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Published: Feb. 21, 2003
Updated: Dec. 30 2003
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Dec.30 tue.  「どろもてゃのうまっはち」

■鍼治療の効果だろうか、ものすごく眠ってしまった。いま昼夜逆転の生活をしているとはいえ、朝九時過ぎに眠り、夜七時になって目を覚ますとはなにごとだ。このところやけによく眠るのだった。そして夢を見るので起きたらすぐにそれをこまめにメモしている。
■以前も書いたことだが、「プロットノート」もほぼ欠かさず毎日のようにつけているが、おとといだったかのそのノートを眠る直前に書いた。しかも睡眠導入剤を飲んでいて、とてつもない文章になっていた。その最後の部分である。
 何十ぱつもの重を撃ち込んだオンおんhんhぢどうksどろもてゃのうまっはちが人間ではないかじゃ
これをふつうの状態で書くのは不可能だと思うのだ。特に、「どろもてゃのうまっはちが人間ではないかじゃ」がまったくわからない。「どろもてゃのうまっはち」の部分が「主語」だと読める。では、「ないかじゃ」はなにか。「ない」のなまりとも考えられるが、それはそうだろう、なにしろ、「どろもてゃのうまっはち」である。「どろもてゃのうまっはち」はあきらかに人間ではないと思う。

■ここ数日、いろいろな場所で「昭和の人間」という言葉を使っているのを聞いたり見たりしているうち、これはなにかを「指し示す言葉」なのかと、ためしにサーチエンジンで調べてみると、一六〇数件ヒットした。
■そこで使われているのは「感覚的に古い人」といった単純な意味でそれにレッテルを貼るということのようだが、たとえば、鍼治療に行ったとき西武新宿線都立家政の駅前にある本屋にふらっと入って買った「別冊宝島Real」の『社会党に騙された!』は、戦後民主主義否定論者たちが書いた、印象としては「トンデモ」にかなり近い本だとはいえ、ここでの「戦後民主主義否定」にも一理あり、「昭和の人間」という言葉はここで書かれるような意味において「戦後民主主義否定」に通じるのではないかと思えた。本の巻末、田原総一朗のインタビューで、「朝まで生テレビ」を開始したころ(八〇年代後半)、「右」の人がほとんどいなくてただ一人、西部邁さんだけが出演してくれたと語っており、当時は「右」だと名乗る者がぜんぜん出てこなかったくせに状況が変わると(反北朝鮮的な国民感情の高まりなど)、手のひらを返したようにみんな「右」だと名乗り出てくるという。時代に対する迎合というか軽薄さというか。当時(朝生開始時)の思想潮流のなかでも一貫していた西部邁を田原さんは高く評価していた。たしかにそれはすごい。
■一九六〇年当時の安保闘争時代は「左」だった西部さんだが、その後、立場は「保守」へと変容し、思想のあらわれというか、政治的なあらわれは異なっても、一貫した言説の立場をつらぬいているのではないか。信じていることはどう現状が変化しようと発言するという態度だ。あるいは、『歌舞伎町未解決事件』(シーズ情報出版)のなかで、ある暴力団関係者のインタビューに興味深い言葉があって、暴力団も「若い人材」を獲得するのに苦労しているらしいことがわかり、でもって、「右翼の看板で騙す手ももう通じないですしね」という意味の発言が面白い。まあ、そういった思想状況のなか黙々と私は『資本論』を読む。で、単行本『資本論を読む』のまとめもしなくてはいけないのだが、私はこういう作業(=大人の仕事)がほんとうに苦手なのだった。できるわけがないじゃないかとすら思えてくる。実業之日本社のTさんに申し訳ない。

■正月のあの場所での『ハムレット』を読む撮影はさらに一人、読みたいという人が現れた。とにかくあの日の丸の小旗が振られる映像が撮影したいのだが、撮影希望者もいたらなおいい。カメラは何台あってもいい。それから「男優限定オーディション」の告知も作らなくちゃと思っているが、それを作る気力が出てこなくて困っている。着々と、二〇〇五年のための準備を進めなくてはいけない。もう歳の暮れ。押し迫ってきた。なにかあせる。

(6:00 dec.31 2003)


Dec.29 mon.  「走る笠木」

■数日前、富永昌敬君から、というか監督本人から『亀虫』のビデオを送っていただいた。とてもうれしかった。地図ばかり見ている場合ではなかったのだ。たしか11月に池袋のシネマロサで上映会があり、青山真治監督との対談もあったが、ちょうどそのころ僕は韓国に行っていたので観られなかったのだ。ようやくビデオで観ることができた。とてもよかった。わざわざ送っていただきとても感謝した。
■五本の短編による連作が『亀虫』という奇妙な世界を作っている。しかし、よく考えてみると最後の短編「台なし物語」以外は日常の延長にあり、たしかに「奇妙」な日常だとはいえ、ごくあたりまえの時間として描かれている。ここがこの映画の面白さの中心だと思った。人の日常は、たいていの場合あたりまえに存在している。それをどのように分節して映像にするかと考えれば、もちろん、日常からかけはなれた世界を構築することも可能だが、あえてそうしないことによって、より強い分節に成功している。カフカの小説でグレゴール・ザムザは奇妙な虫に変身するが、『亀虫』の「亀虫」は、ただ単に寝袋に包まれている。だから、「亀虫の妹」が淡々と料理をしている場面がいい。見つめている視線がいいのだと思った。
■連作短編の第一話ともいうべき、「亀虫の兄弟」において、重要な仕掛けはもちろん面白いが、それもまた、「日常」であり、ごく微細な生活のある部分に想像力を働かせていることによって、「日常」でありながら逆に言うと『帝都東京・隠された地下網の秘密』について書いた私にとって未知だと思っていた「事実」が、ほんとはごく「日常」として存在するという「驚き」と、同じ質の「驚き」、それを発見させる「驚き」がそこにある。と書いても、未見の人にはなにがなんだかわからないと思いますが、えーと、そこは伏せておきます。だから面白かったなあ。笑ったものなあ。いろいろと。
■さらに『亀虫』には、知り合いの、安彦麻理絵と笠木が出ているが、一点、気になったのは、最後に走っている笠木で、しかも走っているそのふくらはぎあたりにカメラを向けるとはなにごとだ。いちばん映してはいけないものにカメラを向けるとは、というのは冗談にしても、よく転ばなかったなと笠木の成長を見た。安彦がまたいい味を出していた。それと主役の杉山彦々という俳優がすごくよかった。だめである。ものすごくだめそうだ。「だめな若い夫婦」における、その「だめ」の深淵ともいうべきものを見事に表現している。こういう夫婦はいっぱいいるのだろうと想像させるものがそこにあり、あたりまえに存在しつつ、しかし奇妙な日常になってしまうこのだめぶりはなんだろうとつくづく思った。

