富士日記2PAPERS

Nov. 2006 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Nov. 26 sun. 「横浜に行ったことと、この一週間ほど」

■舞台が終わってからもなにかと忙しい。だけど、なにより問題なのは腰の痛みである。まだ調子が悪い。まともになにか考えることができないのと、このノートが書けなかった。青土社のMさんから、『鵺/NUE』の感想が長文で送られてきたのは、深夜だった。とても内容が深く恐縮する。そんな時間に起きている私も私だが、「かながわ戯曲賞」の候補作を読んでいたのだった。それにしても神奈川県というか、横浜というか、この数年、やけに縁ができ、きょうは「BankArtStudioNYK」に行った。というのも、NYKで開かれる「カフェライブ」という催しがあり、公募制なのだが、その審査員を頼まれたからだ。80以上の応募作があり10数組が候補として絞られた。審査員は、私のほかに、ニブロールの矢内原美邦さん、音楽批評の佐々木敦さん、そして前田圭蔵さんだ。こうした審査は面白いのだが、腰が痛くてしっかり考えることができなかった。だめだなあ、こういうときこそ万全の体制でないとね。
■その後もいろいろ仕事はしており、もちろん駒場と早稲田の授業があり、駒場には『バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代 』の著者である原宏之さんをお招きして話をうかがった。とても興味深い話ができた。そのほかにも、鍼治療を受け、あるいは、佐藤信さんが主宰する鴎座の『ハムレット/ハムレットマシーン』を観に神楽坂にある黒テントのスタジオに行ったし、九月に公演した早稲田の「演劇ワークショップ」の報告会が土曜日にあって久しぶりにそのとき受講していた学生たちに会った。でも、ずっと腰は痛かった。鴎座を観た日、そこに柄本明さんがいらっしゃり、いきなり「あなたも腰がだめなの?」と話しかけられた。しばし腰について話しを聞かせてもらったわけだけど、柄本さんが腰について話しているのを聞いていられるというのはですねえ、こんなに贅沢なこともないと思うんだ、俺は。かつて京都造形芸術大学時代、授業中、こちらの授業で、ばかでかい音をCDデッキから流していたら、そこに隣で授業をしていた観世栄夫さんがどなりこんできたくらいの贅沢だ。あのときは、つまり私が怒られたわけですけど、贅沢だよなあ、観世さんが怒鳴りこんでくるというのを体験できることはさ。
■鴎座を観て、これが佐藤さんのやりたいことなのだなと確認できた気がする。そしてそれは、やはりどこかにかつての黒テントの感触があるが、もちろん現在形だ。また劇の言葉について考えた。「わたしはハムレットだった」という過去形の言葉を発したハイナ・ミュラーには必然があった。その本質を考えるのはむつかしく、「いま、この国で」その「過去形」の劇言語を発せられる「身体」は「ない」という前提でしか、いまこの国では言葉を考える契機は存在しないのではないだろうか。前述した青土社のMさんのメールには、いま言葉について真摯に格闘している一人として詩人の吉増剛造さんの名前があげられていた。だが、そうした人たちの格闘と、学生と話しをしたときの感触との距離をどう考えたらいいのか。あるいは、「BankArtStudioNYK」の「カフェライブ」に応募してきた人たちとの言葉や、「かながわ戯曲賞」に応募してきた人たちと、吉増さんの言葉の距離をどう考えていいのだろう。「世代」の問題にするのは有効ではないような気がする。みんな並び置かれている。そして、いくら「へなへなの言葉」だとしても、そこにいたるまでにどれだけのことが考えられたかという蓄積が言葉にこもっているかどうか検討するのは当然だ。だからなおさら、読む力が試されるのだろう。

■横浜は海がすぐそばだ。NYKのテラスで煙草を吸おうとするととても寒かった。腰が痛い。第三京浜をクルマで東京に戻る。家に戻って、「かながわ戯曲賞」の候補作をまた読む。あれっと思うまに今年も終わろうとしているではないか。原稿の締め切りがあるのを思いだした。小説も書かなくては。

(13:50 Nov, 27 2006)

Nov. 21 tue. 「どうもありがとうございました」

■いろいろ書きたいことがあり、そして、『鵺/NUE』という舞台について考えたことを記しておこうと思うのだが(というか、途中まで書いたが)、どうもまとまらないので、また今度ってことで、そうこうするうち、やがて日常に戻ったのである。
■19日(日)の楽日もまた、大勢のお客さんが劇場に足を運んでくれた。ありがとうございました。それから友部正人さんと奥さんのユミさん、「ユリイカ」のYさんがいらした。「MAC POWER」のT編集長は二度、観てくれた。あ、そうそう、三坂とカシカワも二度目。ほかにもたくさんの方に挨拶した。そして打ち上げ。若松さん、上杉さん、中川さんといろいろ話しができた。楽しかった。腰に激痛を感じた僕は少し早めに席を立った。俳優とスタッフ、そして世田谷パブリックシアターにただ感謝するばかり。みんなどうしているだろう。また次の仕事に入っているのだろうな。それで僕は、20日(月)ときょう、ぼんやりと過ごしていた。久しぶりにゆっくり本を読む。さらにあしたの駒場の授業の予習だ。『バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代 』の著者である原宏之さんをお招きする。きちんと予習しようと、『バブル文化論――』を再読し、メモなど取る。でもやっぱり、舞台のことを考えてしまうのだが、それについては、また後日。書きたいことは山ほどあるのだ。また考えたこともいっぱいある。稽古があり、そして公演があり、その日々のなか、演劇って、ほんと面白いなと、つくづく思う。まあ、仕事なんだけど。けれど、あしたになれば、今度は小説が面白くなっているかもしれない。
■今年は二月のリーディングにはじまり、ずっと舞台の仕事をしていた気がする。忙しかったと過去形にならないのは、まだ、この先も忙しいからだ。大学がある。それも仕事だが、大学は大学で、楽しくて、それというのも、いやでもなにか準備してから授業にのぞまなければならないからだ。というわけで、ともかくたくさんの方に感謝しております。次の舞台は来年の九月。で、そのプレビュー公演が、二〇〇七年四月からはじまります。半年かけての舞台作り。ぜひともよろしくお願いします。

