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Published: Feb. 21, 2003
Updated: Sep. 1 2004
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 *遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』公演(二〇〇五年一月)と、
  それに先立つ「プレ公演」のお知らせはこちら。 → CLICK

 *九月十九日(日)に、「水戸短編映画祭」の招待作品として、『
be found dead』が上映される。
  詳細はこちらのページへ。


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Aug.31 tue.  「横浜STスポットで稽古」

■一時間もあれば横浜に着くだろうと考えていたのは甘かった。ためしに渋谷の入り口から首都高に乗ろうと思ったらいきなり渋滞のため入り口閉鎖である。そこに入ろうとしたばかりに交差点の真ん中あたりで立ち往生。しばらくしたら閉鎖も解除されて上に乗るとやっぱりひどい渋滞。羽田の手前からようやく道がすいて調子よく横浜に向かったが、そこを右にコースを変えなければならない地点で左に行ってしまい、山下公園方面へ、大黒ふ頭まで走ってしまいそこからどうやって元のルートに戻ればいいかわからず、いった下に降りてガソリンを給油、あらためて高速に乗ってようやく横浜STスポットに大幅に遅刻して着いた。九月二日からここで『トーキョー/不在/ハムレット』のプレ公演第三弾「実験公演」がある。
■俳優たち、演出助手たちの手によって僕が着いたときにはすでに、照明が吊られ、すべての準備が整っていた。いろいろテクニカルなことのチェック。照明がちがうのじゃないかということになってあらためて吊り直しなどし、時間がかかる。遅刻して申し訳ない気分になったのだ。なにしろ大黒ふ頭あたりで自分がどこにいるのかわからず路頭に迷っていたし。それから音響のチェック。映像の音のレベルなどを決める。俳優にはずいぶん待たせてしまった。それから「場あたり」というか、テクニカルリハーサルをはじめ、きっかけになる場面を少しずつ抜いて稽古してゆく。今回は、STスポットさんの好意で劇場を貸していただき、場あたりまでできたのはスケジュール的にかなり余裕だ。当日仕込み、場あたり、ゲネ、本番というタイムテーブルを組んでいたので、初日は地獄を見ると思っていたがこの作業をしておくだけでとても助かった。
■俳優の稽古はほとんどできなかったが、現場を使って動くことができいろいろわかったこともあった。テクニカルの操作がだいぶこなれてきたのでこれで初日のゲネもかなり余裕を持ってはじめられる。もう一日、稽古日がある。ここで俳優の芝居をさらによくしよう。演劇は俳優。たとえ「実験公演」でもそれは変わらない。ただ様々なコラボレーションがなされていることは通常の公演とはまた異なる。

■で、稽古場にはいま風邪が蔓延しているが、どうやら岸が持ち込んだものらしく次々と風邪の者が現れ、僕も家に帰ってしばらくすると少し風邪気味になっていた。こんなところで風邪を引くなんてむかつく。そういえば、伊勢は最近、脇のあたりが痛いと思っていたので病院で検査したところ、あばら骨にひびが入っていたという。伊勢は足の指の爪が皮膚に食い込んで痛くて手術をしたばかりだし満身創痍である。「あばら骨のひび」は舞台で使う映像の撮影中、岸との芝居で腕をぐっとひっぱられたときにやってしまった。そういえば撮影中、伊勢が突然「痛い」と声を高くしたのを思い出した。そんなことになっていたのか。岸のやつなにからなにまで。
■そういえば、
LOOKING TAKEDAのT君からメールをもらった。サッカーの話だ。このあいだ、ホン・ミョンボについて書いたことに補足していろいろ教えてくれた。いまホン・ミョンボはアメリカのプロサッカーチームに所属しているとの話だ。
 世界選抜にはじめて中田が選ばれて出場したとき、まだ無名だった日本人に、ただひとり、パスを供給しつづけたのが、同じくアジアから選出されたホン・ミョンボでした。彼らはベルマーレでも同じときに在籍していましたよ。
 97年のフランスワールドカップ・アジア予選で、日本が勝ち点を伸ばせず、ワールドカップ出場がかなり遠のいたとき、当時の日本代表のキャプテンだった井原選手の自宅にとつぜん「ミョンボです」と電話をかけてきて、井原選手をはげましたというエピソードなんかを聴くと、いい奴だなあと思わずにはいられませんが、ホン・ミョンボが出場しているときの韓国代表には、日本は93年のドーハでの試合以外、勝ったことがないんですよね。
 それでT君からJリーグを見に行きましょうと誘いを受ける。だが、第ニステージ、わがジュビロとエスパルスはぜんぜん調子が上がらない。T君が調べてくれた日程でいえば僕が時間が取れるのは、「第09節 10月17日(日) FC東京対磐田(国立競技場) 午後3時キックオフ」になる。FC東京は最近めきめき強くなっている。いまのジュビロで大丈夫だろうか。なにがだめか、いまのジュビロのどこが悪いかこの目で国立に確かめにゆきたくなった。
 スポーツといえば、草思社という出版社のPR誌「草思」から「野球」についての原稿を依頼された。いま「野球」のことを考えるとつい最近あるチームのオーナーを辞任したあの男のことが思い浮かんでほんとうにいやな気分になる。「球界再編」の一連の騒動はよく知らないが、とにかく「野球」にしろ、「サッカー」にしろ、競技としてそれを愛していないとおぼしきその男が、目先の利益だけで選手の行く末を左右する構造がどうしても許せず、あんなものはただ「老害」としか感じられない。もっと野球について楽しめる原稿を書きたいが、どうもいやな気持ちばかりになるのだ。
■とにかく、九月二日から横浜STスポットで「実験公演」だ。もう公演はすぐそこである。

