富士日記2PAPERS

Dec. 2006 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Dec. 29 fri. 「一年も終わり、いろいろな人が亡くなられ」

■今年もまた、年末が来てしまった。
■ジェームス・ブラウンが死んだというニュースを聞いて、すぐに20年前の武道館を思いだした。で、克明に記憶しているのが、前座のように登場した細野晴臣さんに向かって客席の外国人から、「Who are you?」というヤジが飛んだことだ。どうでもいいことはなぜよく覚えているのだろう。ともあれ、みんなジェームス・ブラウンが好きだった。有名なガウンショーを冗談にしてやったことがあった(っていうか、ジェームス・ブラウンがそもそも、あれを冗談としてやっていたと思うが)。草月ホールで公演した『スチャダラ』という舞台だ。上演時間の長い舞台で、どこかで休憩を入れたいが、ちょうどいい区切りがない。仕方がないので、開演してから15分後に休憩が入るという、それを思いついたときはくだらなくて自分で笑った。毎日、くだらないことばかり考えていた。もうすぐ三十歳になろうとしているころだった。
■あるところで知ったのは、YOU TUBEにあるこの映像だった。これぞ「戦術」だ。敵の作ったルールの裏をかく「戦術」である。ここに出てくる「高円寺ニート組合」は存在しない団体らしいが、なんだろう、このいかにも「高円寺」という町を感じさせる匂いというやつはさ。「中央線沿線」にはなにかこうした匂いが漂っているが、とくに「高円寺」に顕著な気がする。「ノイズ論」を考えるにあたって、なにかを喚起させるものがここにある。あきらかにこの人たちはノイジーでしょう。それをもっと先まで考えてゆくと、なにかが発見できる予感をしているのだ。何年か前、『おはようとその他の伝言』という戯曲を書くので、高円寺の町を何度も歩いたが、もう一度、高円寺とその周辺を歩いてみよう。あと、あれだね、東京周辺の人たちにしかよくわからない書き方をして申し訳ないが、「杉並区」だね、いま、考えると面白そうなのは。
■それでまた地図を見ていたのだ。京王線下高井戸駅の周辺に、杉並区と世田谷区の境界があって同じ商店街のなかで、区がちがうのがわかる。過去の農道によって町の区分けが存在し、そのまま現在に引き継がれているのだろうが、でも、もっと古い地図を探せば、それもけっこう変遷があったのが発見されると想像できる。時間ができるとつい地図を見る。なんでこんなに面白いのかな、地図ってやつは。

■とはいうものの、この一週間、用事があって大学に行ったり、学生が編集している「グラミネ」という雑誌が主催する「グラミネ文学賞」の選考もしたのだった。いろいろな小説があっていくつも刺激を受けた。あるいは、「書く」というもっと根本的なことについて考える契機にもなった。それで思いだしたのは、『ビートルズ・サウンド――最後の真実』(ジェフ・エメリック、ハワード・マッセイ、奥田祐士訳、白夜書房)のなかにあった、「デモなぞり」の話だ。「デモなぞり」とはジェフ・エメリックによれば、アマチュアミュージシャンがデモテープではいい演奏をしているのに、プロのスタジオに入ると硬くなって本来の力が発揮できない状態のことをいうらしい。「なぞる」というのはつまり、グルーブ感を失って形だけの再現になるという意味だろう。どこの世界でも同じことはあるのだな。それで気がついたのは、「ブログ」を、「書くという行為」においてとらえたとき、あれは、「デモテープ」のようなものだということだ。
■「ブログ」のグルーブ感は厳密に考えれば様々な要素の複合だ。単に書くという行為だけではなく、たとえば、「日々の更新」とか「どうでもいいような日常性」、それとは異なるきわめてまっとうな「情報の発信」や「主張や言説の提示」、あるいは、「匿名性」といったことも含まれるので、いったいこれ、どんな人が書いているのだろうといった興味も、「ブログ」がかもすグルーブ感の要素になる。とはいえ、やはり表現の中心は文章そのものであって、「技術」も必要なら、それがもたらす「味」が人をブログにひきつけるのだから、その質によって、「ブログ」のなかでも競争が生まれる。そして競争を煽るかのように読者数のランクをブログサービスの提供業者が設置しているのだろう(と、それはまあ、べつの話だ。とはいえ、ネット業界ではいまや「ブログ」は価値を生み出す有力なコンテンツになっているのだから無視しえないものの)。なんだっけ。あ、「ブログ=デモテープ論」だった。先日紹介したブログ「オカマだけどOLやってます。」の能町さんからメールをもらったが、メールに書かれた内容で驚いたのはブログをはじめるにあたって最初から本にしたい気持ちがあったという話だ。こうした方はこれからもっと増えてゆくのではないだろうか。そしてそれが仕事になったとき、いかにグルーブを失わないかという当然の帰結に話はなるが、まだ、僕は能町さんの本を読んでいないので、どう変化しているか、ブログとなにが異なるか、それはそれで楽しみになる。ただ、「ブログ」の価値がそれだけになってしまったらつまらない。そういった「デモテープとしてのブログ」があるのも興味深い状況だが、その一方で、遠くから誰かに向けて、届くのかもわからないまま、小さな声を発している人たちもいる。その小さな声も私は好きである。

■今年もあとわずかになった。二本の舞台をやった。本も出た。大学も可能な限り休講しなかった。「ユリイカ」の特集があってかなり細かく年譜を書いた。いろいろな人たちに出会うことができ、そして刺激を受けた。で、気がついたら五十歳になっていた。これまで節目の年齢を迎えたからってべつに気にもしていなかったが、なぜか、五十歳は意識しているのだ。それがひどく奇妙である。

(4:01 Dec, 30 2006)