(0:38 Nov, 22 2006)

Nov.18 sat. 「楽日を目前にして」

■いよいよあと二回。世田谷パブリックシアターで稽古をはじめて約二ヶ月、家と三軒茶屋の往復の毎日(もちろん、休みもあったし、大学には行っていたが)、それがあと一日で終わる。プレビュー公演があった日はまだずいぶん先のことだと思っていたが、過ぎてしまえば、あっというまだな。様々な意見を聞かせてもらった。内野儀さんにいたっては、三回観ていただいた。それでようやくコメントしてくれた。東大の表象文化で内野さんの同僚のフランス人(と一度は書いたが、いまフランスにいるY君の指摘で、パトリックさんは、ベルギー人だと知ったのですが)のパトリックさんが、やけに感激していたのでとてもうれしかった。白水社のW君も二度観てくれた。新潮社のN君も来てくれて、またいつものように、的確な意見をしてくれる。N君の言葉にはいつも励まされるし考えることをうながされる。ほかにも、「MAC POWER」のT編集長など、この数日、たくさんの方が来てくれた。あ、「en-taxi」のTさんも来ていただいたのに、腰が痛くてロビーに上がっていけず、会えなかったんだな。あるいは僕がいないとき、「文學界」のOさんもいらしたとのこと。いろいろなことがあったし、ポストトークをはじめ、公演のあいだに楽しみにしていたことがいくつかあったものの、ただ、これまでの公演と異なるのは、大学があったり、どこか、どっぷり芝居漬けになっていた感覚になれなかったことだ。忙しかった。そして、舞台をやっていると世界が劇場だけで閉じこもりがちになるが、しかし、外側ではそんな個人的な思いとは異なって、べつにいつもの通りに動いている。それをなにか客観的にながめられたように思う。いつも舞台があればお祭り騒ぎだった。今回はなにかがちがった。制作システムがいつもとはちがったこともあってそれはより強かった。稽古のときからとても贅沢にやらせてもらってとてもうれしかったし、若松さん、上杉さん、中川さんら、はじめて一緒に舞台をやらせてもらえる方たちと仕事をするのはとても勉強になった。これも大事だけれど、だからこそ、もうひとつなにかちがったのだな。とてもいい経験だ。これをきっかけにまた異なる場所に行けるように思えた。
■舞台の反省点なども含め、今回の舞台についてのまとめは、また楽日が終わってから書こう。自分の覚え書きのためにも書いておかなければ。あ、そうだ、事件だったのは、きょう劇場を出ようとしたら、田中の出待ちの人がいたことだ。慣れないサインをしていた。でも、そうやって一緒にやっている女優にファンができるのはうれしいな。しかも、田中は僕のワークショップの出身だから、こっちまでうれしい気分にさせられた。今週は、大学でもいろいろあったが、それはまたまとめて書こう。とにかく、舞台はあと一回になってしまった。なんだかさみしい。

(9:08 Nov, 19 2006)