(11:58 sep. 1 2004)


Aug.30 mon.  「公演もすぐそこまで迫っている」

■この数日はもちろん「実験公演」の稽古をしていた。三宿にある世田谷区の公共施設。さらに、きょうは二子玉川にあるやはり公共施設だったが、後者は「地区センター」と名乗るにふさわしく図書室が付属していたりまだ出来て間もないのかとてもきれいな施設だった。それで稽古は進みほぼ完成。あとは演技はもちろんだが、映像をはじめとするテクニカルなクオリティをさらにあげる作業が残っている。とはいっても照明、音響、舞台監督などプレ公演に関してはプロに仕事を頼まずすべて演出助手がやっており、大丈夫なのかと思うものの、それなりにみんながんばっているのだった。ともあれ稽古は順調。ぜひ劇場に足を運んでいただきたい。
■先週の土曜日(28日)は稽古前に渋谷のHMVへ行く。舞台で流す音楽を探すためだ。この数年の僕の舞台としては曲数が多いほうだ。数枚のCDを買う。ほかにも趣味でいくつか買いたいものがあったがそれを探しているといくら時間があっても足りないのでまた今度にしようとあきらめる。いまは落ち着いて音楽を聴いている時間もないしな。久しぶりに渋谷を歩いた。短い時間だったがやはり町を歩くのは面白い。
■そういえばこのところ青山真治さんの日記が更新されていないのでさみしい思いをしていたが、同じサイト内にある『亀虫』の冨永君による、DVD発売記念インタビューが面白かった。『亀虫』のDVDはぜひ買おう。面白いよ。そういえばDVDと言えば、いま私の家になぜか「テオ・アンゲロプロス全集」の「第一巻」が二パックあるのだった。アマゾンに注文したところ、なぜか(ほんとは理由があるが)二パック届いてしまった。もちろん一パック分しか料金は払っていない。返したほうがぜったいいいに決まっているってあたりまえだが、アマゾンからなにも言ってこないのと忙しさにかまけて返さずにいるものの、しかし、同じものが二つあっても意味がない。『ユリシーズの瞳』を観たのは何年前だったろうか。一度観たあと、よくわからないことがあって、家でヨーロッパの地図を広げながらビデオであらためて観たのだった。それでようやく主人公がどこをどう旅しているのかわかった。知っているような気になっていながら、まったくわかっていないことは多く、地図はいろいろなことを教えてくれる。

■稽古が忙しくなると稽古場の外がよくわからなくなる。世界がどういったことになっているかわからなくなる。稽古場と世界をどうつなげていったらいいだろう。そうした交通みたいなものがなくなったら、演劇批評家の内野儀さんの言葉を借りれば、「演劇の内部に閉じこもる」ひどく不健康なことになると思えてならない。だから七月の「映像作品」の上映の過程では、作品そのものに関わってくれた冨永君や、アフタートークに来てくれた青山さんら、他ジャンルの表現者の方と接触できそれはとても刺激になった。外国で公演したい気持ちはあるのだが、以前、パリに行ったときも、ソウルに行ったときも感じたが、たとえ外国だったにしても結局、演劇の小さなサークルのなかで完結している印象を持った。それでもやはり外国は他者である。あきらかに他者だった。パリの地下鉄は面白く、ソウルの豚足はでかい。そして稽古はつづき、小さな稽古場と世界をどうつなげていったらいいかを考える。なにしろここはあきらかに世界の中心ではないのだし、だがつい稽古場をそうだと錯覚しがちなのが演劇という営みであり、しかし世界の中心なんてそもそもどこにもあるわけがないのだ。

