な指摘だ。形式だけが伝えられて、そこに至る過程が忘れられることがあり、形式だけの単なるマニュアル化されたものは、しばしばかたさに拘束される。あれはなぜだろう。なぜか硬直する。スタニスラフスキーの『俳優修行』を読むと、ごく基本的なことはよくわかるのだが、それがひとたび、そのシステムの継承者によって訓練がされたものはいきなりかたい。

 というところで、じつは、竹内敏晴さんのワークショップに参加してたことのある方に会ってその話を聞いたのだった。おおむね肯定的だったが、ただひとつ、「みんなで歌う」というのがどうもできなかったという。
 歌は、「チューリップの歌」で、みんな笑顔で歌っていたそうだ。
 ここに分岐点がある。
 できる人と、できない人。なにがそれを分かつのか。
 これをどう考えるかだなあ。

 ただひとつ思うのは、竹内さんが精神治療の例をあげて書いていることだが、俳優訓練にしろ、精神治療にしろ、一般論が成り立たない部分ではないか。Aという俳優志望者と、Bという俳優志望者はまったく異なる環境で育ち、感じ方も異なるとすれば、訓練への入り方も当然、異なるべきだ。しかし大量の受講者を相手にしたワークショップや、劇団の訓練システムにおいて、効率よく作業を進めるには方法を一般化しなければいけなくなる。

 これは、教育論ということになるのでしょうか。

 で、いま思いついたのだが、「効率よく作業を進めるには一般論にしなければいけなくなる」ことを徹底したのが、「自己啓発セミナー」の方法ではないか。というか、強引に一般化する。汎用化する。その方法。「企業」としての「自己啓発セミナー」にとってそれが課題だったと考えられる。だが、それが危険なのは、しばしば演劇の訓練にもそれと同様のことが発生していることだ。

 ◎きょうのまとめ
 ・場としてのワークショップはどのような構造で成立しているか。
 ・方法の一般化がもたらすものはなにか。


 共同通信から来た仕事をつい引き受けてしまった。鵜飼正樹さんの『見世物家業 安田里美一代記』の書評である。それがきょう届いたので少し読む。竹内さんの『ことばが劈かれるとき』を読み、演劇に関する本を読み、小林信彦さんの『おかしな男』を読み、でもって、『見世物家業 安田里美一代記』を読んでいると、頭がぐちゃぐちゃになってくる。だが、どこかでそれらがひびきあい、つながっているようにも思える。
 ひじょうに広い意味での、「演劇」ということになるのかと、ぼんやり考える。




ノートの穴


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PAPERS Special Issue: "NOTE 41" by Akio Miyazawa
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Apr.17

 北九州のTさんからある集団のワークショップについてメールをもらった。とても貴重な話だ。この件については、もう少し考えてから書くことにしたい。

 その後、いろいろ読んでも、「自己啓発セミナー」が問題化されるのは、仕組みのことばかりで、高額の費用とか、勧誘の強引さといったことが強調され、中身はどうなのかという話になるととたんに腰が引ける。わかったのは、あるアメリカの学者が作った心理学的技法が基本になっているということだ。

 さて、例の、「あなたは水に浮かぶ木の葉です」はなにが気持ち悪いのかを、まず問い直してみなければいけないだろう。
 客観的にそのワークショップを見ていて僕は気持ちが悪かった。もし自分がやることになったことを想像しても、「俺は、木の葉じゃないんだけど」と言い出すと思う。で、ワークショップの指導者は、「まあ、いいから、だまされたと思ってなってみろ」と言うのではないか。そこで、なれるか、なれないかの差異はどこからやってくるのか。あるいは、なればきっと解放されると言われても、抵抗のある者だってきっといて、この抵抗こそが、「解放されていない意識」だとしたら、もっとべつのことがここには発生していると思えるのだ。
 抵抗しないで素直に受け止める俳優の存在。
 いやだな、俺はそんな、俳優は。
 うーん、いよいよわからないよ。
 さて、竹内敏晴さんの『ことばが劈かれるとき』を読んだ。面白い。読んでいろいろなことがわかったのだが、ひとつには、僕はしばしば、「やわらかい身体」という言葉を使うが、これを少し修正しなくてはいけないということで、「やわらかい身体」と表現するだけでは不適切だ。べつの言葉を考えなくてはいけない。「やわらかい身体」と表現すると、「解放された身体」と同様の、なんというか、ナイーブなもの、あまっちょろい感性にひたされた「マイルド」ななにかになってしまいそうなのである。
 あるいは気持ちの悪いもの。