Dec. 23 sat. 「三軒茶屋へ」

シアタートラム

■また劇場へ。シアタートラムで、矢内原美邦さんの独舞『さよなら』を観る。きょうはポストトークで桜井圭介君が話すというので、もちろん、矢内原さんのダンスがいちばんの目的だが、桜井君と矢内原さんの話も興味があった。で、終演後、私は舞台でポストトークに参加していたのだった。なんでだよ。それで、三人で話すはめに。というのも、開演を待ちながらトラムの外で煙草を吸っていたら、桜井君が「ポストトークに出ない?」というので、気軽に引き受けてしまったのである。
■開演。繰り返すように私は矢内原さんのダンスのファンなわけだが、それで独舞を楽しみにしていたら、僕もよく知っている足立や関など、ほかにも男たちが何人か出ていた。これまでの矢内原さんのダンスの感触のなかに、今回は(ポストトークのとき桜井君が話した言葉を借りれば)「ガーリー」な雰囲気があった。ニブロールでは衣装を弟さんがやっているが今回はべつの方が担当なさっているのが反映されていたと思われ、かなり妙味をかもしだしていたのではないか。っていうか、単純によかったんだそれが。俳優でもそうだが、やっぱり、その人に固有の魅力があり、その判断は観る側の主観としかいいようがないものの、振付家としてではなくいまそこにある身体としての矢内原美邦の魅力が、その「ガーリーな感じ」によってより引き立っていたからだ。そんなことを言ったら本人はいやがるだろうけどさ。
■それとニブロールでもそうだが、矢内原さんはしばしば作品について表現のコンセプトやテーマを口にする。それがたびたび、「どこが?」ということは多い。それを疑問に思いつつ、面白いと思うのは、「これをやろうと思ったのは、これこれこういうことです」と口にしているが、でもそれ、やりたかっただけでしょ、といった、かなり直感的な表現に感じるからだ。高橋君の映像もかっこよかった。そして、照明と音楽がきわめてシャープでスタイリッシュだった。シンプルな美術もきれいだ。あと、突然、「あ」と声を高くあげる場面があって笑ったなあ。ポストトークのときその声がなにか聞いたら、映画『野獣死すべし』のなかで、松田優作がそのような声(「あ」)をあげる場面があり、それはやらなければならなかったのだそうだ。なぜ? ポストトークでは、そういった具合に、桜井君と僕とで、次々と矢内原さんをつっこんで面白かった。「やりたいことは、なにがなんでもやる人」という矢内原美邦がいる。なにしろ、なぜ「独舞」なのに人が何人も出ていたか桜井君が質問すれば、同時にやりたいことが複数あり、しかし、一人ではできないからだという。で、ふつう人は、できないことはしないと思うんだそれは。だって「独舞」なんだし。だがやりたかったんだよな。やりたいんじゃしょうがないじゃないか。そのわけのわからない過剰さ。彼女の魅力のひとつだ。ただ、そうした魅力の一方に、またべつの側面があって、それは言葉のやりとりや映像(ダンスにもあるが)として提示される感傷のようなものだが、ややもすると、甘い表現に感じるときがある。でも、それもまた、矢内原さんの魅力が凌駕するのだが。

■で、ポストトークも終わり、桜井君たち数人と話をしたのは、『エンジョイ』のこと。ひとつの作品を通じてさらに話ができるのは、「いま話すに足るだけの価値がある」という意味であって、これはとても大きい。もうしばらく前のこと、朝日のYさんからメールがあって『鵺/NUE』について舞台が終わったあとでも、しばしば、いろんなところで話題にのぼる機会があったと聞かされた。それがどんなに悪評であろうと、ひっかかりを生んだと考えれば、それは単純にうれしい。で、いろいろ話してわかったが、この数日『エンジョイ』について触れたなかで、僕が意図して書かなかった大きな意味を持つ「名詞」がひとつあり、それを書かなかったことの正しさだ。詳しくは書けないが、話を聞いてなるほどなあと思った次第。
■そういえば、オペラシティでやっている、建築家の伊東豊雄展を観に行ったのだった。すごい曲線で作られた床が展示されている部屋があり、部屋一杯、伊東さんの最近の作品に使われている曲線の床だ。ああ、これ舞台で使ったら面白いだろうなと思ったが、俳優にはものすごい負担だな。建築家とコラボレートして舞台が作れたらなにかいいことがあるのではないか。あるいは現代美術の作家とか。あと、展示されている建築模型のなかに劇場もあって、もちろん建築の構造やデザインが主体の展示なのだが、そこで上演されている舞台の美術も作られている。大劇場では、なんだかシェークスピア劇のような舞台装置。それが変だ。小劇場のようなところでは、これ、バレーか、コンテンポラリーダンスだろうか、でも、やっぱり、装置が変だ。建築模型にはたいてい人間の形をした模型も配置されているものだが、劇場の観客がすかすかなので、その劇を上演している人たちに同情した。で、細い廊下のような空間に、伊東豊雄さんの年譜のようなものが壁に沿って展示されていた。なかに、『都市住宅』という雑誌があり、僕はかつてこの雑誌がことのほか好きだった。いまでもかなりのバックナンバーが家の書棚に並んでいる。って、あの、この年譜の展示そのものがただの平面ではなく、立体的になっているわけで、雑誌が収められたボックスがあったり、ビデオモニターがあったりと、それ自体がデザインとして興味深かったのだ。
■白水社から「岸田戯曲賞」の候補作が届く。これから少しずつ読んでゆこう。刺激してくれる作品があればなあ。

(12:44 Dec, 24 2006)

Dec. 21 thurs. 「友人たちとの食事」

■きのう書いた分を、また消してしまったのだった。誰か、ログをとっていないだろうか。ログがあったら送っていただきたい。心からのお願いです。長い文章だったからなあ。で、「はてなアンテナ」に途中までのログが残っているのを発見。きのうの分が長すぎたせいで、全部が記録されていなかった。残念。繰り返しますが、どなたかお持ちではないでしょうか。
■と、そこまで書いたのが午後の早い時間。夕方、ある方がきのうのノートを記録されており、丁寧にメールで送ってくださいました。きのうのノートは復活しました。どうもありがとう。

■午後、眠くなったので無秩序な時間にベッドにもぐったが、ひどい夢で目が覚めた。仕事で外国に行くことになっているが、予定していた飛行機の便に乗り遅れるという内容だ。もう間に合わないと思いつつ空港の中を走る。結局、間に合わず、だけどどういうわけか別の便に乗っていて、どこか知らない土地に行く羽目になるのだった。来年の外国での仕事の話を永井から聞かされていたせいだろうか(向こうの劇団が僕の戯曲を上演してくれるという話)。さらに、再来年の外国へ行って勉強するある種の留学のこともあり、そんな夢を見てしまったのだろうか。なんだか外国に行くのがいやな気持ちになった。でも、勉強はしたいのである。まあ、この国にいたら安穏に暮らせるだろうし、そのほうが、のんびりしていて楽だが、かつてマダガスカルに行ったことがどれだけ刺激的だったかを考えたらやっぱり行きたい。
■でも夢を見たあと、しばらくのあいだ、もう飛行機に乗りたくないと思った。さらに、長時間の禁煙状態のことを考えると憂鬱である。むかしはこんなには厳しくなかった。しかも、外国でもいよいよ「禁煙」は圧倒的な潮流になっていると聞く。べつに否定はしないし、嫌いではないが、私は酒に酔った人が苦手である。べろんべろんの人はいよいよ困るし、これは、子どものころ家に出入りしていた職人さんたちの、酒で豹変する姿を見ていたからではないか。飛行機のなかでは酒だけがどんどんサービスされる。煙草はだめだが酒はよいのですな。町でも煙草の煙は国民健康増進法によって(副流煙によって喫煙者ではない者が健康を害するという論理)、いまではすっかり敬遠されているが、じゃあ、クルマの排気ガスはどうなってんだよ。クルマはべつに問題がないなら、俺はもう、がんがんにクルマを乗り回して排気ガスをまき散らしてやるよ。地球の温暖化は少々、気になるものの、まあ、資本主義はこのままずっと続くだろうから、「資本」はすべての「自然」を収奪してゆくであろう。
■知人たちと食事をしたのは、郊外にある中華料理店であった。べらぼうに安い。しかもうまい。しばしの安楽とゆったりとした時間である。久しぶりにきょうはこころゆくまで休んだ。それにしても、ちょっと演劇のことを書きすぎて、って、仕事だけどさ、これは、で、いろいろ考えることがあったものの、疲れた。で、あらためて次の舞台のことについて、またべつの発見をさせてもらったように感じる。その意味ではやっぱり、ポツドールの三浦君、チェルフィッチュの岡田君、そして青年団の平田君に感謝した。三浦君の書いたものについて「刺激がない」と書いたけれど、たまたま、三人の舞台を同じ時期に連続して観ていろいろ喚起されたのだから、やはりありがたかったのだ。三浦君はほんとにうまいよ。岸田戯曲賞を受賞した『夢の城』からすでに、人の描き方がうまいとは感じていたが、こんなにうまいとは思わなかった。いろいろ考えた。まだ、考えることがあるっていうか、次は自分の番だ。ま、しょせん、いつもふらふらしているから、まったくちがうことをやるかもしれないが、なにかこれまでとは異なる劇言語を探している。それが書けたらねえ。といったやはり年の暮れ。