■夜、鍼治療。肩が少し楽になった。それから「新宿歌舞伎町」についての本などを資料として読んだり、ネットで小説のための資料がないかと古書店のサイトなどをめぐる。

(7:03 dec.30 2003)


Dec.28 sun.  「年末である」

■地図ばかり見て過ごす一日だ。
■というのも、ご存じの通り、秋庭俊さんの、『帝都東京・隠された地下網の秘密2』を読んでいたからだった。本の中にも地図は大量に載せられているが、家にある地図でたしかめないといられない。それで地図を見ると、地図好きはつい反応し、いま本に書かれていることと関係のないものまで見えてきて、そっちが気になる。ただ地図を見る。茫然と見る。ただただ地図を見ているのだった。あと、昼夜逆転の生活だ。肩はすごく痛い。
■白水社のW君からメールが来て、オペラシティのなかにある美術館でいまやっている「ジャン・ヌーベル展」を見るので会いませんかとのこと。内田百間(ほんとは門構えに月・以降同じ)の話しなどしたいところだったので、すごくいいタイミングだ。そういえば、元筑摩書房の打越さんからもメールがあり、子育てのあいまに『シンセミア』を一日で読んだという。『シンセミア』を読んでいる母親のいる家庭に育った子どもは、将来、官僚にならないだろうか。建築家でもいいのだ。打越さんからも、仕事のことで会いましょうという話だった。頼まれた仕事で、詳しくは書けないが、なにかいろいろむつかしいことになっている。世の中はいろいろだ。地図ばかり見ていていいのだろうか。

■さて、『帝都東京・隠された地下網の秘密2』だが、後半から出てくるのは、ある都市計画図を出して「ワニの形に似ている」という話だった。これがまったくわからず、さらに東京の地図には「ワニの形」がいたるところにあると展開してゆくがそれがいよいよわからないのだ。ただ、「首都防衛」という見地から八角形に都市を構成する話からそうなるのはわからなくもないが、いかんせん、「ワニ」が見えない。私にはわからない。わかる人がいるだろうか。秋庭さんはわかるかもしれないが、それをもう少しわかりやすくしてほしかった。というか、「ワニ」という例が悪いのかもしれないと思い、考えていると「ワニ」ってどんな動物だっけと、根本からわからなくなる。しかし、前作(『帝都東京・隠された地下網の秘密』)に引きつづき、またしても「そうだったのか」と驚く話は多かった。江戸城の「抜け穴」の考察もすごいが、さらに驚くのはうちの近所の地図だ。
■そこには、新宿西口の過去の地図が三枚ある。いま東京都庁のあるあたりがまだ、「淀橋上水場」だったころの地図で、一枚目は、昭和三年、二枚目が昭和十二年、そして三枚目が昭和二十二年のものだ。一枚目の地図には「淀橋上水場」が示されているが、二枚目の昭和十二年になると、そこは「桑畑」になっている。三枚目の戦後の地図では、また「淀橋上水場」が復活されるが、まあ、それはいい。「桑畑」になっているのは地図ではよくある軍事的な改描だ。「軍事基地」「軍事工場」はもちろん、戦争をしている国の地図にはいっさい描かれないし、主だった公共の施設がこうして「桑畑」になっているのもよくある。ただ、一枚目の地図と、二枚目の地図の、その「淀橋上水場」の場所には、角筈方向から新宿駅方向に、一本の線がカーブを描いて引かれている。しかし戦後の地図(三枚目の地図)にそれはない。あったはずの線がないのだった。それでふと気がつき、最近の地図を開いていまは都庁になっている「淀橋上水場」のあったあたりを見、その線の痕跡がないか探すと、ありましたね、やっぱり、「地下鉄大江戸線」だ。
■「ワニ」がわからなくて、少々、釈然としない思いを残しつつ、東京の地下に対する秋庭さんのさらなるデーモンを見たいと、また期待してしまうのだった。

■夜、白水社のW君に会う。内田百間の話をする。以前、ここで報告した「一日百間」をどうするか相談だ。このノートに毎日少しずつ書こうということでまとまる。毎日かあ。できるだろうかと心配になったが、百間は面白いし、それも自分の勉強だからと、こつこつやってゆこう。秋庭さんのデーモンに負けぬ気合いで読んでゆこう。
■一月二日の催しについて参加したいという者が二名出現。思わず、なにを考えているんだおまえたちはと思った。メールを送ってくれ、すぐに反応してくれてうれしかったけどね。さらにべつの本を読んでいるうちに一日は過ぎてゆくが、テレビに、写真家の鬼海弘雄さんが出ていたので見る。いい仕事をしようと思った。

(5:08 dec.29 2003)