Nov.13 mon. 「僕がいま書いているのは現在のことだ」ver.2

■誤解されると思って一部書きかえた。
■そういえば、ちょっと気になったことがあったのは、このあいだある方が『鵺/NUE』を観て、「懐かしい」と言葉にしていたことだ。考えてみれば僕には、清水戯曲に対して「懐かしさ」がまったくない。というのもリアルタイムで観ていないからで、むしろ、「懐かしい」という言葉を耳にして、あ、そうなのかと、驚いたほどである。もちろん戯曲は20年以上前に読んだが、そこはちがうのだな、なんだろう、体験のちがいからくる感覚的な差異か。しかし、「懐かしい」とおっしゃった方は僕よりも若く、清水邦夫・蜷川幸雄の「現代人劇場」「櫻社」はおそらく体験していないはずだ。とするならそれはなにか。ことによったら、清水さんの「言葉」に、「懐かしさ」を喚起させるなにものかが、あらかじめ存在するのではないだろうか。このあいだ、朝日の山口さんと話したとき、清水戯曲を語るに際し「ノスタルジー」という言葉を山口さんは否定的に口にしていたけれど、清水戯曲を考えるうえで、これはなかなか興味深いテーマだと思ったのである。
■たとえば、過去の戯曲、それはシェークスピアでも、ギリシャ悲劇でもいいが、それを上演するにあたって、誰か「懐かしいなあ」と口にする者がいるだろうか。チェーホフでもそうだがけっして「懐かしい」はずがない。だって、その「過去」はかなり遠いわけで、誰も体験していないわけだし、懐かしがりようがない。しかし、「懐かしいという感情」はきわめて微妙な主観だ。なにかの小さな動きによってそれは出現してしまう。ヴァルター・ベンヤミンがそんなことをなにかに書いていたような気がし、あれじゃないかと見当をつけて「歴史哲学テーゼ」を読み返したのだけれど、全然関係ない興味で読みこんでしまった。で、そんなおり、いまコクーンでは清水さんの『タンゴ・冬の終わりに』が蜷川さんの演出で公演されているのだと新聞で知った。ああ、そうだった、観たかった。来年の3月31日、清水さんが多摩美をお辞めになるにあたって記念のシンポジュウムのようなものがあり、それにゲストで呼ばれたのだった。観ておかなければな。それからあらためて清水さんの戯曲をよく読んでおこう。
■それと思いだしたのは、スガ秀実さんをお呼びしてポストトークを行ったとき、聞こうと思って忘れていたことだ。そのときスガさんはアングラ演劇は「六〇年代的」であり、しかし、「六八年的なるもの」とは異なると話していたこと、それに応接するべきだと思ったのが『鵺/NUE』でもっとも引用した清水さんの『ぼくらが非情の大河をくだる時』が一九七二年の十月に上演されていることであり、それはスガさんが、『1968年』(ちくま新書)の最後に言及している、いわゆる「連合赤軍事件」のあった年だったこと、そして、「六〇年代的なもの」とは異なる「六八年的なるもの」が演劇の世界に出現したとスガさんが指摘する「つかこうへい」は、『熱海殺人事件』で七三年になって注目されたという事情を踏まえ、『ぼくらが非情の大河をくだる時』を起点に話しておくべきことがもっとあったことだ。つまり、「六〇年代的」とスガさんがおっしゃった「アングラ演劇」は、スガさんが書かれた『革命的な、あまりに革命的な』や『1968年』によって分析されたニューレフト運動と随伴していたことはあきらかであり、だとするなら、「アングラ演劇の終焉」は、すでに六八年に準備されていたのだし、七〇年の「華青闘」の告発を(政治的な意味でニューレフトが)受けた状況を背景に、演劇の世界でもやはり表現の変容を迫られたのが、「連合赤軍事件」のあった七二年だったことだ。だから、七二年に『ぼくらが非情の大河をくだる時』は書かれた。もう一度、『ぼくらが非情の大河をくだる時』を読み直してみた。すると、戯曲にそのことがくっきり書かれているのをあらためて知ることができる。

兄 ほら、聞こえるだろう、河が流れている……
詩人 (怯えて)ぼくは泳げないんだ。
兄 ざわめきだ……むこうの河岸でなにか人のざわめきがきこえる……
詩人 誰かが死んだんだ。
兄 誰かが死んだ?
詩人 ああ、なんて華やかな混乱なんだ……
兄 違う、あれはただの遊園地さ。
詩人 ただの遊園地?
兄 そう、人がいとしい我が子と遊び呆けてるただの遊園地……
詩人 悪くないじゃないか、おれたちもいこうよ。
兄 いやだねえ、遊園地の中で好きなのは噴水だけだ、しかも七色にかわるでかい噴水……
詩人 噴水のうしろには期待にみちた夕ぐれ……
兄 夕ぐれの下にはちっちゃな屋外舞台……
詩人 畜生……なんて華やかな混乱なんだ……

 もちろん、『ぼくらが非情の大河をくだる時』が「連合赤軍事件」を背景にしているのはわかっていたが、現在の問題として捉えたときより意味をなすとうながされたのは、スガさんの『1968年』を読んだからだ。『1968年』の最後のくだりは、ポストトークのとき引用(っていうか、声に出して読んだわけだが)したが、『鵺/NUE』の第一稿、第二稿を書いたときは、そこまでぜんぜん理解していなかった。政治問題じゃなく、演劇についての話としてもっとわかっているべきだった。七三年、つかこうへいが『熱海殺人事件』で注目された時期、櫻社は『泣かないのか? 泣かないのか一九七三年のために』の上演を最後に活動を終焉させる。つまりここで、演劇における六〇年代は確実に終わったのだ。なるほどなあ。と、さらに考えることはあるが、それは「過去」の「総括」ではない。「シニシズム」をめぐる現在的な問いだ。もちろん「ノスタルジー」ではない(っていうか、戯曲を書いているとき、まったくその言葉が出てこなかったし、それを問題化する者がいるとするなら、それを言葉にしてしまった時点でノスタルジーに捕らえられているにちがいない)。僕がいま書いているのは現在のことだ。この項、いつかあらためて書く。というか、スガさんとのポストトークのとき、そこまで踏み込んで話すべきだった。そのことを後悔した。するとあのトークはもっと刺激的なものになったはずだ。

■土曜日(11日)の夜、舞台を終えて家に戻ってから原稿やこのノートを書くのでずっと椅子に腰をおろしていたら、すっかり腰が痛くなったのだった。日曜日(12日)の昼、劇場に向かうとき杖を手にしてクルマに乗りこんだのだ。運転はなんの問題もないがクルマから降りようとするのが大変だった。駐車場から楽屋へ。老人のように歩く。で、客席ではなく楽屋のモニターで舞台を観ていた。というのも腰が痛いと椅子に座っていても落ち着きがなくなるので、きっと周囲に迷惑をかけるからだ。あとでメールをもらった知人は、ロビーで僕が出てくるのをまっていたという。申し訳ないことをしてしまった。楽屋でへたりこんでいたのだ。でも、ぜんぜん動けないほど今回の腰はひどくない。いったん立ってしまえばなんとか歩ける。それより舞台だ。かなり安定。モニターで観たから微妙なニュアンスはわからなかったが、いいできだったんじゃないかと思う。家に戻って原稿を書く。椅子に座ると腰が痛い。『BRUTUS』の「大友克洋特集」への寄稿である。一九七九年に刊行された『ハイウェイスター』について。作品解説より、やっぱり、僕にとっては大友克洋の登場が印象としては大きかったので、そのことを中心に書いた。
■で、本日、鍼治療に行ってきた。またものすごく鍼を打たれる。痛かったなあ。だけど、これでなんとか腰は大丈夫そうだ。まだ少し痛いけど。それから駒場の授業のための予習を少ししたが、鍼を打ったあとすごく眠くなった。深夜までぐっすり眠る。こんなに気持ちよく眠れたのも久しぶりのような気がする。