(12:35 Dec, 22 2006)

Dec. 20 wed. 「たくさんのメール」

■はじめてメールをいただいたHさんは、ときどきこのノートを読んでいてくれるそうだ。Hさんは、たとえばチェルフィッチュの前作も観ているそうで、『エンジョイ』も僕と同じ日に観たということを踏まえ、それで、ネットという公の場で「失敗している」と書くのはどうかと忠告してくれた。岡田君に会う直前にアップしたということ、「失敗しているよね」と直接言おうと思ってタイミングを失ったこと、「失敗かどうかまではわからないけれど、確かにわたしもあれがいいとは思いませんでした」とことわりを入れたうえで、それらをまとめ、

誉め言葉だったらいいかもしれないだろうけど、そうでないとなると宮沢さんは、岡田さんと近しい間柄だと思われるので、(だから、失敗してるよね、とはっきり書けるのでもあるだろうし)でも、だからこそ、ネット上で伝えることになってしまう前に、やはり、岡田さんに直接言ったほうがよかったのに…と思いました。

 まあ、それは、僕もそうだと思うのです。ただ、そのことで「対談」に影響が出てしまうのを懸念したわけで……。じつは、舞台が終わったあとすぐ岡田君には言おうと思っていたが、ちょうど僕が観た日、岡田君は仕事で劇場にいなかったのだ。そこでまず、タイミングを失った。以前、同じようなことはありまして、僕が『トーキョー・ボディ』を上演したとき、終演後すぐに、岩松了さんが僕に「失敗してるでしょ」と言ったのだった。岩松さんの率直さに感服した。そして岩松さんは、「ブランドの袋を持っているあの女の、その袋が軽く見えた」と、岩松さんらしいものすごく鋭い指摘をしてくれたのだった。で、実は「失敗している」はこの岩松さんの語法を真似したのだが、それというのも、何人かの知人が『エンジョイ』をもっと端的に否定する短い言葉で語ったが、それは実作者が口にするにははばかられ、だとするなら実作者的には「失敗している」がふさわしい。
 といったこともあって、僕はさらに『エンジョイ』のことを考えざるをえなかった。やはりあの舞台が様々なことを喚起してくれるからにちがいない。それで引用しようと思ったのは、太田省吾さんが、別役実の『象』と、木下順二の『子午線の祀り』について書いた文章の一部だ(太田省吾『なにもかもなくしてみる』より)。まず、『象』の一部を引いて太田さんは次のように書く。

 この別役実の最初期の作品『象』は、原爆の被爆者という社会的意味を負った主人公を描いた作品である。今でもそうだが、原爆問題に限らず、社会的問題を主題とする時、作者は<目明き>であり、その目の中で登場人物が動かされるといった構図をもって登場人物は作者の<目明き>の代弁をすることになっていたし、今でもこれにかわりない。
 しかし、『象』は、社会的素材をあつかいながら、それを<盲目>の言葉で語ったのである。背中のケロイドをまるで自分の生の唯一の誇りのようにして、それを見せようとする。彼はそれをどう見せれば、よりすごいものになるかを一心に語る。その熱心さは度をすぎ原爆の社会性からはずれてしまっている。彼の言葉は社会的意味を語る能動性を欠いた、いわば、<盲目>で<訥弁>の受動性の中で、これまで語られることのなかった、新しい言葉を語っていたのである。

 これと同様のことを岡田君の作品で言えば、『三月の五日間』や『目的地』には強く感じた。もちろんこのことだけ取り出せば、いまでは自明のテーゼだが、岡田君の表現方法はその現在形としてきわめてすぐれていたのである。ところが『エンジョイ』は、<能弁>だった。その<能弁>ぶりがどこからやってくるかが考える契機になる。もちろん、『エンジョイ』は僕が知っている限りのチェルフィッチュの舞台とはちがい、開演と同時に暗転になることの違和感があったり、映像による文字でテーマの一端がいきなり語られるとか、フランスでの暴動の映像が流れる<能弁>さはもちろんあるが、もっと「言葉」として、それを発する「身体的」にも<能弁>なのは、やはり作者の立ち位置ではないか。さらに太田さんは、『子午線の祀り』の一部を引いてこう書く。

 このような叡智の言葉を、私は真の意味で叡智とは考えられず、単に作者の<目明き>ぶり<能弁>ぶりを発揮しようとする、文学的な言葉としか思えないのである。真実は語られるものであり、その伝達が表現であるという、近代の支配的言語感(言語道具説)の表現例としてしかこの言葉、及びその上演を感じることができなかった。

 ここで太田さんはもっぱら「言語」について語っている。するとそれは、「演劇」でなくても、「小説」や「詩」でも、同様に問題化されることになると思われるが、さらに考えれば、木下順二の戯曲の言葉が出現させる「からだ」はあきらかに、「<目明き>ぶり<能弁>ぶりを発揮」している。というか、言葉がそうだから、そうならざるをえない「からだ」しか戯曲からは浮かんでこないのだ。だからそれが、「及びその上演を感じることができなかった」という言葉になっているのだろう。
 岡田君の表現方法とチェルフィッチュのスタイルを僕は否定しないし、すごくいいと思うが、「<目明き>ぶり<能弁>ぶりを発揮」してしまったことにより、その方法とスタイルから、流動性(桜井君的に言えば「グルーブ」)がなくなるのを感じたのは、じつはかつての「青年団」と平田オリザの方法も同様だったのだ。九二年に『ソウル市民』を観てから何作か観ているうち、グルーブに欠けてゆくのを感じて、しばらく青年団から足が遠のいた。だからなおさら、『ソウル市民昭和望郷篇』における若い俳優の身体が感慨深かったのだが。
 で、やはり九〇年代のあるとき、湘南台市民シアターで太田省吾さんの『砂の駅』を観たあと、そこに観られた舞台の表現を雑誌の劇評で、「形骸」と書いた。というのも、どう考えても『水の駅』が飛び抜けてすぐれた舞台で、『砂の駅』にはそこからの発展を感じなかったからだ。それはかなり演劇とはかけはなれた雑誌だったので、まさか太田さんが読んでいないだろうと思ったら驚くべきことにちゃんとチェックしていて、「形骸と、形式はちがうよ」と、水戸芸術館で開かれたシンポジュウムで言われたのだった。
 こうして、岡田君、平田君、太田さんという、この三人の「田」の人たちの作品が好きなのは、あきらかに僕にはない資質を持っている人たちだからだが、それを方法のレベルで考えると、「ある一定の形式」に基づいて舞台を作っている人たちのことになる。そのことを全然、否定しない。むしろうらやましいくらいだ。そこへゆくと私の落ち着きのなさはなにごとだ。