 で、また新たな課題が生まれた。野口体操とメルロ・ポンティの新しい解釈をする仕事だ。大事業である。



Apr.16

 菅孝行さんの『戦後演劇』にも引用されている本だが、読みたいと思っていた竹内敏晴さんの、『ことばが劈かれるとき』を近所の古本屋で見つけた。「劈かれる」で、「ひらかれる」と読むらしい。竹内敏晴さんの書く、こわばった身体をほぐすことで言葉が身体から出現する話はべつの本でも読んでいたが、そのあたりのことをもっと知りたかった。
 というか、なにか批評しつつ読もうとしても、話がわかりすぎるくらい、よくわかり、それでもなお、そこから出現する表現を想像すると、おそらく違和を感じる部分が僕にはきっとあると思え、むしろ、その齟齬というか、奇妙なねじれの正体をたしかめたかった。
 その後、「自己啓発セミナー」に関する本も読んだが、まだわからないことはあるし、あるいは、「解放」についてももっと考えるべきらしい。
 で、豪徳寺駅前の品揃えのよくない本屋に入ると、岩波から出ている「世界」の別冊号が目に入った。読書ガイドが特集になっており、なかに、「身体」という項目がある。紹介されているのが、『ことばが劈かれるとき』だった。身体と精神をわける二元論を乗り越えるためのメルロ・ポンティの論を引きつつ解説されているが、やはりそこにも、「解放」がキーワードとして存在する。
 解説者によれば、「解放」や「脱力」の論者は、しばしば、「型」による訓練を無視する傾向にあるとあって「武道」に関する書籍も紹介されているが、そりゃあ当然だろうと思うものの、表現の問題として、「解放」も「型」も油断ならぬ言葉だと僕には思え、しかしまだよくわからない。
 ことによると、僕もまた、演出の段階で、直接その言葉を使わないにしろ、「解放」や「型」について話しているのかもしれない。

 で、「わからない」で思い出したが、菅孝行さんの『戦後演劇』は、後半の、つかこうへい登場あたりから叙述の歯切れが悪くなる。それまで小気味よいくらい明解に歴史を概観しまとめてあると思ったのに、難解ぶりというか、言葉のまわりくどさが気になるのだ。つかこうへいの登場と、それ以後の演劇について、どう考えていったらいいか、菅さんが困惑しているのがこのことにあらわれているのではないか。つかこうへい以後、八〇年代に向かう演劇に出現した、たとえば、「笑い」の側面を、「駄洒落文化」などと粗雑にまとめる手つきはいただけないが、しかし、『戦後演劇』という著作において読むべきはこの部分だと思え、というのも、菅さんの世代にとって理解が困難な状況に対し、それをなんとか解きほぐそうと言葉を積み重ねる作業は、そのこと自体に、深い意味での、「わかる」ということがこめられていると感じるからだ。



Apr.14

 古本屋で買った、菅孝行さんの『戦後演劇』を読む。ものすごく面白い。60年代の小劇場運動(アングラ演劇)の話もそうだが、戦争直後の新劇の動きを概観した前半に示唆される部分が多く、結局、演劇の活動を維持してゆこうとして困難に感じることの多くは、50数年まえも現在も、あまり変わっていない。
 それと、菅さんが書く戦後演劇の歴史の叙述には、なにか「噂の真相」的な趣もどこかしら感じられ、あの人と、あの人が、ここでこうしてああなったのかといった、ひどく下世話な好奇心をあおられたりもするのだった。
 あと面白かったのは、60年代の小劇場運動を支えたのは、高度成長とそのことによって生まれた、「アルバイト」だったという記述だ。新劇のパラダイムでは考えられなかったような、いわば、「素人」が演劇に関わることを可能にしたのが、アルバイトによる生活の保障だったという。かつて演劇に関わるのは、特別な者たちでなければならなかったわけだ。プロとして映画やそのほかのメディアで仕事のできるもの、あるいは、よほど家が裕福だったとか、いろいろ。
 よくよく考えてみると、いまでは、「アルバイト」はあたりまえのように存在しているが、経済的な社会構造の変化のなかで生まれたものであって、ある意味を持って現在も存在しているのだろう。「アルバイト」から出現したものは、演劇に限らずあらゆるジャンルにある。少し前から、「アルバイト」のことが気になっていたので、『戦後演劇』を読み進め、そこに注目したのは単なる偶然ではないのだった。