(11:45 aug. 31 2004)


Aug.26 turs.  「首都高を走って稽古場へ」

■午後から、九月二日からはじまる『トーキョー/不在/ハムレット』のプレ公演第三弾「実験公演」の稽古がある。稽古場は遠い。世田谷区の神奈川県に接するあたりにあたる、砧公園の近くだ。環状八号線の外側になると都内とはいっても風景もかなり変わる。道に迷う。環八あたりまではすぐに来られたがそこからがくねくねと住宅街のなかに入ることになり、いま自分がどこにいるのかよくわからなくなった。で、遅刻しそうになったのでそんなに遠くはなかったが二四六号線を避け首都高を使ったら環八まではすごく早かった。気持ちがいい。
■ようやく稽古場に到着。岡本地区会館という公共施設だ。住宅街のなかにある閑静な場所。近くに女子高のテニスコートがあった。まずは機材類のセッティング。僕が到着しないと準備ができないので俳優たちはおのおのストレッチや、せりふあわせをしている。ためしに通しをしてみた。映像素材もほぼ揃い、八〇パーセントくらいの通しができる。俳優たちの芝居はまだクオリティの低いところもあるとはいえ、通しができたのは収穫である。
■ダメ出しをしたところ、といっても主に映像関連の確認になったが、夕方からは抜き稽古をして未確認なところ、曖昧な箇所を稽古する。午後八時を過ぎたころぼくの体力にも限界がきていて、すこしうつろである。それでも通しや、稽古をのあいだに思いついたことをやってみる。もっとよくなるはずだし、もっと異なる演出が可能なはずだ。まだ無難なところでまとまっている印象。これからは俳優の稽古をさらに細かくやってゆこう。むろん、映像のテクニカルな稽古も必要だとはいえ、なにしろこれは演劇である。俳優があっての演劇だ。俳優の「からだ」へのアプローチがもっとなければこうしてプレ公演を重ねてゆくことの意味はない。できあいのもので作ることや、工場で作られるような大量生産のように作っていったところで意味はない。時間をかけること。手間をかけることがなかったら演劇であることの意味はほとんどないのだ。家に戻るとくたくた。すぐに眠くなったものの、四時間ほどで眼が覚めてしまった。まずい。本番まであとわずか。横浜STスポットは会場が小さいのであまり多くの観客に観てもらうことができないのは気がかりで、ぎゅうぎゅうになったらとそれが心配だ。
■予約はお早めに。当日で帰ってもらようなことだけは避けたいのだ。できるだけ入ってもらいますが。ぜひ見ていただきたい。

(8:27 aug. 27 2004)


Aug.25 wed.  「休む」

■久しぶりに休んだ。睡眠も珍しくたっぷりとった。オリンピックをテレビでぼんやり見ながら「ナショナリズム」について考えていたのでそのことを書こうと思うが、長くなるのでまたにする。あるいは、ロシアの飛行機事故のニュースを見、それがテロではないかと憶測する報道からチェチェン共和国と、ロシアとチェチェンの歴史についてなにも知らないことを思い、いろいろ調べると、『チェチェン総合情報』というサイトを見つけ、紹介されていた本を読みたくなった。そして、「ナショナリズム」を単純な図式で考えられないと教えられる。本を読む時間も、ゆっくり考える時間もあまりない。きょうは久しぶりの休みだがまた稽古はつづく。
■その後も仕事の依頼はいろいろ。返事のメールを書こうと思いつつ、ゆっくり休んでしまったので、夕方は家の近くの蕎麦屋にゆく。とてもゆったりした空間にある美味しい店だ。いろいろな意味で休みがとれてよかったものの、やはり体力の減退はぬぐえず、いったい「演出」という仕事はいつまで続けられるか疑問で、しかし、「演出」をしなくなって、たとえば小説やエッセイしか書かない仕事になったらもう人とほとんど会わなくなってしまうのではないか。だからだめだってこともないが、人から喚起されるものもまたその意味は大きい。
■で、休みだと思いながらもやはり舞台のことを考えている。まだなにかあると考える。うまく休めない。休み方がよくわからない。