 つまり、「田」とは「農耕」を表象する文字である。

 ひとつの土地でねばり強く生産してゆく。三人の表現からそのことを強く感じる。そこへゆくと、「沢」は「水」にまつわる文字であって、流動的だ。あっちへふらふら、こっちへふらふらと、ほんとにいいかげんである。ただ、幸いなことに私の母方の姓は「太田」である。いとこに、「太田慎吾」という者がいて、この「太田慎吾」からメールが来たとき、「こんにちはー」ととても軽い書き出しだったとき、一瞬、太田省吾さんからのメールかと見誤り、すごくびっくりしたことがあるが、そんなことはどうでもいい。だからまあ、私も半分は「田」である。だからなんだって話である。ま、冗談はさておき、話を元に戻そう。

■つまり岡田君は、方法とスタイルを優先させ、作者の視線の位置に慎重ではなかった。このことを考えるとき、大江健三郎における、『万延元年のフットボール』と『同時代ゲーム』の作品的な差異がどうしたって浮かぶのである。大江健三郎は『万延元年のフットボール』という傑作によって文化人類学者がたどりつけなかったような思想を、作家的想像力によって構築した。ところが、そのあとで学者に会って「勉強する」ことで、『同時代ゲーム』を書いたとき、作家としての身体に変化が生じたのだ。僕はどちらの作品も好きだが、やはり、『万延元年のフットボール』にはきわめてすぐれたグルーブがあったとしか言いようがないし、それはそうした「身体」が生み出したある特別な小説だったのだろう。そして、『同時代ゲーム』は知識人の書いた小説になってしまった傾向はある。ま、大江さんはもともと知識人だけれども、小説を書くにあたってその身体を変化させる技術にきわめて長けた人なはずだが、それが『同時代ゲーム』において文化人類学の再学習をしてしまったという話。
■といったことを実は、きょうの駒場の授業で話したのだが、いまやっている「ノイズ論」をはじめるにあたって、『フリーターにとって「自由」とは何か』(杉田俊介・人文書院)を少し前に読んでいた。それで岡田君が、この本を『エンジョイ』の原作だとブログに書いているのを読んで、少しいやな予感がしていたのだ。というのも、『フリーターにとって「自由」とは何か』がすでにそれだけで、きわめてすぐれた「フリーター論」だからだ。しかもこの本はどこかアドルノ的だ。これを参照軸としたとき、ややもすれば、書かれた作品は「知識人の劇」になる。それが僕には、イデオロギーとしての「新劇的なるもの」に、太田さんの言葉を借りれば、「<目明き>ぶり<能弁>ぶり」に感じられた。
■さらに、このノートを読んでくれたまたべつの方からメールをもらったのだが、そのGさんは、「12月17日付けの富士日記2を読んで、いてもたってもいられなくなりご連絡差し上げました」とまずあり、「いてもたってもいられなくなった人」には、いったいどうしてあげたらいいのかと思いつつそのメールをたいへんありがたく思ったのだった。

 最近私の関わった『ソウル市民・昭和望郷編』のことや、観劇したポツドールの『恋の渦』、岡田利規さんの『エンジョイ』のことが書かれてありました。私自身、観劇後、うまく妙味をことばにできなかったところ、違和感を受けたところを、ああこういうふうにまとめることができるんだと思った次第です。
 失敗作だからこそ刺激をうけ、うまくまとまっていたから刺激を受けなかったという論点が、私にとって非常に刺激的でした。私がつねに青年団から刺激を受け取っているのも、精緻なようでいてかならずどこか破綻しているからなのか、、とも思いました。

 Gさんは、アフォーダンスの研究者として青年団の舞台に関わっている方だ。「失敗作だからこそ刺激をうけ、うまくまとまっていたから刺激を受けなかったという論点」をしっかり読みとってくれたことがうれしかったのだが、もっと正直に書けば、「刺激を受けたかったから失敗作と断じた」と書いてもいいのかもしれない。つまり、僕ははじめに、ポツドールの『恋の渦』を観てしまったわけですよ。その完成度には驚かされた。だけど、だからこそ、いまここで、この「うまさ」を演劇として観ることにどんな意味があるのだろうと疑問に思った。たとえば、『シックスセンス』という映画を観ればよいのじゃないだろうか、ヒッチ・コックの映画を観ればいいのじゃないか、っていうか。そして、そのあと、青年団を観て、さらに、『エンジョイ』を観た。この順番。これがけっこう重要だ。そこに「知識人の劇」があらわれたのである。たしかに、数人の知人のように、否定的な感想をぽつりともらしてもいいが、それだけでは同じ演劇をやっている者としては申し訳ない。「刺激を受けたかったから失敗作と断じる」ことのほうが、より健全だ。建設的だ。よくぞ、失敗してくれたと感謝したいくらいだ。でなかったら、こんなに長く演劇について書くこともなかっただろう。長いね、きょうのノートは。

■そんなわけで、舞台も終わり、大学の授業も終わり、腰も楽になり、仕事に一段落がついて、こんなに長く書いてしまった。なんということだ。先にも書いたが、駒場で「ノイズ論」の授業をやり、一瞬、内野儀さんと挨拶。内野さんも同じ時間に授業があるので、挨拶しただけで話ができなかったのだが、ポツドールと、チェルフィッチュについて話がしたかった。そういえば、桜井圭介君にばったり会ったとき、僕がこれから『エンジョイ』を観ると話すと、「じゃあ、解説してもらおうかな」と言っていたが、桜井君の意見も聞きたかった。授業のあと、ある出版社の方とオペラシティで会って本を出すことについて相談。まだ未確定なので詳細は二年後ぐらいに。
■それにしても、長いな。ものすごく長くなってしまった。
■さらに書くと、「マイノリティ」の問題について、会社でセクハラを受けたというある人からもメールをもらい、そして、「喫煙者」もまたいまや排除されるマイノリティではないかとメールをくださったのはHさんという未知の方だ。「性同一性障害」については、またべつの方から、こちらのブログがとてもいいと教えてもらったが、それはほんとに面白かったのです。この人は文章がうまい。たくさんのメールにただ感謝する。

(9:26 Dec, 21 2006)