Dec.27 sat.  「横浜に行った話と、東京の地下、再び」

■25日付のノートに間違えがあった。秋庭さんが、『帝都東京・隠された地下網の秘密』で最初に書いているのは、「お茶の水駅周辺」ではなく、「国会議事堂前駅周辺」だった。
■二時間ほどの睡眠で、横浜まで行った。「かながわ戯曲賞」の受賞作のリーディングがあるからだ。なぜ、こんなハードな日程になったかはまたあとにし、まずはリーディングの感想から書いておこう。受賞作『空の驛舎(えき)』の作者、中村賢司君は大阪の人で、作品も関西弁が多く使われている。上演されたときそこに少し違和を感じざるをえなかったのは、仕方のないことだが、関西圏の俳優ではなかったからだ。あと、戯曲を読んだときも気になっていたのは、「物語」「解釈」といった言葉が、劇の言語としては直接的過ぎることで、リーディングになるとさらにそう感じ、つまり俳優のからだを通すとよりそうなってしまう。もっとほかに言葉がなかったかと思うのは、つまり、世界が観念的な印象になるからだ。
■ただ、加藤直さんの演出では「死者」とおぼしき人物が生きている者らと同じ場所にいるのが鮮明になり演劇の可能性をより引き出している。というのも、戯曲を読んでいるときずっとこの「死者」である「ヒロユキ」と呼ばれる少年が僕には、寺山修司の劇に見られがちな「白塗りに学生服姿」に思えてならなかったからだ。そうなるともうなあ、べつの劇だし。あと、「先生」「え?」「先生ですよね」といった、いきなりな、やりとり、つまり「教師」ではないと思っている者が、「先生」と呼びかけられていきなり教師にされてしまうあたりは、もしかすると笑えるのではないかと思っていたが、わりとするっと流れてしまう。そこに不気味さもあるのだし、ことによると、その部分にこそこの戯曲の重要な転換点があり、戯曲の段階で、もう少し言葉を試してもよかったのかもしれない。
■とてもいい環境で行われるこの「かながわ戯曲賞&ドラマリーディング」はもっと普及するべきものだ。今回のリーディングも多くの人に注目されてもいいはずだがなにかひっそりやっている感じがしてとても残念だ。もったいないというか、うーん、世の中はなにを見ているのだ。こういう場所にこそ演劇の可能性がひそんでいるにちがいない。

■金曜日(26日)は
Mac Powerが主催するパーティが夜遅くからはじまった。目黒通り沿い、祐天寺に住んでいたころよく歩いたことがある東横線・学芸大学前駅の近くにあるクラブだった。「かながわ戯曲賞&ドラマリーディング」とは、というか、「演劇」とはまったく異なる世界がここにはあって、それはまた、よくあるMacユーザー界とも異なる空気が漂う場所だった。Mac Powerらしいな。というか編集長の高橋さんらしいと感じていたのだ。翌日、高橋編集長からメールをいただき、「昨日はMacユーザーの新しい集まり方のカタチを模索できたかなぁと思っております」とあったが、まったく同感である。そういえば、アップル社の原田社長を紹介してもらった。このあいだ故障したiBookの修理が早かったお礼を言えばよかったかなとあとで思ったけれど、社長に話してもしょうがないだろう。家に戻ったら午前五時ぐらいになっており、横浜に行くから早く寝なくちゃいけないと思っていたのに、つい、『帝都東京・隠された地下網の秘密2』を読んでしまった。前回書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』の続編である。それで睡眠不足にもかかわらず横浜に向かったということだったのだ。
■ある方から、『帝都東京・隠された地下網の秘密』に関してのメールをもらった。
■メールには、両国の国技館はかなり怪しいという意味のことが書かれている。たとえば、天皇が相撲を観戦するときどこから来るかわからない。「儀式」として存在するもの(たとえば、国会の開会への天皇の出席)は徹底的な警備体制のもと天皇は地上に現れ、厳重な警護のついたクルマで都内を走るが、そうでないものに関しては、考えてみれば天皇は唐突に「ある地点」に出現するのだ。そのひとつに「相撲観戦」がある。国技館と皇居を結ぶ地下道がある可能性はかなり高い。
 国技館が蔵前に移転したのも、また両国に戻ってきたのも、その背後には国会図書館と同じカラクリ(引用者註:『帝都東京・隠された地下網の秘密』参照のこと)があるような気がしてなりません。ちなみに、蔵前の国技館跡地は、東京工業大学の前身が大岡山に移転した後の場所を大蔵省から払い下げられたそうで、いまは水道処理場になっています。
 江戸博の地下も巨大な貯水場になっているみたいです。横網町公園の復興記念館は、かつて陸軍の被服廠だったそうです。終戦後、蔵前に国技館ができるまでのあいだ、明治神宮外苑や浜町仮設国技館で大相撲が行なわれたという事実を知ると、相撲って本当に“国技”なんだなあ、とつくづく思います。
 これだけ読むとちょっとわかりづらいのだが、「地下」に「なにか」あった場合、その処理の多くが「地下貯水池」になっているという「事実」を、「東京の地下を知る基本」として読まなくてはいけないし、「地下貯水池」がある地点は、地下がそれだけで終わっているとは限らないことを示している。で、引用した話から感じるのは「横綱貴乃花」が抱えていたプレッシャーの意味が少しわかることで、つまりあれは「国家」とか「国体」ってものから来るプレッシャーだったのではないか。「相撲」は恐ろしい。それを追及するとある部分から先は踏み込めなくなるのではないかと、恐ろしいものを感じた。
 ついつい人は、地下道っていうと、暗くてじめじめした天井の低い「抜け穴」みたいなものをイメージしがちだが、ここで書く「皇居から国技館への地下通路」は、あの天皇のクルマさえ走ることのできるような、しっかりした造りの「地下道路」だ。エミール・クストリッツア監督の『アンダーグラウンド』のラスト近くでヨーロッパ中をつなぐ「地下道」が出てくるが、あれもあながち空想ではないような気がしてくる。「地下」も「相撲」と同じで恐ろしいよ。ほんとに地下は怖い。だけど、見てみたい。この目でたしかめたい。で、誰かの子どもを建設関係の官僚にいまから育てるという案を思いたった。誰かいないだろうか。そう言えば、知り合いの編集者に子どもが何人かいる。官僚にさせよう。と、地下を探るためだけに「官僚養成プログラム」を妄想していたのだった。

■全然、関係ないけど、いろいろな人に、様々な場所で『ハムレット』を読んでもらう計画だが、一月二日の皇居で読もうと思ったのだった。誰か一月二日に暇な俳優はいないだろうか。しかも危険が伴いますが。

(8:33 dec.28 2003)