(10:12 aug. 26 2004)


Aug.24 tue.  「きょうが何曜日なのかよくわからない」

■午後、文藝春秋社のOさんと、Yさんにお会いし、単行本の打ち合わせ。「文學界」に発表した『秋人の不在』は、『不在』とタイトルを変えて単行本化されることになった。そのとき話にも出たが、ミラン・クンデラの『不滅』にタイトルが似ている。表紙に大きく『不在』と文字を入れたい。来年の一月に発売。さらに『サーチエンジン・システムクラッシュ』が文庫化されるが、その文庫に、『草の上のキューブ』も所収されることになった。そうなると単行本が予定されている『資本論を読む』にしろ、ほかにもいくつかいただいた仕事をやらなくてはと思うが、小説をそのまま単行本にするといったわけではなく、『資本論を読む』にしろ、柏書房のHさんから相談されている単行本にしろ、いろいろむつかしい作業が残っているのだ。実業之日本社のTさんに近々会ってあらためて相談しなければと思う。
■夜、世田谷区の公共施設「代田南」で稽古。やろうと思ったことはほぼできあがってきたものの、いくつかトラブルはある。うまくできていない部分はあと一週間ほどの稽古のなかでとことん修正。なんとかなるにちがいなく、何とかしてみせる。「実験公演」はかなり面白くなる予定。横浜は少し遠いがぜひとも足を運んでいただきたい。寝不足のせいなのか、この数日の疲れが蓄積したのか、稽古中めまいがするときがあった。ダメを出そうと思ってもなにを話そうとしていたか一瞬わからなくなるときもあった。体力が著しく減退。ほぼ形は整ってきたがこれからさらに考え、完成品にする仕事はさらにつづく。

■この数日、なにがあったかよく記憶にない。
■ニブロールを観、稽古をし、「実験公演」で使う映像の撮影をしていたなどいろいろだった。22日(日)は朝八時から撮影。夜は稽古。23日(月)も朝八時から撮影をはじめ、終わったのは夜の11時過ぎだった。このところやけに体力がないのでこうしたスケジュールにからだがついてゆかない。家に戻るとへとへとである。で、七月の後半からからだの調子がずっと悪く、理由をいろいろな要因に求めていたが、これ、単に「夏バテ」ということになるのではないか。あるいは「エアコンの病」ではないか。「名前」は不思議だ。「名前」が与えられたとたんそれほどのことでもないと感じる。暑い中で汗をかき新陳代謝をもっとよくすべきかと考える。そう思ったとたん、不意に涼しい日になってもう秋も近いのだろうか。
■先に書いたが、「実験公演」の内容はほぼ決定しているものの、なにかもっとできるような気がしてならない。もうひとつが出てきそうで出ない。なにかあると思えてならない。考えられる「画期的な遊び」はもっとあると思えるのだ。そんなとき、もう何日か前に人から教えてもらったこんなサイトがあって懐かしい気分になったし、あのころはいろいろ遊びをしていたのだな。幸いなことにビデオの公開(ってそもそも著作権法違反ではあるが、まあ、むかしのものだからいいでしょう)が終わっているので紹介する。よく持ってたなそんなビデオを。ものに執着しないほうなのか過去に作ったものを私はほとんど所有していない。

■ネット上の古書店「POP書房」に、国書刊行会から出ていた「文学の冒険」シリーズの一冊『ビリー・ザ・キッド全仕事』(マイケル・オンダーチェ)が200円で売りに出されていたので迷わず買う。200円は破格だが送料と銀行の振込手数料で700円ぐらいになりよくわからない状態になった。この価格だとしたらカバーがないとか、文中に線が引かれているなどいわくつきなのだろうと思い、まあ、それでも読めればいいと思って届いたその本を見るとどこといって問題はない。僕は持っている本を売ろうというつもりはまったくないが、ただ小説にしろ、評論にしろ線を引かずにいられないので、売ろうとしてもその時点で価値はまったくなくなるだろう。で、考えたんだけど、この200円はなにかのまちがいだったのではないか。そのPOP書房のほかの在庫を見るとそんなに安い本はない。「やっちまった」と店の方は思っていないだろうか。以前、やはりネットでそんな事件がたしかあった。新品のコンピュータを千円とかそんな価格で表示してしまったといった種類の出来事だったように記憶しているがとんでもないミスだ。やっちまった人はどんな気分だったのか。本人にとっては悲劇だが、はたから見ると喜劇にしか感じられない様々な「やっちまった事件」がかつてあった。飛行機の中で「爆弾だ」と冗談を言った人もいた。あれはかなり「やっちまった度」が高かった。
■そして稽古はさらにつづく。ところで「実験公演」で使う映像の最後の撮影は渋谷のラブホテルの部屋の中だった。大勢でこういったところに入るのはなんだか奇妙なものだ。それにしても平日の夜だというのにほとんどの部屋が塞がっているのは奇妙な状況だと感じたもののそんなことはふつうなのだろうか。二〇〇四年の八月、私たち数人はたまたま、渋谷のラブホテルにいた。オリンピック、ラブホ、ナショナリズム、演劇、セックス、文学、ダンス……、いろいろな単語が意識の中をぐるぐるめぐっていた。