Dec. 18 mon. 「マイノリティへ」

■午後、初台のオペラシティのなかにある喫茶店で、チェルフィッチュの岡田利規君と、STUDIO VOICEのための対談があった。八〇年代の特集が組まれるということで、「八〇年代演劇」について語るというのが対談の内容だ。で、きのうのノートは、かなり早い時間に書きあげてあったが、岡田君が読んだらこの対談にも影響が出るだろうと思って、待ち合わせ時間の直前にアップしたのだった。というか、チェルフィッチュを15日に観てすぐに書いてアップしてもよかったが、対談があるまで待っていたわけだ。いよいよアップしたあと、もう少し記述と分析をはっきりさせるため何度か書き直した。それで、「ver.3」というものになったのである。
■対談はとても面白かった。何度かこれまでも会っている、Mさんという方がテープの起こしと、対談をまとめをてくれるとのことだが、それにしてもMさんとは様々なところで会っており、同一人物だと思えないほど、そのときどき、やっていることと髪型が異なるので、いつも戸惑う。そのMさんも加わって演劇について語るのはきわめて面白かった。まあ、岡田君にしてみたら、「八〇年代演劇」はほとんど観ていないというか、世代的に観られなかっただろうし、僕も、じゃあそのすべてを観ているかといったらそんなことはなく、劇評を書きはじめたのが、八〇年代も後半に入ってからだったので、あまり詳しくはない。ただ、時代の空気と漠然とした印象はあって、「にぎやかだったなあ」とか「音楽ががんがんかかっていたなあ」「踊っていたなあ」とか、「やけに動きが早かったなあ」といった、ばかみたいな感想はある。
■そしてまた、僕もその当事者の一人であったとはいえ、八〇年代を考えると僕は傍流にいたし、自分たちが「演劇」だとはちっとも考えていなかった。むしろ、いかに「演劇的なものを否定するか」ということを強く意識していた記憶がある。でもそれは、いろいろな場所で発言しているとおり、「演劇的なものを否定」しているあいだずっと、「演劇のことを考えている」ことになるのだ。これほど「演劇」から不自由な状態もない。そして、当時、一緒に舞台を作っていた者らは、「笑い」の人たちだったとはいえ、シティーボーイズにしても俳小の出身だったり岡部耕大さんの舞台に出ていたり、竹中は青年座の劇団員だったり、中村ゆうじも演劇出身だし、いとうせいこう君も、演劇に関わっていた時期もあったりで、演劇とまったく無縁だったのは(もちろん舞台は数多く観ていたが)、僕ひとりだったのだ。なかでも、シティーボーイズが七〇年代の演劇にかなり影響されていることもあっていかにその「演劇的な身体」から逃れるか、どうこの人たちを説得するか、というか、僕のやりたいことのためにだますか、そそのかすか、演出するかに初期のころは心血を注いでいたのだ。なにしろ、僕より八歳も年上の人を演出するんだから、様々な手を使わないとだめだった。

■まあ、そんなことをふと思いだした対談だった。で、岡田君の話は、きのうのノートに書いたことに、かなり接触するような話になって、なるほどなあと、いろいろ面白かったし、やっぱり、アップするのをぎりぎりまで待っていてよかった。そうでなかったら岡田君の発言も変わってしまったと思うのだ。最初は、会ったらすぐ、「『エンジョイ』、失敗してるよね」と言おうとは思っていたが、そのタイミングを失った。対談のあと、写真撮影。カメラマンの方が妙に明るく振る舞っているのが気になった。そんなに無理しなくてもと。撮影をしたのは、オペラシティからすこし歩いた場所にある、元々は公団が建っていた、奇妙な更地である。更地の向こう、遠く西新宿の高層ビル群が見える。とてもいいロケーションだ。
■家に戻って「論座」という雑誌の原稿を書く。それから、駒場の授業のために少し準備をしたのは、「マイノリティ問題」だ。「マイノリティ」といっても様々な種類があって、一回の講義で語るような問題じゃないと思うものの、「排除する側から見たノイズ」を取りあげる「ノイズ論」にとってはきわめて重要だ。たとえば、ざっと調べただけでもこの国だけで次のような項目が上げられるようだ。

・障害者
・被差別部落問題
・ゲイなど性的マイノリティ
・在日コリアンを含む、在日外国人、日系人
・ホームレス
・アイヌ(ウタリ)、ウィルタ、ニブヒなど先住民や少数民族
・エイズ、ハンセン病など、感染症患者及び元患者

 これだけで13回の講義が埋まるほどひとつひとつが重い。むつかしい問題ばかりだ。
■で、思いだしたのは、以前、よくメールをもらっていたある人のことだ。いろいろなことをメールで教えてくれた。あるいは、僕のエッセイのことや演劇のことも書いてくれた。彼は自分のサイトを開いており、日記があったのでしばしば読んでいたのだが、ある日、彼の日記に書かれていた一節は不思議な言葉だった。それは風呂に入っているときの記述だ。そして鏡に自分が映っているのを見て、「からだの丸みがいやだ」という意味のことが書かれていた。最初、どういう意味かわからなかったが、なにかおかしい。それで、まだ読んでいなかった過去の日記を丹念に読み返したら、メールや日記の自称がずっと「僕」だった「彼」が、まだ高校生の女性だとわかったのだ。つまり、メールだけで「彼」と思いこんでいたその人は、からだは女性だが、心性は「男」であり、つまり、「性同一性障害」の女子高生だったのである。これにはさすがに驚かされた。だって、メールの相手がずっと男だと思っていたんだよ、俺は。その後、またメールをもらった。日本人の平均身長は伸びているという統計がある。けれど、その20年ほどの統計を丹念に調べると、伸びているのは男子だけだと教えてくれた。「彼」の見ているのは、どうしたって、そうした性差の仕組みである。そしてその視線は鋭い。
■「性同一性障害」は病気であるといまでは認定されているが、それでも、現在の社会では生きづらいにちがいない。「排除する側から見たノイズ」における、「ノイズ」の一側面とはこの「生きづらさ」のことなのだな。夜、早稲田の二文の学生が作っている「グラミネ」という雑誌が主宰する、「グラミネ文学賞」の候補作を読む。私は審査委員になっているのだった。

(18:43 Dec, 19 2006)

Dec. 17 sun. 「舞台を観る」ver.3

■ニブロールの矢内原美邦さんのブログを読んだら、こんどの「さよなら」のチケットがあまり売れていないといったことが書かれていたので、ここはひとつ、宣伝を。みんな観に行こう。ニブロール、チェルフィッチュ、ポツドールと、変な名前の集団ばかりだけど、いまこれを観ないでなにを観るのだ。といったわけで、以前も書いたようにダンサーとしての矢内原さんのファンでもある私は、ぜったいに観に行くだろうってわけで、劇場に足を運ばないことで有名な私としては、じつにこのところ舞台を観ているのである。