(7:57 Nov, 15 2006)

Nov.11 sat. 「舞台はつづき、まだ先は長い。人生も」

■考えてみたら、木曜日(9日)のことを書くのを忘れていた。まあ、とりたてて書くことはないが、ともかく大学の授業があって僕はこの日は劇場に行かなかった。舞台はあとで報告してもらったが、朝、永井あてにきのうのダメをメールで送って舞台監督の福田さんから各役者に伝えてもらったのだった。意外にですね、メールで伝言ってやつはいろいろな意味で客観的になれるし、落ち着いて考えるにはいい方法だと思った。というのも、客席で見るとどうしたって台本にメモをしてゆくなどできないからだ。客席は暗い。そのときノートにメモをしてもいいが、書いている瞬間は舞台から目を離している。むしろ、あとになって記憶をたどったほうがいいように思うのだ。で、誰かに伝えてもらうのもまた、本番に入ってからは有効かもしれない。ほかの演出家はどうしているだろう。
■大学の授業は「演劇ワークショップ」と「演劇論で読む演劇」。学生たちの何人かが、『ユリイカ増刊号・宮沢章夫特集』(青土社)を買ってくれた。それでサインをしたのだけれど、何人もいてサイン会みたいと学生に言われた。で、そのとき、シノハラとオウギに聞いたが、このあいだこれまで僕が刊行した本について、彼らがよく読んだし、よく文章を書いたと記したものの、あれはかなり白水社のW君の手が入っているとのことであった。ほとんどW君だとシノハラとオウギ。なんだよ。やっぱりそうだったのか。
■なんでこんなに律儀に毎日のことを記録しておかなければならないかだが、それというのも、あとでとても役に立つのである。今回の「ユリイカ増刊号」で言ったら、「自筆年譜」を書くのにどれだけ助かったか。で、実は僕は、高校生のころから日記をマメに書いていた時期があり、それを参照したり引用していたら、自筆年譜は、さらにあと百枚は書けたような気がする。ただねえ、そのノートをいま読むのはきついわけだ。まあ、だいたい書いていたことは想像できて、事実の記述というよりいまの意識の状態をつらつら書いているに決まっている。それをいま読むのがねえ、うーん、なんというか、怖いのだし、恥ずかしいのだな。

■といったわけで、金曜日(10日)のことはすでに書いたが、ポストトークがあり、そして蜷川さんがいらしたことなど、ある編集者からいただいたメールにそのことが的確に表現されていると思い、それを引用させていただきたいのです。

 昨晩はほんとうに事件でした。まだ頭の中がぐちゃぐちゃで整理できていません。テキストベースにおいては清水戯曲が、そして俳優の肉体のメタレベルでは若松=寺山、上杉=野田、(中川さんも血筋が確か〈引用者註・千田是也さんのお孫さんです〉)、そして上演と観客の関係においては蜷川が!!!(加えれば、……)〈と、ここいろいろあるのですが括弧内は政治的な意味において引用者によって中略〉。あまりにも重層的な場に眩暈がしそうでした。劇(上杉さんが「芝居」でなく「劇」と言う台詞、特異ゆえに記憶に残りました」)における「1968年」が切断したもの落としてきたものをじっくりとその場に立ち止まって考える機会、あの空間に多くの時間が凝縮されており、膨大な記憶と記録の織物、「日本・現代・演劇」とでも呼びたいような批判を内在した素晴らしい作品でした。宮沢さんはいったいどこに行くんだろう…という置いてけぼり感と、この人はどんどん大きくなるキマイラなのだと確信した次第です。