(14:55 aug. 25 2004)


Aug.20 fri.  「彷徨える演劇人」

■そんなに好きなのかと訊ねられたら返答に困惑するが、18日(水)から本格的に横浜STスポットで九月二日から公演される「実験公演」(上の案内をご覧ください)の稽古がはじまった。また稽古だ。血のにじむような稽古である。僕のクルマに稽古で使う機材類がすべて積んであるので遅刻すると準備が遅れ稽古の時間が短くなると思いつつ、道をまちがえて遠回りした。というか、稽古場をまずまちがえて「代田南」という場所に行ってしまった。彷徨える演劇人は都内(主に世田谷区)を点々としているのである。19日に使ったのは「井の頭線・池の上駅」がもっとも近いと思うがひどく不便な公共施設で、もうかなり以前にワークショップで一度使ったことがあった。自転車で当時はそこに向かい地図で調べもっとも近いと思った道に急な登り坂があって死ぬ思いをしたのが懐かしい。
■きょうは「代田南」ではなく小田急線」の「経堂駅」と「千歳船橋」のあいだあたりにあるやはり公共施設だ。ほとんどの俳優がすでにせりふが入っている。「実験公演」らしくいくつか面倒な仕掛けがある。稽古の大半はその「仕掛け」ばかりになってしまうものの、少しずつ芝居もよくなっているのではないか。リーディング公演の第一稿を少し書き直し、構成し直し、そうして作ることの「実験性」を楽しみたい。
■ところで、いまこの国ではオリンピックの話で持ちきりだが、そんなとき私が気になっていたのはJリーグの第2ステージが開幕し、横浜のアン・ジョンファンがゴールを二点決めて清水に勝ったことだ。あの男は恩義ってものを知らないのか。清水時代にはちっともやる気を感じなかったが、韓国代表戦になると別人のような動きをし、そして契約金が高かっただろうマリノスに移ったとたんのこの活躍だよ。韓国の選手でわたしが好きだったのは柏にいたホン・ミョンボだ。地味だがとてもいいリベロの選手だった。ソウルに行ったとき看板に大きく彼のプレー中の写真があって思わずデジカメで撮影した。あれはいつだったんだ。韓国にリーディングの仕事で行ったのは去年の秋だっただろうか。韓国はよかった。肉が美味しかった。喚起されることが数多くあった。なんの話を書こうとしていたんだ。
■まあ、それはそれとして。私事で恐縮ですが、いくつか仕事の依頼をいただいた。この秋は「実験公演」「準備公演」があり、さらに『
be found dead』の上映で各地に出かける予定もある。文藝春秋からは『秋人の不在』の単行本が発刊される。そして本公演に向かっていよいよ稽古だ。で、来年一月の本公演が終わったら二月は徹底的に休もう。徹頭徹尾休む。断固休む。鬼のように休む。仕事はそのあとにさせてもらおう。それから先はなりゆきにまかせて生きるのだ。