■一九九二年に青年団の『ソウル市民』を観たとき(その初演は八九年だったが)、俳優はみなぼそぼそとせりふを発していた。それは演技術としてきわめて特徴的だったし、『ソウル市民』で平田オリザが見せたいくつもの独特な方法のなかでも強く印象に残る側面だった。ところが、新作の『ソウル市民昭和望郷篇』はそれとは異なる質があって、そのことを考えていたのだが、そこに出ていた俳優たちが「若い」ということ、15年前に『ソウル市民』を演じた俳優たちとの「身体」の差異が大きな意味をなしているのではないかと感想を持ったのだ。
■「演劇的」と簡単に書くことにはややためらいを感じるが、あえて「演劇的」と書くなら、14年前に『ソウル市民』を演じた俳優たちの身体にはまだぬぐいがたく「演劇的」なものが貼りついていた。だが、平田オリザの「戯曲」の言語がそれを否定するものだったとすれば、演出としてはいかにその「演劇的なる身体」から逸脱し、横にずらし、どのように遠ざかる表現を生み出すかに焦点があてられたと想像する。ここには意図的に身体を変容させようとする演出家の手つきが感じられる。だからこそ、初期の青年団の舞台には、実のところ、「自然さ」という一般的に語られた印象とはまったく異なる、きわめて「不自然」な演技の質があった。あれはあきらかにナチュラルではなく「不自然な演劇的表現」だ。だが、若い俳優たちはすでに「身体」そのもののありようが異なっていたのだ。いわば「演劇的」ではない。この場合、「過去の」と付け加えなければ妥当を欠くが、それまであった「<過去の<演劇的なる身体」による表現では示しえない『ソウル市民』という戯曲があり、描かれているテーマもまた、そうでなければ舞台作品として九二年の時点では人を喚起することができないという平田オリザの戦術があったにちがいない。
■しばしば、「政治的なメッセージ」はそのことで「表現」を免罪させてしまう陥穽がある(つまり、「戦争反対って言ってりゃいんだろ」という銀杏BOYSの峯田的に)。だからこそ、「なにを、どう」ではなく、「どう、なにを」という表現におけるテーゼは生まれたし、僕が初めて『ソウル市民』について劇評を書いたとき、「方法」だけに触れ、テーマについてまったく書かなかったのは(ひとつには僕もまた実作者だったことがあるものの)、この舞台の画期性について書くのに、逆に「テーマ」はその「方法の意味」をくもらせるだけになってしまうと考えたからだ。で、あえて付記するなら、『ソウル市民昭和望郷篇』を言葉にするに際して「なにがここで語られているか」がいま重要なのは、そういう時代だからとしか言いようがない。ナショナリズムが跋扈し排外的な言説が強まっているこの時代に。
■話を元に戻すと、『ソウル市民昭和望郷篇』において若い俳優たちは、演劇ではごく一般的な、いわゆる「張った声」をしておりそれが興味深かった。そこにある身体がそもそもちがうのだ。それを私は、10数年にわたる「青年団」の成果だと感じる。いくら「張った声」を出そうと、「過去の演劇的なるもの」にならない身体をその成果がもたらした。ところで、『ソウル市民昭和望郷篇』にはメッセージ性をより強く感じたものの、けれど、書かれている内容は、前二作と、構造的にも、素材的にも、これといった変化はない。だが、観る側が昭和の初期という時代、つまり歴史を知っているのと同時に、現在の空気を強く感じているからなおさら、舞台上に現れているもの以上のメッセージを受け取ることになる。これが、『ソウル市民』のシリーズをはじめとする青年団の表現におけるもっとも大きな意味ではないだろうか。見えないものを観客が補完する。観客によって劇が再構成される。

■だから、「現在的な身体」について(あくまで演劇においてであり、ダンスを含めるとニブロールをはじめさらに幅は広がる)あらためて考えるとき、ポツドールとチェルフィッチュについて言及するのがいまでは当然のことになっているが、けれど青年団のこの十数年の変化もまた見逃してはならないのだろう。それをあらためて考える前に、その参照先として二つの集団の新作について語るならば(やや強引に、そして非難を覚悟のうえで書くと)、ポツドールの『恋の渦』と、チェルフィッチュの『エンジョイ』はまったく同じことが描かれていた。ただ、そこに描かれた「身体」へのまなざしが、どこにあるかという差異によって表現の方法がちがうのであり、ポツドールの三浦君が無自覚なゆえに結果としてその「身体」に至ったのとは異なり、チェルフィッチュの岡田君がきわめて分析的にそこへいたるとき、それは社会学者のような視線になることで、立ち位置がある特別な場所にあることを示す。そしてそうでありつつ、対象を「肯定するのか」「否定するのか」かが明確ではないことの歯痒さがあるとしても、ともあれ視線が高い位置にあることが「身体性」から作品を乖離させている。二つの集団の、というか、二人の劇作家を見ているのはとても興味深く、「身体性」ということで言うと、三浦君が「Aの系譜の人」であり、岡田君は「Bの系譜の人」だ。と書いてもなんのことかわからないだろうけど、『東京大学「80年代地下文化論」講義』か、『考える水、その他の石』を参照していただきたい。
■さらに考えるなら、二人の作家がそこにある身体を、繰り返すが、「肯定しているのか」「否定しているのか」になるが、三浦君はそもそもその身体の内部から言葉を書いているのでこの二者の択一の埒外にあるともいえ、ある特別なありようをしている。だから岡田君の新作『エンジョイ』が失敗しているのは、テーマが先行して書かれてしまった戯曲によってそれがきわめて制度として、「新劇的(≠近代劇的)」になっていることによって先に書いたように「身体性からの乖離」が生まれているからだ。これまでの作品では「からだ」がまずあって言葉があとからついてきたが(戯曲がそのようにして書かれていた)、『エンジョイ』はその「からだ」から遠ざかり、あの「方法(=チェルフィッチュ的なスタイル)」をそうでなければ自身のアイデンティティにならないものとして踏襲しつつも、ひどく身体性が薄い印象を受け、テーマばかりが前面にあらわれる。だからなおさら、山縣太一の魅力がきわだってしまうという奇妙な、というか、腹立たしい現象が生じてしまったのだろう。太一がやけによかったよ、あんなでたらめなやつなのに、まったくなんだよっていうか、でたらめだからこそ、この「新劇的(≠近代劇的)」になってしまった『エンジョイ』のなかで逸脱し、ただそこにいるだけで、からだが魅力を放っていたと言ってもいい。つまり、青年団の『ソウル市民昭和望郷篇』が、観客によって劇が補完され、再構成されたのとは異なり、『エンジョイ』は戯曲が完成され、(三浦君の完成度の高さとは異なる意味で)完結し閉じていることで、どんなスタイルで表現されようとも、いかにも「新劇的(≠近代劇的)」になったのだ。これはなにが原因なのかな。作者がそうであろうとしたわけではけっしてないだろう。つい、そうなってしまった。うっかりやってしまった。ま、だいたい、理由はわかっているが、あえて書かないものの、もうみんなわかっているでしょう。繰り返すようだが、『恋の渦』と『エンジョイ』はまったく同じことが描かれている。だが、表出したものが異なるのを作家性で語るだけでは足りない。
■そして重要なのは、いま、ポツドールとチェルフィッチュがまったく同じことを描いていたという現象そのものだ。べつに『エンジョイ』が失敗していても、そんなことは岡田君を非難することではけっしてないし、岡田君というきわめて才能のある作家であり演出家に疵はつかない。岡田君と三浦君が、なぜ、いまきわだって現在的であるかということこそ考えるに値するのであり、巧まずして「同じこと」を書いた共時性は(もちろん先に書いたようにアプローチと視点の位置は異なるが)、彼らが現在について特別な意識を持ち得ているからだし、そうした視線のありかを「サブカル的」と簡単にまとめるのは、あまりに時代を支配する空気に鈍感である。ある若い世代の「からだのありよう」について表現しようとしたとき、それはこの国に特別な「からだのありよう」であるばかりか、もっと大きな世界のなかに存在するこの国の「からだ」であり、その細部へ目配りすることで「世界」という大きな枠組みのなかでこそ、普遍性を獲得することになると考えられる。だからこの二人の作家から、いま目を離すことはできないのだ。
■正直なところ、ポツドールは、その見事な戯曲の結構によって「うまい」としか言いようがなかったが、だからといって刺激的ではなかった。チェルフィッチュの『エンジョイ』が失敗であることによって刺激をもたらしてくれたのは、そのことであらためて演劇を考える強い契機となったからだ。

■それにしても先週はなにをしていたのだろう。きょうはともかく、ENBUゼミに行ってレクチャーをした。なんだかんだで三時間ぐらい話をしていた気がする。あ、そうか、新潮社クラブで小説を書いていたのだな。それから水曜日、木曜日、金曜日が大学の授業。あと土曜日はまたしても鍼治療。小説は少し進む。というより、小説を書く意欲がまた出てきたので今年いっぱいには書きあげるであろう。といった年末。