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PAPERS Special Issue: "NOTE 39" by Akio Miyazawa
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Apr.1

 四月である。

 これまでにも何通かメールをいただいているSさんという女性から、次のような報告があった。(一部、名前を伏せます)

「シアターグループ○○を御存じでしょうか。わたしはそこの演出家のSさんが好きでワークショップにいったのですが、そこで『あなたは水に浮かぶ死体です』とゆうことをやりました。で、なんどか芝居や、パフォーマンスを見に行ってたのですが、ある日、Sさんから来たDMは、『現代のストレスをいやすセミナー』に変わっていました。演劇の手法をまねられたのではなく本人が移行したのです」

 これは驚いた。
 ちょっと笑いそうにもなった。メールを送っていただいたSさんによれば、「あなたは水に浮かぶ〜」の手法は、リー・ストラスバーグのアクターズスタジオから来ているらしい。
「死体になる」
 これもまたすごいが、「頭も、からだもからっぽにして」といったことをワークショップの指導者が言うといった意味のことをSさんのメールで読んで、なにか思いあたることがあり、さらに『現代のストレスをいやすセミナー』のことを考えると、そこにはおそらく、「からっぽの心地よさ」が存在するにちがいない。本人が気持ちいいならなんと答えていいか困るが、やはり危険なにおいは強くただようと思った。
 なにで読んだのかちょっといま失念したが、つまり、なにも考えぬまま、ただ決められたこと、与えられた仕事を反復していくような状態に人は反発するが、一方で、繰り返してそうしているうちに人はそのことの気持ちよさに支配されてしまう。
 いわば、「思考停止状態の快楽」ともいうべきもの。
 なにも考えず指示通りに動くのは楽だ。その気持ちよさは危険だが、危険性は隠蔽され、「いやし」とか、「救い」、あるいは、「身体の解放」といった言葉に変換され、なにやらいいものだと錯覚するから油断がならない。だが、やはりここでも、数日前に書いたような奇跡はきっと発生しているにちがいなく、「奇跡」の危険性をこそ明証しなければいけないのだろう。
 もちろん、表現の問題として。
 しかし、作家としては、「気持ちよさ」を見いだしてしまう人の存在もまた興味深く、見いだしとことん耽溺してゆく者らの姿も見ていたいとも思うのだった。
 それにしても、Sさんのメールは貴重な話だ。こんなにはっきりした事例があるとは思わなかった。この件に関しては、いよいよ面白くなってきた。さらに考えることにする。



Mar.30

 鍼治療が夕方からあるので、その前に新宿の紀伊国屋に寄って本を探す。演劇のコーナーで俳優訓練などの本をいくつか手にとって調べた。ああいった類の本には、たいてい俳優が手本を見せる写真が添えられているが、どれもこれも気持ちの悪い写真なのはなぜだろう。妙な笑顔を浮かべていたり、変に作った顔をしている。見ていると憂鬱な気分になる。
 決定的に、これはもうなにかがちがう。
 しかし、あれがいい表情ということになっている世界がきっとあるのだろう。このくいちがいというか、ずれというか、どう考えていったらいいのかわからない。単なる、「好み」とか、「感じ方のちがい」と片づけたらなにも議論が生まれないが、議論するのも骨が折れるというか、憂鬱だ。連中はあの顔で芝居してしまう。それがあたりまえのようにその顔を作る。
 というか、こうした訓練に耐えられる俳優たちは、あのような顔なのかもしれない。逆に表現すれば、あの顔がああいった訓練を生む。このへんのことをもっとはっきりさせておこう。
 でないと、ふつうの感覚で考えれば、演劇は、「気持ちの悪いもの」でしかないのではないか。しかし、歌舞伎のような過剰な表情の作り方ともまた異なり、歌舞伎は許せるが、あれはだめだ。あの気持ち悪さは、北朝鮮の、プロパガンダの映像、映画、あるいは演劇や舞踊に見られるものに近い。北朝鮮のものはあまりのことに笑えるが、演劇の場合、笑えもしないのでいよいよ困る。
 と書いていて、北朝鮮ものに見られる表情の気持ち悪さを分析してみようといま思いついた。
 なぜ、あれは、気持ちが悪いのか。
 そう感じるのはなぜか。