■ぎりぎりまで原稿を待ってくれた「ユリイカ」のYさんからメールがあったのは数日前のことだ。いま書いている「チェーホフを読む」は私にとってほんとうに大事な仕事のひとつだ。Yさんも書いてくれた。
この連載は手前味噌ながら宮沢さんにとってのエポックとなる非常に重要な お仕事だと思っています
 まったくその通りです。だから一回ずつとにかく丁寧な仕事にしたい。今月はだめだった。なにか調子が出なかった。で、このあいだ『三人姉妹』の読みについて、四人の女たちを軸に読むのではなくもっと異なるアプローチとして「軍隊」からの視点があるのではないかと書いたところ、柏書房のHさんから分厚い本を送ってもらった。『極秘 日露海戦写真帖』(柏書房)だ。あ、そうか、そちらからの視点もあるな。日露戦争におけるロシア側の視点。日露戦争は一九〇四年(ちょうど百年前だ)にはじまっているが、『三人姉妹』をチェーホフが書きあげたのは一九〇〇年だ。外圧ばかりか、国内ではすでに革命勢力が力をつけていた時代であり、そうした時代背景のなかで、なぜチェーホフは「三人の姉妹」のドラマにおいてこれほど軍人を数多く登場させたのか。オーリガが最後に口にするあの有名なせりふは単に「姉妹」の行く末を語る言葉だったかどうか。あるいは、この時代におけるロシアでの「軍人」の意味と、その地位はどのようなものだったか。それにしてもですね、『極秘 日露海戦写真帖』はすごいよ。どこが「極秘」なのかよくわからないほどでかい。分厚い。資料としての価値もあるがそれより写真がいろいろな意味で面白い。『三人姉妹』について原稿を書く構想を練りつつも、ただ興味だけで写真を見ていたのだった。
■どこをどうたどったのかわからないが、まったく知らない方の日記を読んだ。その文章がとてもよかった。リンクしたりするとその方に迷惑になると思うのでやめるが、そのまま小説になるんじゃないかと思いつつも、これはやはり、ネット上の日記だからこそ魅力的なのだろうと感じる。どういう文章だったか引用したい気もするがそれも迷惑だな。それであらためて小説とはなんであるか考える。小説を読みながら考えていた。稽古ははじまったとはいえ、大学の仕事が終わって少しだけ余裕ができ、「入れる」ことができるようになった。ものを考える余裕も、わずかだができてきた。

(12:04 aug. 21 2004)


Aug.16 mon.  「夏も後半へ」

■今月はもうすでに原稿をひとつ落としているので、「ユリイカ」だけは死にものぐるいで書こうと思っていたが、だめだった。なぜこのノートが更新されなかったかもそれに関係して苦しんでいたのだ。というか、苦しむ以前にちょっとした気鬱とでもいうか仕事の疲れが出て放心状態になっていた。なにもする気にならない。気晴らしにと書いたら、せっかく会ってくれたスチャダラパーのシンコ君、以前、『14歳の国』を「演技者。」というドラマ番組で演出してくれたO君に悪いが、二人に会ってゆっくり話しができほんとに気分が晴れた。恵比寿の飲み屋で会い、それから家に招く。深夜までいろいろ話ができてとても楽しかった。まあ、ちょっと仕事の話をする目的だったが仕事というよりただ世間話に終始してしまったものの。それが13日(金)のこと。12日(木)はただ苦しんでいたこと以外記憶にない。
■さらに気分は落ち込む。『三人姉妹』の「三人」という構造を使い、やはり三人の女が登場するベケットの『行ったり来たり』を引きつつ、この二つの劇の差異をきっかけに原稿を進めるつもりだったが、全体の戯曲の構造はもっと複雑であり、では、三人の女たちが軸となって、少なくともそのうち一人でも軸となってドラマが進行すればいいものを、そこに弟がいて、その妻がいて、さらに家を取り巻く軍人たちのことも気になってしかたがないと考えているうち、これは「三人の女+ナターシャ」の愛憎劇として読むには凡庸すぎ、また異なる読みを考えるなら、「軍隊」が駐留する町に生きる女たちという側面があって、それを「戦争」という「愛憎劇」とは少し離れた位置から見つめるのが劇の全体を支える土台の確認として意味があるのではないかと思うと、それは現在の世界と呼応した「チェーホフの読み」になると思えてならない。
■そこからまた組み直しだ。来月までに資料を集めて書き直そう。「軍人」たちの存在がいやでも、三人の娘たちと、三人が住むこの家、この町、もっと言えばこの世界のことを読み取るきっかけのテキストになると思えて仕方がなかった。だから資料が欲しい。当時のロシアの軍隊と世界情勢、そしてロシア革命前夜のロシアのことも書きたいと思った。誰も書かなかった『三人姉妹』の読みを試みよう。