Dec.25 fri.  「地図がもたらすもの」 ver.2

■目が覚めたら、午後の四時過ぎだった。すぐにいま見ていた夢をメモする。忘れないうちに書かないと夢ってやつはすぐ消える。あと、いま毎日、「プロットノート」というものをつけていてその日気になった言葉から思いついた簡単なストーリーをものすごい勢いで書いている。それも寝起きがいい。ぼんやりした意識の中でだーっと書くのだ。あとで読むと笑える。
■メールチェックすると永井から「かながわ戯曲賞」のパンフレットへの原稿の締め切りが夕方までだとあって、すでに書いたものを手直ししてまとめメールで送る。そのときの受賞作のリーディングが神奈川県民ホールの小ホールで上演されるのは、27日だった。もう今年も終わるのか。午後五時から鍼治療の予約をしてあったが、行けそうにもないのでその旨、中田先生に電話してべつの日にしてもらった。いま肩がものすごいことになっている。
■きのう(24日)の昼間、新宿高島屋に併設されてある紀伊國屋書店に行き、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(秋庭 俊・洋泉社)を買って少し読み始める。そのあと、夜から「テキスト・リーディング・ワークショップ」があった。今月の「現代演劇の戯曲特集」は本日で終わりだが、最後を締めくくったのは、坂手洋二の『天皇と接吻』だ。これについてはのちほど詳述。

■問題は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』である。
■ワークショップと打ち上げを終えて家に戻ってから読みはじめたが確実に面白い。東京中には推測としては(というよりほぼ事実として)、一九四五年以前までに「政府」「旧陸軍」「東京市」が掘った地下網が無数に張り巡らされている。著者・秋庭俊氏は綿密な調査と推測、謎解き、推測や謎解きを裏付けるさらなる実証の検分と調査で解明してゆく。発端は二枚の市販されているどこにでもある地図だ。二枚の地図の国会議事堂前駅付近に注目する。丸の内線と千代田線が交差しているもの(地図1)と、平行しているもの(地図2)とがあるという発見がまずある。これはおかしい。調査する。さらに奇妙なことをいくつも発見することになるが、「謎」の多くは、「国会議事堂」と「皇居」の周辺にあるのがまた、「謎」への興味をかきたてるし、地下だから、現場に行って確かめることもできないのだ。
■御徒町周辺で道路が陥没した事件は記憶に新しい。あれは戦前に掘られた地下路の陥没にほぼまちがいないという結論になるものの、未然になぜ防げなかったかと言えば、そこにそれがあると誰も知らなかったからだ。つまり過去に掘られた穴が東京の地下でどうなっているか誰も正確には把握していなかった。そんな過去(関東大震災後)に作られた地下工事が70数年後の現在にいたって耐用年数が持たなくなっていることを憂慮した政府は、市民に不安を与えないように保守工事をするが、単に補修工事をしたら辻褄があわず、おかしいだろうということで、たとえば補修工事を新しい「地下鉄路線」「地下道路」「地下駐車場」でまかなうことが実施される。だからあの不可思議な「地下鉄路線」が出来てしまったのだった。「大江戸線」はなぜ突然、出現したのだ。三宅坂ジャンクション付近の首都高に奇妙なトンネルがある。あれはすでに戦前作られていた「地下鉄用のトンネル」を何かに使えるという発想から建設されたと考えられるが背景にはたとえば「旧陸軍」と大手ゼネコン「大成建設」とのつながりが見えてくる。なぜ政府はこの地下網をひた隠しにするか推論は進む。

■ひとつの結論としてはこうだ。「現在ある東京の地下鉄網は一九四五年八月以前にはすべて完成していた」。そればかりか、地上の道路が、地下に掘られた「道路」に追いつき同じ量になったのは、驚くべきことについ最近である。たとえば、地下に幅が30メートルの「地下道路」が作られているとする。しかし70年も前に作られたコンクリートだけにその耐用年数が限界に来ており、まずいと考えて政府関係筋は、その上に通っている幅10メートルの道路の拡張工事を立案する。工事が準備され住民を立ち退かせる。思いあたる話である。御徒町のような陥没事故を起こさないためだ。
■いま明治通りを工事をしている地下鉄も、ほんとはすでにトンネルは掘られており、たとえば、「耐用年数が危険な状態になっていると判断して工事に着手した」とも考えられるし(だって、掘っている土が運び出されるところなんか見たことがないよ)、山手通りの地下にいま工事されている「地下高速道路」の意味はなにか。山手通りそのものも拡幅工事をしている。そう考えると、もう東京の新しい「地下道路」「地下鉄」はすべてが怪しくなってくるのだ。僕はかつて、京王線沿線に住んでいたが、いったいいつのまに、京王線は笹塚以降が地下に潜ったか記憶になく、考えてみればあの人家とビルが密集する地帯でよくそんな工事ができたなと不思議に思う。それをまっすぐ皇居方向にラインを伸ばしてゆけば甲州街道が新宿御苑のあたりで地下に潜る。で、そのトンネル工事のさい、ほんとは皇居方向に伸びる地下網があったがそれを補修するため、地下路の上にあのトンネルを改めて掘ったという推測が成り立たないだろうか(というのは僕の推論)。つまりあのトンネルは二重構造になっていて、トンネルの下にもうひとつの巨大トンネルがあるのではないか。
■この本の興味の中心は「謎解き」にある。そして、歴史ミステリーじみてくるとき、いわゆる「トンデモ本」的な印象になりかねない危惧を感じつつ、なおリアリティを保証するのは、実際、その地下の上に私が住んでいる事実があることだ。その地下鉄を利用していることであり、つまり身近にあるにもかかわらずそれが不可視だからだ。地下は見えない。ひとつ壁を壊すとそこに見たこともないような光景があるかもしれない。著者は実像を少し曖昧にしており、それというのも、そのことを書いたら本そのものが出版できないところまで検証が進んでいるからだ。NHKの「プロジェクトX」という番組は素材となるべきプロジェクトがほとんどなくなり、過去の再放送でお茶を濁している。「地下鉄」や「首都高」というとんでもなく巨大なプロジェクトは取り扱われていないが、もしかしたらそれを企画したスタッフは取材の過程である地点より先に進めなくなったのではないか。つまり「地下」はタブーなのである。タブーではない「地下」として、「東京ジオサイトプロジェクト」は存在する。というか、「東京ジオサイトプロジェクト」の端緒もまた、一九四五年以前からあったと考えるほうが妥当だ。
■だからあらためて考えると、なぜ「タブーか」が一番の興味になる。筆者は何度も繰りかえし地下鉄工事関係者らの残した文献から発言を引用する。そこには「一九四五年の時点ではすべての地下路線が完成していた」とか、「東京の地下には無数の道がある」と言葉にしていないが、それを「匂わせている」といった意味の表現で例証する。資料の言葉から「地下の存在」を推理するが、疑問になるのはどうしてはっきり「証言者」たちが言葉にできなかったかであり、そこに説得力がないと「推理」は推理だけで終わるばかりか、むしろ「妄想」による資料の引用になってしまう。ただわかるのは、とても繊細な手つきで、秘密を披瀝しているところだ。ところどころ、なにが書いてあるのかまったくわからない文章を読むことになるが、それはつまり、ぼかしである。ぼかすことで証言者を特定しない。ぼかした言葉からニュアンスを汲み取ってくれるよう読む者の想像力に期待する。後半、いきなり「諜報の地図」の話になるが、この唐突さがすごいし、一瞬、なんのことを書いているのかわからない。ちょっと妄想めいていないかと疑いたくもなるのだが、しかし言われてみると正しいし、そこが想像力の面白さでもある。いちいち地図を参照しつつ読まなくてはいけないのはひどく読みにくいところでありつつも、しかし、それがまた「地図好き」には魅力になる。政府の人間が乗るためだけの地下鉄、皇室が使っているのだろう地下道路は、国会や皇居周辺に確実にあるのだし、国会付近どころか、都内のそこかしこを走っているにちがいないのだ。
■そして重要なのは、これは小説だということだ。なにをどんなふうに書いてもいいという形式としてある小説として読むことにおいて、これはとてつもなく面白い本である。そして「タブー」の正体もまた本書に微妙に記述されている。