 10月からの大学の授業でまずビデオを見ながら講義をしよう。そのためのビデオを新たに作ろう。いまもワークショップでビデオを見せて講義をやっているが、もっと洗練させる。パワーアップする。北朝鮮の映像はどこに行けば手にはいるのだろう。
 ビデオ作りはかなり楽しめそうだ。
 あと、この講義はかなり面白いものになる予定である。
 しかし、「気持ち悪い」はひどく恣意的な感覚だが、そう感じるのは、たとえば、そう感じる、<もの>や<こと>の背後に隠蔽されたなにかがあると予感されるからではないか。
 つまり、うそくささだ。
 寺山修司の演劇論にはしばしば、「出会い」という言葉が登場する。いまではこの「出会い」はちょっと疑ってかからなければならない言葉になりさがっているが、それは、きれいごとの「出会い」というロマンチックな言葉に隠蔽されたなにかを感じるからだ。つまり、「出会い」に含まれる、生産主義的なというか、機能主義的な、「あの人と出会って得をした」とか、その逆として、「あんな子とつきあっちゃいけません」といった側面がロマンチシズムに隠蔽されて存在するのを予感できるからだ。では、寺山修司はなにも知らずに、単なるロマンとしてその言葉を使ったのだろうか。
 寺山修司は演劇論で、徹底した反近代の姿勢をとる。
 だから、寺山的な「出会い」はおそらく、前近代的なものとして考えなくてはならず、「生産主義」や、「機能主義」とは無縁に、またべつの「出会い」について書いているのだと考えられる。
 歌舞伎が許されるのは、技術度の高さによるし、あの世界の虚構度の高さ、いわば、前近代的な世界の構築度の高さであって、あそこだったら許されるとしか言いようがない。<いま>の装いのなかでは、俳優訓練の本に添えられた写真の俳優たちの表情は、いかんともしがたくうそくさい。あの顔で芝居するのなら、少なくとも五十年前を舞台にした戯曲でなければ成立しないだろう。
 考えるべきことはまだ無数にある。そのためには、資料を集めること、さらに実際にいろいろ見なければと思う。道は遠い。




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PAPERS Special Issue: "NOTE 38" by Akio Miyazawa
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Mar.27

 桜井圭介君が主宰する、「神楽坂ダンス教室」は、神楽坂にあるセッションハウスという場所で、講義というか、ワークショップを開いているが、この六月、発表会がある。そのチラシに載せるための推薦文を書いてメールで送った。
 で、きのう僕が書いたことについて、ダンスの世界でもやはりあるということが返事のメールにあった。例の、「あなたは水に浮かぶ木の葉です」といった手法のワークショップについて。
「これはダンスのワークショップでも非常に多いです。ニュー舞踏とかコンテンポラリーダンスとか。『柔らかい身体』はまず心身のリラクゼーションから、という発想ですね」
 やっぱりか。「心身のリラクゼーション」は、自己啓発セミナーの類も同様の発想なのだろう。いろいろな理由でかたくなった身体をほぐす。そのことで自分を変える。で、よくよく考えてみると、施す側も問題ありだが受ける側にもまた問題がある。

 桜井君のメールにはさらにこうあった。「神楽坂ダンス教室」での経験からこう書いている。
「人は解放されたがるんですよ、やっぱ」
 ここらへんをもっと考えるべきなのだろうな。
 まず、「身体の解放」というやつだ。この言葉から疑わなくては。ここに含意されているのは、「奇跡の出現」という発想ではないか。一日や一週間ぐらいのワークショップで人が変わるわけがないのだが、どうやら、受講する者らはそれを期待し、この都合のいい要求を、「身体の解放」という言葉で合理化しようとする。
 このことから、「解放された身体」ってやつの気持ち悪さの正体がつかめそうな気がするが、それより、まず考えるべきは、「だが、意外なことに奇跡は起こっちゃうから事態は複雑である」という問題だ。演劇のワークショップだけではなく、自己啓発セミナーも同様で、奇跡はあちこちで起こっているらしいのだ。いくつか例を体験者から直接、聞いたこともあるし、様々な資料にもそうある。
 もちろん、その奇跡が怪しいのだし、きっと奇跡によってもたらされたものは気持ちの悪い姿をしているにちがいないと思うものの、本人は満足しているのだから、どうすればいいというのだ。
 僕のワークショップでは奇跡はぜったいに起こらない。
 まず、「やわらかな身体」に向かううまい方法などどこにもないというところから出発する。で、それを探すのである。探してあーだこうだと作業する。探しているうちに、「やわらかな身体ってなんだっけ」と思わず口にしているかもしれず、そもそも、なんのために作業をしているかも途中でよくわからなくなっている。
 というのは、いま思いついた。
 これは、河合隼雄と中沢新一の対談集、『ブッダの夢』にあった、子供を失って嘆き悲しむ母親の挿話をもとに作った話。母親に相談を受けた仏陀がこう言う。
「だったら、その悲しみというやつを探してここに持ってきなさい」
 で、母親は探すのだが、ながいあいだずっと探しているうちに、悲しみの感情が消えてしまったという。仏陀はキリストのような奇跡は起こさなかった。母親のなかにある治癒力をうまく引き出したということだろうが、それは手法だったのだろうか。