■14日(土)は原稿に苦しむというよりキーボードに向かう気にすらならずぼーっとして一日が終わる。これは休みだ。俺は圧倒的に休んでいるんだとクルマを走らせ遠出(千葉県柏方面に行く)などして一日が終わる。15日(日)。『
be found dead』の音楽を再考するという打ち合わせで、音楽担当の桜井君、第一話の監督鈴木、第二話の浅野、製作の永井、さらに岸が来て打ち合わせ。桜井君が新しくいろいろ音楽を作ってきてくれた。時間があるときちんとしたものができる。いろいろ技を持っているので、この場面はこういった感じでと頼めばその通りに作ってくれ、やっぱ、時間だよな、この問題をどうしたものか。音楽で映像はずいぶん印象が変わる。
■「文學界」のOさんからメールがあり単行本の話。となると、小説『秋人の不在』の件だろうか。だとしたらうれしい。『資本論を読む』もなんとかしなくてはと思いつつも、今週の水曜日から毎日のように九月の「実験公演」の稽古がはじまる。で、本日、「ユリイカ」の原稿が書けず、心身ともに具合が悪くなったので夕方に予定していた仕事をキャンセルしオリンピック中継を放心状態でただ見ていた。早く陸上競技がはじまらないだろうか。「ものを遠くへ飛ばす競技」が私は見たいのだ。円盤投げにしろなんにしろ、「ものを遠くへ飛ばす競技」の選手のあの投げる瞬間の「あがげが」といったようなわけのわからない声をまた聞きたい。
■そういえば、「
""RINGS」はなんと発音すればいいかという質問をメールで何度かもらっておりそのたびに書こうと思いつつ忘れていたが、きっぱり「四角リングス」と発するのが正しい。で、そう思ってあらためて「""RINGS」を各サイト調べたところ、よく見たら、僕のサイトにリンクされていない「""RINGS」のリストがあるのはいかがなものかと思ったものの、それより小浜のサイト「ボクデス」にいたっては「リンク」のページすらない。

■夏らしいこともしないまま、夏は終わってゆく。暑さは続いても、もう夏は終わる。

(13:35 aug. 17 2004)


Aug.11 wed.  「ひたすらの焦燥」

■原稿に苦しんでいる一日だった。書き出すまでに時間がかかる。だったら片づけておかなくてはいけない細かい仕事を先に済ませようと、大学へ送る書類、先日行ったある人たちとの雑誌の取材のゲラの直しをする。夕方、ぶらっと買い物をするためクルマで外に出た。気持ちのいいこの国の湿度だ。借りていたビデオを返すのに新宿のTSUTAYAを目指すが道は渋滞。さらに借りようと思っていたビデオは貸し出し中だ。こういう日はなにをしてもタイミングがずれる。「チェーホフを読む」が書けないというか、『三人姉妹』がむつかしいといったことではなく、大学が終わって疲労がたまっているのにゆっくり休む時間がとれないまま、気分は焦燥し、虚脱のようなものに支配されなにをするのでももうひとつ集中力があがらないだけのことだ。「ユリイカ」の原稿を書きさえすれば(「一冊の本」の原稿も残っているが)なんとか落ち着くはずだ。13日の夜は人と会う約束をし、こう書くとなんでもないことのようだが、最近のわたしは、舞台関係じゃない人と会うのはよほどの覚悟と、会いたい気分が高まらないとだめだ。青山さんともサウナに行こうと思うし「熊野大学」の土産話も聞きたい。そういえば、en-taxiで編集をしているTさんとは五月から会おう会おうと約束していながらまったく時間がなかった。また、謎の東京夜の探索ツアーに連れて行ってもらいたい。メールを書こう。約束していたからな。でも、原稿。そして「実験公演」の準備だ。『28』を書くのも集中しなくてはいけないが、「群像」に書いた「ルシ」を中心にした「夢」のような短編小説もぽつりぽつりと書き続けてゆきたいと思う。『秋人の不在』の原稿を渡すまで文學界のOさんからはしつこいくらい連絡があったが発表されてからはまったく音沙汰がない。ぱったり音信が途絶えた。そういうものなのだろうな。とにかく「ユリイカ」にいい原稿を書こうと思う。

(4:10 aug. 12 2004)