■さて、「テキスト・リーディング・ワークショップ」も終わり、参加していたMさんから感想のメールをもらった。Mさんとは何年か前、湘南台市民シアターの舞台を一緒に作ったことがある。メールにこういう一節があった。
 宮沢さんのホームページは以前から毎日読ませていただいていますが、その量の多さ、更新の勤勉さ、内容の真摯さという点で、他の演劇人のホームページにはない圧倒的なものを感じています。毎日読んでいるとついつい宮沢さんの脳の中を一緒に探検しているような錯覚に陥ってしまいますが、演劇、ダンス、文学のみにとどまらず広く芸術、思想、歴史にまで言及されるのでたいへん面白いです。
 ホームページの言葉はより生に近い部分で書かれていると思いますので、より生々しく宮沢さんの内なるデーモン(狂気)のようなものを感じます。文学や演劇に対するあくなき模索というか、執念というか…、そういうデーモンです。太田さんの演劇論を読んでも私はそのようなデーモンを感じます。
 ここで書かれている「デーモン」とよく似たものを、『帝都東京・隠された地下網の秘密』の著者に見たのだが、そこには「地図」という象徴が存在する。おそらく著者の秋庭さんは、鉄道マニアだと思うが、それ以上に「地図に魅せられた者」なのではないか。だから『帝都東京・隠された地下網の秘密』には、「狂にして聖なるもの」としての「地図」が垣間見える。僕もきっとそうなのだと思う。そのことにとても共感した。しかも秋庭さんと僕は同年齢だし。調べたところ、『帝都東京・隠された地下網の秘密』はすでに続巻が出ているらしい。読もう。こうなったらこの不可解な闇の世界にとことんつきあおう。東京の地下はさらに深い。

■あ、そうだ、坂手洋二の『天皇と接吻』の話だ。この作品と『帝都東京・隠された地下網の秘密』はどこかリンクしている。読み応えのある戯曲だったがきょうは長くなったので詳しくはまた書こうと思うわけだが、つまりですね、「戦後」についてもっと考えようと思ったことがあり、大澤真幸さんの言葉を引用させていただければ、「戦後という時間の切り方で考えていくことに意味があると僕は思っているんですけれども、その理由は、ちょっとわざと刺激的なというか覚えやすい言い方をすれば、それは現在が戦前だからなんですね」ということになるのだ。

(10:28 dec.26 2003)


Dec.23 tue.  「いろいろメールをもらう」

■その後も「地下地図」についてのメールをいくつかもらった。以前、白水社のW君からも面白いと教えられたが、編集者のE君からメールであらためて教えてもらったのは、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(秋庭 俊、洋泉社)である。きょうも本屋に行ったが、つい買うのを忘れた。いつ行っても忘れるというか、つまり本屋に行くのに目的があるからいけないのだ。最近、ぶらっと入るように本屋を流していないのだ。
■本屋というのは「目的」が出現してしまったら終わりの場所で、特に古本屋など、目的もなくぶらぶら歩き、そこで見つけた本との宿命的な遭遇を楽しむところなのだった。それで私ももうずっと過去、ある本に遭遇して人生を棒にふった一人だが、人生は棒にふるべきものなので、だからこそ、本屋へ、古本屋へ、図書館へと、人は出かける。そして人生を棒にふる。そういうふうにできているのだから逆らおうとしても無駄である。で、それはともかく『帝都東京・隠された地下網の秘密』をほかの本と一緒にアマゾンに注文したら配達が一ヶ月後だとあって、そんなには待っていられない。
■あるいは、Yさんという方からは、地下設計図資料集成というサイトを教えてもらったが、これは建築の専門家による細密なフィールドワークのようだ。さらに、東京の窪地について教えてくれたのは、たとえば渋谷もそうだが、「大久保」が名前の通り「窪地」だったという話だ。
大久保といえば歌舞伎町の隣ということもあり、風俗営業や多くのアジア系外国人が居住している街というイメージはよく知られていますが、と同時に、大きな窪地であったその自然の凹みの底に、かつて小泉八雲・島崎藤村・外川秋骨・国木田独歩ら文学者たちと時期を同じくして内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦・石川三四郎・荒畑寒村・大杉栄・梅谷庄吉・孫文・蒋介石・北一輝ら多くの思想家が住んでいた歴史があります。時期は日露戦争終結後。赤旗事件・大逆事件の頃です。それは東京の地下というよりも、まさしく窪地の凹みに眠る史実として興味深く、御報告いたしました。詳しくは雑誌「群居34:在日的雑居論」に記載されています。
 それは知らなかった。というか、大久保が「窪地」だということすら気がつかなかった。東京に住んでいると「地形」がよくわからない。そこで重要なのが自転車で、昇り坂があれば必死にこがなければいけないし、下り坂は逆にとても楽しい。歩きだと気がつかない微妙な坂も認識することができる。言われてみれば高田馬場方面から大久保に向かうとぐぐっと下がってゆく。それはクルマでもわかる。地名に「地形を示す言葉」がある土地がそうであることを見えなくしているのが、「都市」ということだろうか。つまり「地名」を不可視のものにしてしまうことが「都市化」ということになる。面白くてまた地図を見る。