(13:15 Dec, 18 2006)

Dec. 10 sun. 「ごぶさたしていました」

■更新が一週間おきになっている。
■というのも、数日、足のふらはぎのあたりに激痛があったからで、なにか書いたり本を読んだりするのに集中できなかったからだ。朝起きると、二時間はその傷みにうんうん苦しんでいたが、きょう、半身浴というものを三時間ほどやったらその痛みがだいぶやわらいだ。それで、夕方から下高井戸の「海晴亭」というお好み焼きをメインにした飲み屋に、僕の舞台に関わってくれた20人くらいが集まってくれて、一日遅れの誕生日会を開いてくれたのだった。いまでは警察官になってしまった元俳優とか、早稲田の学生たち、ずっと会っていなかった若い俳優らと再会できただけでもうれしかった。みんな、ほんとによく来てくれた。ありがとう。それからメールで誕生日を祝ってくれた方にも感謝だ。重ね重ねのありがとう。
■プレゼントをいろいろもらったし、ケーキも用意してくれた。それから直接、会場には来ていただけなかったムーンライダーズの鈴木慶一さんからは、この日のために歌をCDーRに焼いて届けていただいた。ありがたかった。ほんとうに幸福者である。そして50歳。人生の折り返し点である。なんというところまで生きてしまったのかと少し茫然としないわけではないものの、まだ、けっこう先は長いよ。いろいろ考えることはあるものの、ただ、目の前にある仕事に追われているのが現実。残念なことになっている。50歳の抱負としては、まず小説の執筆に力を入れることがあるが、再来年、ほぼニューヨークに行くことがきまっており、いままで、外国で芝居をやることにあまり興味を持っていなかったが、できるだけ他者に出会うという意味では世界を視界に入れなければならないのだろうと思うものの、だからって、僕の表現にあまり変化はなくそれで世界に出て行けるかどうかは、これから試さなければならないのだろうな。
■まあ、世界で公演したことで、なにやら「はく」をつけるとかって(まあ、そういう人たちもいますね、その「世界」がどんなところだか知らないが)ことじゃなくてさ、僕の表現が全くの他者であるところの誰かに届くのかどうか、できるだけ、内閉しないで表現することができるかを試したいのだ。だから来年は、そのためにいろいろやってゆこうと思う。研究会もやろう。また異なる表現を考えているのである。

■で、先週は、ポツドール『恋の渦』、青年団『ソウル市民昭和望郷編』の二本の舞台を観て、書きたいことはたくさんあるが、時間がない。というか、ポツドールは戯曲のレベルで書きたいことというか、それを見て作法について考えることが数多くあった。ただ、あんまりうまい戯曲なので正直、「うまいなあ」としか言いようがなくて刺激はあまりなかった。だって、これ、誰でも楽しめる見事な劇になっていたじゃないか。ほんとに見事だよ。青年団の舞台からは、はじめて『ソウル市民』を見たときと俳優の印象のありかたに変化があったことが意味するものがなにか発見があって興味深かったのだ。
■あしたから僕は新潮クラブにこもるのだ。小説を書こう。死にものぐるいで書こう。だけど、新潮クラブにこもっているあいだも大学の授業があったり仕事があったりって、それ、籠もっているとは言い難いじゃないか。ただ、また我が家で大規模な改築工事があってそのあいだ家で落ちついて仕事ができないから、正直、一時的な避難という意味があるのだった。それを許してくれた太っ腹な新潮社に感謝するしかない。白夜書房じゃこうはいかない、しぶちんだよ、白夜、増刷はいっこうにする気配がないし、ビートルズの音響を担当していた人の回顧録が出たが、贈呈ではなく、社員であるところのE君が個人的に購入して僕に送ってくれた。それにしても誕生パーティはうれしかった。それに奔走してくれた、笠木、上村、田中には感謝するしかない。ああ、人生の折り返し地点か。こんなに生きているとはなあ。まだ先は長い。もっと詳しくはまた後日。

(7:05 Dec, 11 2006)

Dec. 3 sun. 「もう12月になっていた」

■腰が少し快復してきた。というか、いいかげんに腰を治したらどうだっていわれてもいいくらい、腰の調子が悪かったのだ。それで先週は二度も鍼治療に行った。それにしたって舞台が終わって少しは時間に余裕ができると思ったらそんなことはまったくない。で、なにより苦しんでいたのは腰の痛みでこれまでだったら、鍼治療をし、少し休めば回復していたが、これまでの痛みとどこかがちがう。いっこうに治らないのだ。激痛とか、まったく歩けないのとは異なり、じくじくあとにひくような痛み。立てないわけでもないので、清水邦夫作、蜷川幸雄演出による『タンゴ・冬の終わりに』を渋谷のコクーンへ観に行き、大学の授業も休まずに行った。で、いま早稲田の文学部キャンパスは工事中、余裕を持ってクルマを駐車するスペースがないのと、学生が事故に巻きこまれそうだという理由で構内にクルマで立ち入らないようにとのお達しが文書でぼくの連絡用ボックスに入っていたのだった。学校の近くまで行ってコインパークに駐車。そこから歩くのがきつかった。痛い腰をかばい、ときどき休んでようやく教室へ(じつはその前日の木曜日(11月30日)、そのコインパークが満車で、遠くのコインパークから歩くのがいかんともしがたくきつかったので、申し訳ないが構内へ強引にクルマごと入ったのだった。背に腹は代えられぬ)。
■まあ、水曜日の駒場、木曜日、金曜日の早稲田の授業と、「早稲田大学映像演劇学会」に講師として招かれており、ものすごく腰が痛かったのだ。木曜日の授業、「演劇ワークショップ」と「演劇論で読む演劇」はいい感じで進行しているが、金曜日の「文芸専修の演習6」はまったく盛り上がりのないまま、今年は終わりそうだ。何人か、僕の『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房)を持ってきて質問してくれる学生もいるが、とにかく、出席率が悪い。六〇年代のあまり語られない外国の作家について語っても誰も興味を抱かないのだろう。それでいきおい、ドラッグの話しをしているが、そんなものに学生が興味を持つわけがないが、もうこうなったら、意地でも僕が面白いと思う作家や素材についてしか話さないことに決めたのだ。出席する学生の数はどんどん減ってゆく。それでも熱心に聞いていてくれる学生に感謝するしかない。で、最初の10分くらいまでに来た学生に出席カードをあらかじめ渡し、かれらにいい成績をつけて、あとの連中は、みんな単位をやらなくてもいいんじゃないかと思う。まあ、遅れて授業に出てくればいいわけじゃないし、人生、それだけじゃないし、もっとやることはいろいろあるだろうし、その結果、卒業できなくてもしょうがないよな。4分の3の学生は落とそうと思う。なぜなら、俺は腰が痛くたって休講しないで授業やってるんだ。なんだと思ってやがんだ。
■金曜日は、その「演習6」の授業のあと、「早稲田大学映像演劇学会」の講演として一時間くらい話しをした。九月にやった「夏期ワークショップ」の反省点を含め、ワークショップに関する僕の考え方を中心に話す。まとまっているとはいいがたいし、もっと話し方があったと思うが、正直、ここでも腰が痛くて調子にのれなかったのは残念。その後、岡室先生の大学院のゼミに出席する院生たちによる打ち上げにおじゃまさせていただいた。とても楽しい会合だった。大学院の院生だったのでみんな研究者になってゆくのだろうかと話しを聞いていた。ベケットやハイナミュラーの研究をしている人のなかに混じって六〇年代演劇の「マニュフェスト」を研究している人がいて興味深かった。なぜなのか、もっと追求すべきだった。ほかの院生たちの研究にも大いに刺激された。