 最後のほうは、ちょっと、ほめすぎです。でも、考えてみればそうだよねえ、「中略」にした部分を含め、いろいろなことが重層的に存在する劇なのだなあと、あらためて考える次第だった。なにしろ、「演劇についての演劇」であることによって、とても局部的な話のような気がしていたが、局部が普遍にいたるというか、この状況そのものが、あらゆる表現の現場なり、現在を反映しているのかもしれない。僕はかなり無意識に戯曲を書いたけれど、期せずして、なにかそうした力がこもっていたようにも思うのだ。だからこその、「幸福な邂逅」である。「幸運な偶然」である。リーディングだけでは現れなかったことが、今回のキャスティングなどを含め、表現される質によって、また異なる力を与えてくれたのだと思う。あきらかに、若松さんの身体と、上杉さんの身体は異質だが、そこには時間があるのだな。近過去という歴史がある。そして、やっぱり思ったな、もっとも遠い近過去は、きのうなのだと。あと、メールには、スガさん、鴻さんたちがそのあと居酒屋に行ったときのことが書かれ、「あのあと飲み屋で「あのトークはもう一度やるべきだ!」と酔った鴻さんがスガさんにくってかかっていました。とてもいとおしい光景です」とあった。もう一度、やるべきだな。もっと話すべきだった。途中で僕は、なにか話そうと思っていたことっていうか、スガさんに聞こうと思ったことを忘れてしまったし。
■そして本日(11日)は、清水邦夫さんがいらした。怒るんじゃないかと心配だったのだ。二月のリーディング公演のときある劇作家は、それを見て、「劇作家はよろこぶよ」と、その「劇作家は」という部分を強調して言ったのだった。だが、じつはきのう蜷川さんがご覧になったのを知ってからあらためてこの舞台を考えると、むしろ、演出家のほうがうれしいんじゃないかと思ったのだ。というのも、ここに「戯曲の言葉」はあっても、「劇作家」は登場しない。いわば「不在」である。その「不在」の者をめぐって「演出家」と「黒ずくめの男」は語るのだ。リーディング公演は、その名の通り、「戯曲を読む試み」だったが、本公演は「身体」がきわめて「前景化」しているわけで、っていうか、若松さんも、上杉さんも、要するに濃いでしょ。「不在」である者は、より強く、「不在」を強調されてしまうように感じたのだ。清水さんはどうご覧になっただろう。終演後、お会いしたかったが、トイレに行っているあいだにすでにお帰りになられたとのこと。残念だった。我慢すりゃよかったよ。

■あ、そうだ、内野さんもまた観に来てくれたとのことだったが、会えなかった。あとは笠木が来ていたので、終演後、喫茶店に行って少し話をした。内野さんも、笠木も二度目。ありがたかった。プレビュー公演一日目を観た笠木は、ずっとよくなっていたと話してくれた。そりゃだって、プレビューよりよくなってなかったら、なんのためのプレビューだって話なんだけど、でも、うれしかったな。笠木はあしたから、テレビドラマの仕事で静岡に一週間滞在するとのこと。あと、長野に住み「マタタビオンライン」というサイトをやっているT君が、わざわざ長野からいつものように劇場に足を運んでくれた。いつも、お土産をくれるのだが、それが毎回、同じものっていうのがなんだか面白いのだ。それから朝日新聞の夕刊に劇評が載った。俳優たちをもっともっとほめてほしかった。だって、俳優がよく見えたのなら、それはきっといい舞台じゃないか。舞台はまだ、残り一週間。僕も集中力を切らさず舞台のことを考えようと思う。
■それと、関係ないけど、Windows環境で、ブラウザをInternet Explorer 7にしたら、この「■」がですね、小さくなるようになってしまった。俺のところだけかと、相馬のブログを観に行ったら、やっぱり、小さい。まったく、Internet Explorerってやつは。どうかWindows環境のみなさん、「Fire Fox」にしましょう。ダウンロードはこちらから。って思ったら、やっぱり、「Fire Fox」でも「■」は小さい。うーん、なんだっけな、これ、「Mac」でも似たような現象が起きて、なにか対処したんだが、忘れてしまった。いろいろ考えることはあって、忙しいのだ。そうそう、新潮社のM君からもメールがあって次は小説をとあった。もちろん書く。舞台が終わったら次は小説だ。書こう。気持ちを切り替えて。いまは舞台だけどね。

(4:10 Nov, 12 2006)

Nov.10 fri. 「ポストトーク、そして蜷川さん」

■あまり時間がないのでかいつまんで。ポストトークのある日だった。つまり、終演後、ゲストを招いてお話しをさせていただくということだが、きょうのゲストは、スガ秀実さんである。この日を僕はすごく楽しみにしていたのだ。そして、いくつも興味深い話を聞かせていただきとてもいい時間だった。スガさんに来ていただいてほんとによかった。このことはもっと書きたいことがあるが(たとえば、「シニシズム」についてなど)、実際、いまから劇場に行かねばならないので、また次回ということにし、さらに出来事を書くならばだ、蜷川幸雄さんが見に来られたことである。あのねえ、今回の作品において、このことはきわめて大きな事件なわけだ。なにしろ清水邦夫さんの初期戯曲を多く引用しており、それをかつて演出していたとおぼしき「演出家」が登場するこの劇において、それが誰をモデルにしているかは明白じゃないか。まさかなあ、もしかしたらご覧になるという話は知っていたものの、ほんとに来るなんて、そんなことが。
■ほかにも、批評家の鴻さん、早稲田の岡室さん、青土社の橋口さん、それから相馬も来てくれた。僕は昼間、早稲田で授業をやっており授業のテーマが「足立正生」だったわけですが、それは劇場で当日配布されるパンフにスガさんが書かれた文章に喚起されたからだった。スガさんによれば、この作品に登場する「黒ずくめの男」が、戯曲を読んだ段階では足立正生に読めたという。で、授業で足立さんがシナリオで参加されてる映画や、監督もされている作品のビデオを流したが(『赤-P』はなかったけれど)、学生たちはしばしば爆笑していたのだった。ま、それはいいとして、だめだ時間がない。この続きはきょうの夜、書こう。私は劇場へ行く。

(11:46 Nov, 11 2006)