一日百間(ほんとは門構えに月)河出書房新社から出ているムックっていうのでしょうか、「KAWADE夢ムック」で「内田百間(ほんとは門構えに月)」の特集が組まれておりこれまでも何度もこうした特集はあったと記憶するが、読めばそのつど楽しませてくれる。三島由紀夫が『日本の文学・34』(中央公論社)に寄せた解説で百間について書いているのは次のようなことだ。
 もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、随一の文章家ということになれば、内田百間(引用者註*ほんとうは門構えに月)氏を挙げなければならない。たとえば、「磯部の松」を読んでも、洗練の極、ニュアンスの極、しかも脆弱なところのない、墨痕あざやかな文章というもののお手本に触れることができよう。
 べたほめである。なかでも注目したいのは、「洗練の極」、「ニュアンスの極」の部分で、そこに百間の文章が今日にあってなお、読みつがれる理由の一つがあると思われる。どこかで読んだのは、百間と同じように、森田草平ら、何人もの漱石門下の文学者がいたはずだが、森田草平をいま誰が読んでいるだろうという話だ。読もうとすれば図書館にでも行かなければならない。百間はいまでも文庫で簡単に手に入るところがすごい。三島はさらに、「恐怖」について泉鏡花との表現の質を比較し、「百間(引用者註*ほんとうは門構えに月、以下同様)は同じ鬼気を描いても対蹠的な場所にいる。百間の俳画風の鬼気は、いかにも粗い簡素なタッチで表現されているようでいて、その実、緻密きわまる計算と、名人の碁のような無駄のない的確きわまる言葉の置き方によって、醸し出されるのである」と書いているが、これもまた的確な解説だ。「名人の碁のような無駄のない的確きわまる言葉の置き方」という部分である。以前、書いたように、「一日百間」を本気でやろう。それでもっと勉強したい気持ちにあらためてなった。
■寝屋川のYさんからもメールがあった。ノートが更新されていなかったので心配していたが元気そうだし、再開した日記の「アルフィー」には笑った。
■さて、サッカー天皇杯は、きょうの結果を受けて準決勝(27日)で「清水エスパルス」と「ジュビロ磐田」が対戦することになった。BSでジュビロの試合を見ていたが、いろいろ言われているジュビロも、河村、前田、成岡ら若手が育っている印象を受けたし、来年は、市立船橋のFW、カレン・ロバートが入ってくるのが楽しみだ。中山は途中出場する機会が多くなったものの、それでも懸命に走っている。それだけを見に、次の試合、エスパルスとジュビロ戦を見に埼玉に行こうとすら思った。どっちが勝ってもいいから見ていて気が楽だし、サッカーそのものを堪能したい。ほかに読んでおくべき本を読みつつ一日は終わる。

(5:20 dec.24 2003)


Dec.22 mon.  「神話的思考と物語について」

■ほぼあきらめかけていたのは、「資本論を読む」だが、ノートを更新したあとも、本を読み、ネットをいろいろ徘徊などしており、しかし、マルクスの生涯を思い出しつつ、ここであきらめてはいけないと執筆を進め朝10時ぐらいに書き上げた。そうだ。『資本論』を書いたマルクスの仕事に比べたらこんなものはたいしたことではないのだった。っていうか、もう、私の生き方そのものがたいしたことがないわけだが。
■で、今回の原稿を書くにあたって参照したのは、中沢新一さんの「カイエ・ソバージュ」シリーズの『愛と経済のロゴス』(講談社)だが、引用するために必要な部分だけ再読しつつなにか憂鬱な気分になるのは、たとえば中沢さんが「純粋贈与」について書いたときその理想と考えられる社会の仕組みなどほんとうに可能かどうか、理想はたいていの場合、裏切られるとすれば、いよいよ暗い気分を増幅させる。とはいえ、歴史的に考えると、いま所与のもののように存在している「資本主義経済」もまた、かつては存在自体、誰も想像していなかったシステムだ。それが破綻するときがきて、新しい経済の仕組みが現れるとしても、人にとって幸福な「理想」になっているかどうか想像できないといったことを考えていたら、また憂鬱になる。この「憂鬱」は、「絶望」になってしまうのだろうか。
■それで私は、ぜんぜん関係なく、「天皇」について考えていた。それにまつわる、この国の「神」の系譜について調べると、知らなかったことが数多く、たとえば明治の初期に起こった「祭神論争」などひどく興味深い。書くと長くなるのでものすごく簡略すると、明治の新体制の国家において、この国の神をどうするかという議論が起こった。国を造ったとされる三神とともに、いわば太陽神であるところのアマテラスが入るのなら、なぜ、幽界の神オオクニヌシを入れないと出雲大社が反発したという。つまり、伊勢神宮と出雲大社とのぶつかりあいで、「神」の性格のコントラストも見事だが、それぞれの神社がある地形的にも面白い。伊勢神宮は太平洋に面する三重にあり、対して出雲大社は日本海に面する島根にある。伊勢の名物といえば「赤福餅」だが、出雲といったら「出雲そば」だ。関係ないけど。ここに多様な「神話的思考」が生まれるように感じたのだった。いや、出雲そばじゃなくて、「祭神論争」が想像させる物語だ。決着は明治の終わりまで続く。そして、この物語を引き継ぐ者として召還されるのが「大正天皇」だが、これ以上は長くなるので、例によって、またにする。ただ、『大正天皇』(朝日選書)はかなり面白い。あと、河合隼雄さんの『神話と日本人のこころ』(岩波書店)は中沢さんの「神話的思考」とかなり通じるものがあって興味深い。