■さて、『タンゴ・冬の終わりに』だ。いい本だなあ。そして、冒頭と終幕の、八〇人の「幻の観客」に埋め尽くされた廃館間近の映画館。パンフレットにはそのとき上映されているのが『イージーライダー』だと書かれていたが、パンフレットを読む前に音だけでそれが『イージーライダー』だとわかった。八〇人の幻の観客たち(皆、若い俳優たちが演じている)の姿が、あきらかに七〇年代の衣装をまとっている。それを観ていたら、大友克洋が七〇年代に発表した初期の作品の登場人物を思い出した。それはほぼ僕たちの若いころの姿のように感じた。『鵺/NUE』の戯曲を書きはじめたのは一年前のちょうどいまごろ。まさか、その一年後、同じ時期に清水邦夫さんの『タンゴ・冬の終わりに』が上演されるなんて、しかも演出が蜷川さんだなんて(いや、考えてみれば初演もそうだったしあたりまえなんだけど)思いもしなかった。ただ、この偶然の共時性は、ただ偶然ではなく、現在に対して、清水さん、蜷川さんがいま感じていることが動機となってこれを上演しようとしたのなら、同じような現状への認識から、僕は『鵺/NUE』を書いたとしか思えない。お二人はきっと、いまだからこそ、『タンゴ・冬の終わりに』を上演せずにいられなかったと解釈できる。いわばそれは反時代的なふるまいだった。だから僕は、終演後、のんきにスタンディングオベーションする人たちに奇妙な感じを受けた。
■『タンゴ・冬の終わりに』はたしかに一面では、極上のエンターテイメントだ。いかにもシアター・コクーンだと感じる。音楽は派手に流れる。かつて清水・蜷川コンビが参加していた櫻社に対する自身によるオマージュのように桜の花は舞い落ちる。観客が喜ぶ要素はまんさいだ。そしていまの観客にも理解できるように愛憎の劇として劇の結構は整っている。そして、そうした派手な舞台とは裏腹に、あたかもネガのように、『鵺/NUE』はあったように感じる。この二作はセットで見ると、きわめて面白いんじゃないかと思ったのは、おそらくそこに描かれているのが、「一九七二年」という年にまつわる話だからだ。
■今年は、『モーターサイクル・ドン・キホーテ』で、映画『イージーライダー』をモチーフのひとつにしたが、『タンゴ・冬の終わりに』のことなんてまったく知らないまま、その映画をモチーフにし、さらにいうなら、清水さんの戯曲が再評価される現象とはまったく無縁にっていうか、ほとんど意識しないまま、『鵺/NUE』で、清水さんの戯曲を大量に引用したのはまったくの偶然としかいいようがない。幸運な偶然。幸福な邂逅。しかしそこには、「防衛庁」が「防衛省」になるという時代が、表現者になにかをもたらし、うながしたという、「必然」もきっとあったと思うのだ。

■早稲田の「演劇論で読む演劇」という授業は、タイミングよく「世阿弥」の『花鏡』を取りあげた。そのなかで学生に教えられて驚いたのは、世阿弥が『鵺』を書いたのは晩年だった話だ。六十歳を過ぎてから世阿弥はそれを書いた。世阿弥が四十六歳のとき、世阿弥を支援していた足利義満が没し、義持の時代になって、世阿弥にとって不遇な時代に入る。そして六十代になって世阿弥は、自身の俳優としてのアイデンティティを確認するように、自身を「鵺」に託してその世界を書いたと解く研究者がいるという。びっくりした。だってそれ、『鵺/NUE』の構造とほぼ、同じだよ。そして僕は、そんなことなどまったく知らずに『鵺/NUE』を書いた。これもまた偶然。不思議なことがつきまとう公演になったのだった。そしてまた、そうした俳優の運命には、どこか世阿弥の時代からつづく普遍性があるのではないかと思った。もちろん、それは演劇という小さな世界だけではない普遍性である。あと、「シニシズム」のこととかかきはじめると長くなるのだが。
■といったわけで、簡単なこの一週間のことを記録しておけば、■27日(月)少し休み。腰はまだかなり痛い。■28日(火)『タンゴ・冬の終わりに』を渋谷のシアターコクーンに観に行く。■29日(水)駒場の授業。制作の永井が白夜書房のE君にぷんぷん怒っていた。永井が怒るとおそろしいよ。その後、家に帰って腰の痛みをこらえつつ「考える人」の原稿を書く。■30日(木)早稲田の授業が二コマ。げっ、疲れた。■12月1日(金)というわけで、前述の通り。授業と講演。■12月2日(土)あまりの腰の痛みで、左足にも激痛が走り、急遽、鍼治療に行く。少し回復。
■といった一週間が過ぎ、気がついたら12月になっていた。

■で、本日はとことん休む。鍼治療をしたあと仕事をしていたから回復が遅れていたのでじっくり休もうと思うのだが、じっとしていても、腰から左足に激痛。そんななか、「かながわ戯曲賞」の候補作を読む。どう考えても「戯曲」じゃないものがあったが、そのあまりのことに爆笑した。六本読み終えて、どれを推そうか悩む。
■あと、Jリーグでは浦和レッズが優勝したが、その直前、セルジオ越後さんが書いていた文章にも笑った。

外国人選手3人と三都主、闘莉王を加えれば、能力の高い外国人選手が実質5人、ピッチに立っているわけだな。勝たなきゃ、優勝しなきゃおかしいよ。

 まったくだ。半分近くがブラジル人(もちろん三都主、闘莉王は帰化しているが)って、そんなチームが勝たなきゃおかしいだろう。
■それからいくつもメールをいただいているのだが、返事が書けない。岡室さんからは「映像演劇学会」のときの僕の講演中の写真まで送っていただいたが、そのまえに、「ユリイカ」に書いていただいた原稿について感想をメールで送りますと約束していた。だけど書けないでいたのだ。そんなわけで、やっぱり体調を万全にしないとなにをしてもだめだ。遊園地再生事業団の次の公演は、来年の九月の『ニュータウン入口(仮)』だが、そこのことも少しずつ構想を練ってゆこう。調べることがいっぱいあるな。それから腰が痛くて唸りつつ小説に関する本を読んでいたら、小説を書こうという気分が高まってきた。この冬は小説をまず書こう。年末だ。わくわくするような時間である。でも、体調だよ、まずは。南米では各地で、左派政権が誕生しているというニュースはしっかり報道されているのだろうか。むしろ、九〇年のベルリンの壁崩壊前より、社会主義的な政策をとる国が増えているというのが、二〇〇〇年代の状況。南北の格差がこれを生んでいるのだろうけど、世界は深刻。そして、世界のことについてなんにも知らない自分を恥じるしかない。

(11:30 Dec, 4 2006)

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