Nov.8 wed. 「久しぶりの更新、舞台は続く」

■ずいぶん更新が滞ってしまった。更新ができないほど疲れていたとか、舞台が大変だったので書けなかったということはなく、プレビューが二日あり、そして初日を迎え何回かやっているうち、舞台はずいぶん安定したものになっていったのだ。で、一日休演日をはさんで、きょうはあまりできがよくなくて、うーん、思ってもみないようなせりふのまちがえがあった。リズムが悪いところも。休むとよくないのかな。ただ、みんな疲れていたので、休みは必要だったのだが。
■で、それはそれとして、この何日かをおおまかに記録しておこう。
■4日(土)。プレビュー公演二日目。一日目を踏まえてせりふをかなりカットしたり、いくつかやり方を変えた。一日目の夜、家に戻って台本を読み直し、いろいろ考えたのだ。こういうことも最近ではあまりなかった。ただもっとよくしたかったし、もっとよくなるはずだと思っていたのだ。本番前にそうしたところを返す。プレビューで悪かったところの稽古などをして、開演。全体的にシャープになったと思う。■5日(日)。この日が「初日」になるが、その「初日」ってのがどうもぴんとこない。気になったところを軽くダメ出しする程度でこの日は開演を迎える。かなり舞台は安定したものになった。内野儀さん、桜井君、野田学さんなどいろいろな人が来てくれた。内野さんに永井がなにか声をかけようとするやいなや、永井がなにも言わないうちにいきなり「ノーコメント。もう一度、見てから」と。怖いったらないよ。今回の作品のなかで劇中劇として引用した清水作品が初演されたころ、白水社から出ていた『新劇』の編集長だった梅本さんは「よかった」と声をかけてくれた。梅本さんは当時、櫻社などの稽古場に行っていたというくらい、リアルタイムな人なのだな。で、初日乾杯を劇場ロビーでやったあと、居酒屋に行って二度目の乾杯。若松さん、下総君らと話をしていたが、そこへ少し遅れて上杉さんが、元東京壱組の大谷さんと現れた。それから上杉さんは、ふと気がついたら四時間ぐらいしゃべり続けていた。そのエネルギーに驚く。最後、別れぎわ、あしたのためにも、もうあんまりしゃべらないでくださいと声をかけると、まだ話し足らず路上にあった鉢植に話しかけているという、どうなってるんだこの人は。大谷さんのことを「たにやん」と呼び二人が関西弁で話しはじめると、ここがどこか、わからなくなってくるのだ。それにしても「初日」なのだがぴんとこない。プレビューをやったあとの「初日」ってこんな感じなのだろうか。でも、今回はパブリックシアターのおかげで、ずいぶん贅沢な稽古、そして舞台作りをさせてもらっている。ほんとにありがたい。■6日(月)。初日もあけ、三回公演をすますと少し緊張感がなくなるかなと思ったが、でも安定した舞台になった。ただプレビュー二日目ができとしてはかなりよかった。油断すると、稽古でダメを出したところの悪さが出てしまうきらいはある。三坂、片倉君、伊勢が来てくれた。それで終演後、居酒屋へ。三坂は広島だったか、岡山だったか、そっちの方面で映画の撮影があったが、それを終えその足で観に来てくれたという。いろいろ疑問点を質問された。伊勢にいたっては、理解できないので、もう一度観に来るという。今回の舞台はかなりわかりやすく作ったつもりだったのだけれど、うーん、なんと応えていいかわからなかった。■7日(火)。休演日。みんなはしっかり休んだだろうか。僕はものすごくよく眠った。久しぶりにぐっすり眠った気がする。で、夜、六本木の青山ブックセンターで、『考える水、その他の石』の出版記念サイン会とミニトーク。ミニトークでは、スガ秀実さんの『1968年』(ちくま新書)のなかで読んだ、「ユリイカ総特集宮沢章夫」にも寄稿していただいた鴻英良さんのご先祖様の話などした。すごいよ、鴻家は。楽しい夜だった。家に戻ってから駒場の授業の予習。

■といったわけで、忙しい日々だったわけだが、さらにきょうの昼間は駒場の授業だった。めまぐるしい。いろいろ話しているうちに次の課題も見えてきた。かなり政治的な内容になった。だけど、やっぱり、ネグリとハートのいう「マルチチュード」もまた、「身体論」として考えることが必要だ。「80年代地下文化論講義」とはまた質の異なる講義になってしまうだろう。で、やはりここでもスガ秀実さんの『1968年』について触れたが、その本の最後、僕はスガさんが書かれたもので泣くとは思わなかったよ。そこからまた考えるべきことが生まれた。あとシニシズムについては当面の大きな課題なのだと、つくづく。
■で、劇場に行ったわけです。きょうは、桑原茂一さん、朝日新聞の山口さん、チェルフィッチュの岡田君、山縣君、大人計画の正名、それから南波さん、この舞台のリーディング公演に出てくれた滝君らに終演後、会った。茂一さんは、かつてニューヨークで病気で倒れタンクに入れられるという治療を受けたことがあったそうだが、この舞台を観て、そのときと似た体験をしたという。あと、『東京大学「80年代地下文化論」講義』は、怖くてまだ読んでいないという。それで読み聞かせましょうかと言ったらすごく迷惑そうだった。山口さんとはいろいろな話ができた。もっと話したかったのだが、時間がなかった。岡田君は、演出家が口にする「おまえたちは賢いなあ」というせりふを「一生忘れない」と。あれは、やっぱりシニシズムと関係する「せりふ」なんだけれど、それは岡田君だけの問題ではなく、僕の問題でもある。それと岡田君はべつにそうしたことを気にしないで、自分のスタイルを貫けばよいと思うのだ。そうしたことまで気にしていたら、それこそ、「賢いなあ」になってしまう。
■そのあと、「ITI」という組織が主催する、「学生たちに向けたポストトーク」が劇場内で開かれた。司会の谷岡さんの質問に応えたり、学生との質疑応答があったり、きょうは睡眠が二時間だったので思考する力がもつか心配だったが、なんとか持ちこたえたのだ。早稲田のナカガワなど、何人か見知った顔があった。以前、ある雑誌で「演劇教育」についてインタビューをしてくれたYさんもいらした。演出家って、ほんと、舞台がはねたあとが大変だ。それでも俺はやった。よくがんばった。なにより、きょう睡眠不足でいまにも眠ってしまいそうになったのは、劇場入りしてから開演するまでの時間だ。あとは大丈夫だった。舞台を客席で観ているころから復活。できが悪かったので余計に目が覚めた。長い一日だった。ぐったりだ。家に戻ったらわりと早く眠る。