■東京の地下はどうなっているのかと書いたら、何人かの人から、「東京ジオサイトプロジェクト」のことをメールで教えてもらった。サイトで紹介されているのは、地下構で公演された「能」の舞台で、一度、こんな場所で舞台をやってみたいと思った。ただ、うーん、これだけで東京の地下がわかったことになったかは少し疑問だ。なにかまだあるだろう。天皇にもまつわるなにかが。そこに「東京の地下」という「物語」がやはり生まれるのだった。
■夜、夕食を食べに外に出た以外は、家でじっと本を読んでいた。天皇のことを考む。夕食のときクルマで六本木に行ったのは青山ブックセンターが夜遅くまで開いているだろうという目論見だったが六本木周辺はどこにもクルマが止められず、仕方なくあたりをぐるっと回って帰ってきたが、六本木ヒルズのあたりは人でひどくにぎわい、イルミネーションもすごかった。
■それからまた、気持ちは北関東へ、渡良瀬川遊水池へ行く道を調べるので地図を見ていたが、「テキスト・リーディング・ワークショップ」にも参加しているKさんから「野牛」という地名が北関東にあると教えてもらった。以前もべつの人から、教えてもらったことがある。見れば、奇妙な地名が次々と見つかる。「部屋」って地名はどうなんだ。「ベランダ」という地名はさすがになかった。「ベランダ」は「オランダ」によく似ている。どうでもいいことだが。

(9:07 dec.23 2003)


Dec.21 sun.  「地図を見る日々」

■土曜日、制作の永井とカメラマンの引地さんが家に来た。プロフィール用の写真を撮影。写真を撮られるのはやっぱり照れる。それでも自宅だからこそリラックスできるというのもあるし、引地さんの人柄が緊張をほぐしてくれる。撮影後、来年の活動予定などを永井と相談し、着々と準備は進んでいるのだが、じつは来年、「男優限定」というオーディションをやることにした。告知期間が短いので広く伝わらないかもしれないが、また新しい人に出会えればいいと思うのだった。近日中にこのページやトップページで告知予定である。制作アシスタントというか、いわゆる「お手伝い」も募集する。
■そして原稿。「資本論を読む」の締め切りが今月に限って二回あるのだった。どうしてなんだ。正月休みなのだろうなあと思いつつ、『資本論』を読むが、いよいよ第二巻になったものの、第一巻と第二巻とで、なにか変化があるかといえばべつになく、これは分量を計算してたまたまここで分冊したに過ぎないのだった。だから、「いよいよ第二巻だなあ」といった感慨などなにもないまま、第二巻のページを開くと、「第八章・労働日」だ。あと、考えてみれば、『資本論』だけを毎日読んでいてもいいようなものだが、そうはしないで連載の締め切りが近づくと少し読むというスタイルを取っているのはべつにそういう方針でもないのに、変である。ただ、「『資本論』を毎日読む」ことができていたら、こういう連載をしていなかったのではないか。できないのだ。できないからこの連載をはじめたし、仕事があるから読むといっても過言ではない。そうでなければ読めないという、まさにそのことを「書くこと」が、「資本論を読む」だ。
■で、書けないので困っている。困っているあいだに、「
Mac Power」の連載と、「かながわ戯曲賞」の受賞作がリーディングされるそのパンフレット用の原稿を書いた。そしてこのノートを書いている。

■いくつかメールをいただいたが、ここで公表するのに差し障りがあるのじゃないかと思うのは、京都のある寺院の近くにあるコンビニでバイトしているという方からの話だ。ものすごく面白かった。その方の開いているサイトも紹介したいが、やっぱり話の面白さを紹介したいとなると、この方の正体は伏せたほうがいいと思うし、けれどサイトも紹介したいしで、悩むのだった。
■あるいは、何度か書いている「北関東」の出身だというSさんは建築家の方である。出身の高校には、まさに「栃木」「茨城」「埼玉」「群馬」から生徒が集まっていたそうで、話を読ませていただくと、もう「北関東」そのものだ。また地図を見る。Sさんの出身地という町も地図で見つけた。で、その四つの地域が混じり合うあたりに、「渡良瀬遊水池」があり、Sさんのメールにも書かれていた。調べると「渡良瀬遊水池」には歴史があった。「田中正造」という名前がここに出現する。「地図」は、単に、地形をグラフィカルに表現した平面的なものだが、それを見ていることから、様々に喚起されるという意味では、あきらかにただの「平面」ではない。
■それにしても、「東京地底地図」といった正確な東京の「地下」を図像化されたものはあるのだろうか。東京の地下はいったいどういったことになっているのだ。わからないことだらけの東京の地下だ。まあ、とにかく「地図が好き」というだけの話だが、そんなことよりいまは原稿である。

(4:35 dec.22 2003)