 この件についてしばらく考えることにする。



Mar.26

 夕方になって外に出たが、まだひどく冷える。文學界のアンケートに答えたお礼ということで図書カードが送られてきたのは、もうけっこう前だが、それを使おうと経堂の本屋に行く。興味を引かれる本がほとんどない。豪徳寺はわりあい住みやすい町だが、付近にいい本屋がないのはかなり問題で、近くに農大があるくせにどうして経堂もだめなのだろう。以前、祐天寺に住んでいた頃、学芸大学には、比較的、品揃えのいい本屋があってよく利用した。
 まあ、それだったら新宿か渋谷に行けばいいわけだが、近くを散歩しているとき、ふらっと入ってなにか本を買うからこその、読書である。
 そして本を読むための喫茶店が近くにあれば申しぶんない。

 新書を一冊買う。四月から少し勉強しようと思っているのは、「俳優の訓練」に関する本をすべて読んでやろうという野望で、十月から大学で教えるための下準備だ。あと、大学では戯曲を読むための練習をしたいと思っていて、だったら僕も、きちんと戯曲を読んでおかなければならない。いろいろな戯曲を読む。戯曲のなにを読むべきか、どう読むべきかを、きちんと教えたいのだ。

 先日、朝日のYさんと電話で、この春からいくつかの大学で演劇人が教鞭をとる話になり、いろいろな方が、どういう考えで大学で教えようとしているかを聞いた。学芸大学で教える佐藤信さんは、演劇の教育や訓練には洗脳に近い部分があり、それに対して目を光らせると言っていたそうだ。以前、ある外国の演出家のワークショップを見学したが、いきなり受講者を床に寝かせ、「あなたは水に浮かぶ木の葉です」と言ったときはひっくり返りそうになった。自己啓発セミナーかよ、こりゃ。よく俳優の身体を解放するといった題目を唱えるワークショップがあるが、手法は自己啓発セミナーだ。ほとんど同じである。むしろ、演劇で作られた手法を、そういったセミナーの類が真似た、というか、取り入れたのかもしれない。
「これは使える」と。
 佐藤さんの考え方に賛成だが、目を光らせるだけではなく、どうしたらそこから逃れられるか、むしろどう対抗するか、新しい方法を作り出さなければいけないのではないか。
 たとえば、「肉体訓練」について、俳優が意識的になる方法をまず作り出すべきで、そうでなければ、なにも考えずに動かされる俳優の身体は、訓練にしみこむ思想でみたされてしまう。つまり、ばかが出現してしまう。

 演劇が生み出した訓練の手法を自己啓発セミナーの類が、使えるからと取り入れたとすれば、これはなにかに似ている。こういうことはしばしばほかの世界にもある。例は悪いが、ニーチェの思想がべつのことに利用されるといったことなど。いや、あれは読み解き方の問題か。うーん……。
 で、問題なのは、なぜその手法は利用されたのかということだろう。
 もともと、手法がはらんでいる問題だったのだろうか。あるいは、やはり読み解き方によってわい曲したのか。利用されるすきがあったというより、手法がはらむ思想をこそ問いただすべきだ。その手法は、なにを実現しようとしていたのか。どんな考え方でその手法は生まれ活用されようとしてきたか。
 それにしても、「俳優の身体の解放」といったお題目はほんとうに正しいのか。
 解放されたとおぼしきその身体が、ときとして、気持ちの悪いものにしか感じられないことがあるが、あれはなんだろう。解放しなけりゃよかったのにと思うこともしばしばだ。
 その気持ち悪さは、自己啓発セミナーの気持ち悪さによく似ている。

 と、だらだら書いていたら、これはきりがない。とりあえず、四月以降の課題ということにしよう。




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PAPERS
Published: September 9, 1997 Updated: Feb. 4, 2000
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