(8:53 Nov, 9 2006)

Nov.3 fri. 「プレビュー公演一日目」

■時間が経つのは早いもので、いよいよ『鵺/NUE』の「プレビュー公演」の一日目である。あくまでも初日ではない。これから手直しするためのプレビューだ。みんな緊張していたと思う。特に上村の緊張がひどかった。「黒ずくめの男(=若松さん)」と、「映像作家(=上村)」のやりとりは、台本を見るとこれまでほとんどダメ出しをしていない。注意すべきメモ書きのない、きれいなページだった。ところがここのできが悪かった。もうひとつ求心力に欠けていた印象だ。もちろん、みんな緊張感があったと思うが、なにか萎縮していたせいか映像作家の存在が小さく見えた。ここは考えどころだ。家に戻って台本をあらためて読んだ。それで、問題はここじゃないかと思うところがあって、いくつか手直しの方法を考える。
■ただ全体的には、大きな破綻もなく、安定感はかなり増していた。あるいは観客がいるからこそ、より生き生きとしている部分もあった。「プレビュー公演」というのは初めての経験だ。これまで僕は、初日があけるとほとんどダメを出したり変更などしないが、今回はどうしても変えたいと思った。もっとよくしたいからだ。「プレビュー公演」だったことの意味は大きい。それでずっと考える。で、なんでだろ、なぜ、稽古のときこれに気がつかなかったかという部分もあって、ここをこうすりゃいいんじゃないかという発見もある。冗漫な部分はさらに削ろう。ここの演出はもっと方法があるなど、さらに考えが出る。
■観客は満員だった。とてもうれしかった。終演し、カーテンコールで音楽を流しているが、僕が見た位置がもっともうしろの席だったせいか、拍手が大きくてその音楽がぜんぜん聴こえないのだ。あとで前の方に座っていた人にそれを尋ねたら、じゅうぶん聴こえていたというから、うーん、そこはちょっとどう判断していいかわからない。まだなにかあるな。「プレビュー公演」はあと一日だ。もっとよくしよう。ぜったいにもっとよくなる。

『ユリイカ増刊号』

■ところで遊園地再生事業団の次回公演に向け、俳優ならびにスタッフのオーディションがあります。その詳細はこちらのページからどうぞ。
■それと、「ユリイカ増刊号・総特集宮沢章夫」が八日から店頭に並びます。いまなら劇場に来るとすぐに手に入ります。いろいろな方に執筆していただきとても感謝しました。まだ全部、読んでいないのですが、というか、読むのが怖い文章もあります。言い当てられるような気がするのだ。そうそう、そうなんだよ、俺って、そうなんだと、言い当てられる感じがですね、なんとも、怖い。それでも読む。あと、僕の自筆年譜が長い。ほとんどのことを語ってしまった。ほんの少し嘘もある。あえて書かなかったこともある。七三年から七五年のあたりは少しごまかして書いてます。そして、野村萬斎さん、青山真治さん、佐藤信さんとの対談がある。佐藤さんとの対談はものすごく長い。小さな字でぎっしり印刷されている。正直、老眼の僕には、眼鏡がないと読めない。それから、青山さんとの対談に付された写真だけ見ると、ヤクザの対談のようだ。あと、これまで出した本の解説が掲載されており、白水社のW君がまとめてくれた。W君がリライトしたとはいえ、早稲田の、コンドウ、シノハラ、オウギの三人が全部の本を読んで、叩き台の文章を書いてくれたという。みんな文章がうまい。よく読んでる。ほんとうに感謝した。『チェーホフの戦争』はシノハラが読んだようだが、よく、読んだな、あれを。俺はあれ、本にまとめられる前、ゲラのチェックで読み返したとき、自分の文章ながら、ほんと大変だったんだよ。三人とも見事な文章だ。
■といったこともありつつ、無事に、「プレビュー公演」の一日目は終わった。いろいろな方が観に来てくれた。打越さん、白水社のW君、白夜書房のE君ら、編集者の方々。それから桜上水のYさんは、宗教学者の植島啓司さんと一緒に観に来てくれた。そのとき差し入れてくれたお菓子がすごく美味しかった。あと、半田君と仕事上の知り合いというので、「タモリ倶楽部」の構成をしている高橋が来た。久しぶりに高橋と話したらとても面白かった。さらに笠木や岩崎をはじめ『トーキョー/不在/ハムレット』に出ていた若い俳優やスタッフたち。その者らと飲み屋に行ったわけだけど、そこにある俳優が遅れてやってきた。いま、芝居の稽古中だという。だが、ここに来たことを誰にも話さないでくれという。この日記にも書かないでくれとしきりに言う。その意味がわからないので、書かないことにする。どうやらいま、僕の家の近くで稽古しているらしい。たいへんからだの動きの面白い人である。
■もっとみんなから、率直な意見を聞けばよかった。直すことが可能なことはしっかり取り入れたかった。なにしろ、「プレビュー公演」だからな。そのためにあるのだ。うーん、悩むっていえば悩み、終わってからも舞台のことばかり考えている。ぎりぎりまで粘ろう。もっとよく考えよう。