Dec.18 thurs.  「牛久に行く」

■少し早起きをして茨城県に行ってしまった。
牛久巨大仏・遠景 ■牛久の「巨大仏」である。桜井圭介君に誘われてつい見てしまったのだった。きのうの「テキスト・リーディング・ワークショップ」が終わったあと行かないかと誘うと、『トーキョー・ボディ』に出ていた淵野と田中が行きたいというので、クルマで行こうと決めたが、朝になって淵野は行けなくなったという。田中を乗せ、新宿から首都高に入るとものすごく混んでいた。常磐高速道に入ってようやく快適に走れたものの、それでどれほど時間をむだにしたかわからない。常磐高速道の「谷田部」というインターチェンジからさらに牛久は遠い。そこらを走っているとき、「水海道」という地名が目に入り、それがどこかで聞いたような、しかしべつにそんな土地に縁がないのだが、どうもひっかかると思いつつ走っており、帰りにようやく思い出した。あとであらためて書く。
■とにかく「巨大仏」である。ようやく「牛久大仏」と文字のある看板を発見してしばらく走っていると、田中が「あ」と声をあげたのだった。林の向こうにいきなり見えたという。運転している僕は見逃した。途中の道でいったんクルマを路肩に止め、そこで撮影することにした。遠目の位置からつくづく「でかい」とながめているとき、背後からバスが来る。その直前、桜井君から携帯に電話がありこれからバスに乗ると連絡があったので、おそらくそのバスだろうと見送ったところ、案の定、バスの最後部に桜井君と、桜井君が教えている東京芸大の学生たちの姿があった。バスを追うように、大仏に急ぐ。ますます大きくなってゆく仏である。ほかに言葉が思いつかなかったので凡庸なことを口にして申し訳ないが、とにかくでかい。「でかい」としか言いようがないものの、しかし比べるものがないので、写真に撮るのはもちろん、実際に見ているわたしたちも実感ってやつがわいてこない。口々にみんな、「でかい」と言う。とにかくでかい。
巨大仏と女たち  今回は、桜井君のやっている授業(授業の名前を教えてもらったが忘れてしまった)の一環ということで、一緒に来ないかと桜井君からメールがあり、それで行くことになったのだった。予定を少し過ぎ、午後二時近くになってようやく到着。桜井君の学生たちは全員、女の子だった。いったいここになにを期待して来たのだろう。まあ、巨大なものを、それも「仏」を見たい気持ちで来たのはわかるが、おそらく信仰心ではないのであって、「巨大なものを見る」という好奇心か。とはいえ、「でかいもの」を見ると人は一種の畏怖を感じるが、その畏怖をどうやって実感することができるかめまいのようなものを感じるのは、でかいものを目前にしても、よくわからないからだ。まず比べるものがない。デジカメで撮ってもそれは伝わらないだろう。
■奈良の大仏より、高さにして七倍あるはずだが、奈良であの大仏を見たときもやはり、「でかい」と私は口にした。だとしたら七倍のものにはそれなりの反応、「ものすごくでかい」があってもいいはずだが、言葉がうまく出てこない。奈良の大仏は、それを覆う「建築」にしろ、大仏本体にしろ、「歴史」としての意味を大仏それ以外のところで感じるが、「牛久の大仏」に歴史性はない。けれどある種の「いかがわしさ」があり、それはそれとして面白く「キッチュ」って言葉で表現すればいいかよくわからないが、なにやら奇妙な感覚に襲われる。とにかくでかい。「でかい」としか言葉が出てこないよくわからない場所に人を連れてゆく。

■で、ここで驚くべきことが発生した。大仏の胎内に入ってその展示を見ることが本来ならできるが、一年にいっぺん二日間だけメンテナンスの時期があり、ちょうどこの日がそのメンテナンスの日だったのだった。よりにもよってなんという日に来てしまったのだ。まあ、年の瀬もせまり、クリスマスも近いこの時期の、しかも平日、牛久まで大仏を見に来るという人間はめったにいないというか、それはよほどのばかものである。
猿のショーは休演 ■しかたなく私たちは、園内にある池の「鯉」にえさをやり、「動物ふれあい広場」みたいな場所で、「やぎ」「うさぎ」「りす」を見ていた。大量のりすがえさを食べている図は表現するのがむつかしいが、何か遠目に見ると虫が大量発生しているようにも見える。ほんとは猿のショーもあるのだが、この時期はお休みである。
■で、それとはべつに、持参していた『ハムレット』の文庫を田中に渡し、そのオフィーリアの台詞を朗読させそれをビデオに撮っていた。「大仏とハムレット」である。そのとき不思議なことが起こったのは、桜井君の教えている学生の一人が原文の『ハムレット』を持っているというので、田中の日本語と、その彼女の英語で並びながら歩いてリーディングする姿をビデオに撮影。そして大仏。よくわからないが、いいものが撮れた。原文の『ハムレット』をかばんに入れている人がたまたまいるということがわからないじゃないか。とても感謝したというか、またその人にどこかで原文で読んでもらいたいと思ったのはかなり英語が堪能と見えたからである。

■夕方になって「牛久大仏」をあとにする。夕食などとり、それで常磐高速道の谷田部インターに向かう途中、やはり「水海道」という地名を道の方向を示す標識に何度か目にしてようやく思い出したのは、その地名に不思議なことを感じたことがあったからだ。一年ほど前だっただろうか、ある日、携帯電話に見知らぬ番号から電話があった。そのときは気がつかなかったが、あとで不在通知を見、しかし、その市外局番「0297」は見たことがなかった。興味を抱いてためしに掛けてみることにした。するといきなり、「セブンイレブン水海道××店です」と相手は言ったのだった。この「××」のところがよく聞き取れなかったものの、とにかく「水海道」という場所らしい。どこかいよいよわからないし、そもそも、「セブンイレブン」から電話をもらうのが奇妙だ。地図で調べてそれがどうやら茨城にある地名だと知ったし、市外局番とも合致している。
■それで行ってみようかと思ったがやはりやめることにしたのは、少し疲れていたからだ。谷田部インターまでの道を間違えて、遠回りをしたあとだ。そして、このあたりも「北関東」だということを思い出した。地図を見るのがもともと好きだが、北関東に相当するのは、「埼玉北部」「群馬」「栃木」、そして「茨城」だが、その四つの地域が、ぶつかりあう土地があるのを地図で知った。こんどはそこに行ってみよう。なにもない場所かもしれないが、行ってみたくて仕方がない。「水海道」にもいつか行ってみよう、なにか見つかるかもしれない。というか、見つけるのは僕の目なのだが。
■とにかく、牛久の大仏は巨大だった。おととい、ペドロ・コスタ監督に会い、きょうは大仏。いろいろである。

(16:24 dec.19 2003)


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