(9:15 Nov, 4 2006)

Nov.1 wed. 「場当たりと、舞台稽古」

■『鵺/NUE』本番まであとわずか、さあ、劇場へ。チケット予約などはこちらへ。早くしないとあまりいい席が残っていないのだ。見え方がなあ、席によってかなりちがうので、ひとつ、そこのところお気をつけください。急げ、予約を。

■睡眠不足のまま劇場へ。というのも、深夜、いくつかの場面で流す音楽を探していたからだ。もうひとつ、これだって音楽が見つからない。うーん、HMVとかに行く時間がないのが残念だ。もっと早く動き出せばよかったがせっぱつまってしまった。今回は初めて仕事をする音響さんなのでコミュニケーションがうまくとれなかった。そんなわけでぼんやりとした意識で稽古をはじめる。場当たり。舞台を作る上で私がいちばん苦手なのが「場当たり」だ。しかも、「場当たり」のスケジュールのなかに、音響のきっかけが入っていなかったのでそのテクニカルな練習がほとんどなかった。そのまま、通しで確認することになった。いつもだと、音の稽古はかなりするのだが、そこがちょっと心配になってきた。
■ともあれ、予想していたより早い時間に場当たりが終わった。そこで夜、舞台を使い、衣装をつけて通しをやることになったが、ほぼこれはゲネプロである。途中まではかなりいい感じだったが、どこかで、なにかのきっかけから「流れてる」のを感じはじめた。うーん、なにが原因なのか考えていたが、よくわからないまま、だーっと勢いでやっている感じを受け、なんというか、「ため」が足りない。あとでわかったが、上杉さんの腰がかなり厳しいみたいだった。それでかもしれないが、ラストにいたって早いのだった。うーん、そこの稽古をもっとしたいが、とても上杉さんに負担をかけるのだなあ。
■そのこともあって、「通し」を終えたあと、スタッフにダメを出すのが八つ当たりのようになってしまって、照明など、根本的にちがう場面があるんじゃないかと、そこを再考してもらうことにした。うーん、その判断はですね、芝居がうまくいっていないことが原因だったかもしれず、俳優も含めすべてのダメを出したあと、いろいろに考えこんでしまった。もうひとつ思ったような世界が生まれない。謡曲『鵺』にある「鵺」の運命の切なさのようなものの表現、そして消えてしまった「劇の言葉たち」のもろさについて語ること、「過去」への思い残しをいかにノスタルジーではなく現在につなげられるか、そうした感情が高まることがうまく整理できず、後半、どこか芝居が流れていると見ていてそれを強く思ったのだ。なんとかするぞ。まだ少しだけだが、時間はあるのだ。最後の最後までねばってぜったいにいい舞台にしよう。

■とはいうものの、経験の豊富な俳優さんたちを迎え舞台としての完成度はある程度までできあがっている。それ以上のものがほしいんだ。それ以上のものを生み出さず妥協しない仕事にしたいのだ。まだ安心できない。考える。もっとよくなる。やはり気になるところはしっかり遠慮なく言わなくちゃならない。そのことが、俳優に対して僕からできるいちばんの恩返しになると思う。いい舞台でなければな。そしてタイトであること。俳優の魅力を生かしつつタイトにすること。
■照明の入った舞台はいよいよきれいだった。そこに半田君が立つとものすごくかっこいいなあ。あと中川さんが舞台奥、少し薄暗いなかで黙って立っていると外国人みたいだよ。それにしても心配なのは上杉さんの腰だ。痛いのが手に取るようにわかる。本人は意識していないかもしれないが、「流れている」というのは、その「痛み」がそのまま出てしまったのかもしれない。でも本人は必死にこらえて芝居している。頭が下がる。なんとかならないかなあ。これから二週間以上、舞台は続くことを考えるとほんとうに心配になる。動けなくなる前に一日、休みを入れたいくらいだ。プレビュー公演はなくてもいいんじゃないかと、いい舞台のためなら上杉さんの腰を重視したいくらいだ。
■私は寝不足だった。それでしっかり判断ができなかったこと、いりいらしていたことがあったせいで、うまく全体を統括できていなかったようにも思う。「場当たり」の前はしっかり眠っておかなければならないのだ。毎回、そう思っていて、余計にプレッシャーがかかって眠れないのだ。本番(プレビュー公演)は三日から。もうすぐになってしまった。はじめて舞台で通しをしたにしては破綻もなくよくできていたと思うが、まだまだだ。もっとよくなるはずだ。考えよう。

■せっぱつまってから焦るのもばかみたいだが、焦るのも仕方がない。うーん、なんかがまだちがう。なんだろうな。反復の少なさだったかといまになって考えても仕方のないことだ。じりじりあせっている。まだあるよ、なにかきっと。なにか方法があるはずだ。家に戻ったらぐったりだ。眠かった。また睡眠異常。こんな時間に目が覚めてしまった。もう一度、眠ろう。気分を変えてまた稽古だ。

(6:17 Nov, 2 2006)

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