Aug.10 tue.  「実験のためにいろいろ試す」 ver.2

■ほんとは「ユリイカ」の原稿の締め切りがきょうだったが書けなかった。さらに『ドキュメンタリー・ドリームショー』(リンク先新しくしました)で対談するはずだった森監督がその日(九月十一日)はまだ外国にいて帰ってこられないことが判明。話をできなかったのは残念だ。どうするか担当のHさんからメール。またべつの方と話をするか、トークそのものをなしにするという案もある。揺れる。
■そして夕方からわたしたちは『トーキョー/不在/ハムレット』の「実験公演」のための稽古であった。世田谷は下北沢からかなり歩く代田南の公共施設。これまでにも何度も使ったが、かつては家が比較的近くだったので自転車で通った場所だ。今回の「実験公演」には何人か参加することができない俳優がいて、その部分はあらかじめ撮影した映像で出す。それも含めて「実験公演用」の台本がないとまずいのだが、書けない。だから今回も、「実験」のための「実験」。まだなにかあると思うが、それはたとえば、「演技」そのものについてになるはずだが、まだばたばたして、落ち着いてものが考えられない。これはいい機会なので、もっと大胆に「演技」そのものについて「実験」の余地があるはずだ。本公演になるとできないというか、本公演だからそこまで踏み込めないようなまた異なる「演技」や、「からだの使い方」がなにかできると思うものの(つまり失敗してもいいなにかだ)、そこまで至らない稽古になってわたし自身ももどかしい。こういった機会はめったにない。しかし「演技」となると、それに至る「訓練」が必要になるにちがいなく、そのためにはもっと長い時間を俳優のからだの変化に時間をかけるべきだ。たとえば、このあいだ書いた「近代をちゃんとやりなおす」にしたって少なく見積もっても十年はかかるのではないか。それにつきあってくれる俳優がいるかどうか。それはおそらく「劇団」というものになってしまうだろう。
■かつて私は「劇団」を徹底的に拒否した。「集団」をぜったい作らないように意図していたが、つまりそれは、八〇年代以降の演劇における「集団」が形骸化しているのをまのあたりにしていたからで、「なぜ演劇は<劇団>という集団的創作形態が必要なのか」についての根本的な問いが欠落したまま、「演劇ってのはあれだろ、やっぱ劇団からはじめるんだろ」とばかりに無自覚に集団が形成されていること、そしてその「集団」が曖昧な「拠り所」としてしか機能していないと見えたからだし、時代の趨勢がすでに「劇団」に有効性がないことを明白にしてきたことも大きい(八〇年代、九〇年代以降のプロデュース公演の隆盛がそれを裏付ける)。けれど、「時代の趨勢」の背後にあったものをさらに問うこと、なぜ有効性がなくなってしまったかという「問い」が欠落していることもたしかにあった。だから「また異なる表現への試み」はおそらくその「問い」からはじまり、「集団的な創作」の根拠をあらためて確立しなければ、「訓練」もなにもあったものじゃない。「訓練」していることの意味もわからぬまま、「訓練」したところでなにも生まれない。東京の小さな演劇の世界ではなくもっと広い場所に出て行くための表現は、ごく単純なそうした「問い」からはじまる。また演劇についての文章を書くようにしよう。それが来年以降の課題になる。

■そんなふうに演劇のことを考えていたが、それより、いまここもまた、というか、「いまここ」こそが大事なので、「ユリイカ」の原稿を書くのである。「チェーホフを読む」もいよいよ最終章になり、『三人姉妹』を読んでこれが連載の最後になる。先日、大学の発表公演で上演した『ガレージをめぐる五つの情景』は、過去の作品を書き直したものだが、短縮し少し手を加え、さらに演出も変えたところ、なかなかまとまった作品になった気がし、どこかでストレートプレイとして上演したいと思った。で、それがやはり、三人の姉妹の話だ。初演当時はあまり意識していなかったが戯曲を削ってあきらかになるのは、やっぱり、三人の姉妹がいればそれぞれの女たちの関係は、チェーホフの『三人姉妹』における、「オーリガ」「マーシャ」「イリーナ」になってしまうのだった。『トーキョー/不在/ハムレット』のあとは、これをどこか小さな空間で地味にやろう。このあいだ大学の発表公演では美術はT君という学生がプランをたてたがそれをそのまま採用しよう。すると、
studio21のような空間がほしくなる。いや、そんな先のことはまだいいのだ。いまはただ、『トーキョー/不在/ハムレット』であり、そして、チェーホフの『三人姉妹』を読むことだ。

(11:58 aug. 11 2004)


Aug.9 mon.  「散々と焦燥の日」

■午後、松倉と「dots」のパフォーマーの一人であるI君が家に来たとき、私と永井は、関係各位の方々に配布する『be found dead』をDVDに焼こうと奮闘しているところであった。聞きしにまさる忙しさだ。Macに付属する「iDVD」というソフトを使って一時間四十五分もの映像をDVDに焼くのは無謀だったのかもしれない。やたらと時間がかかる。エンコードという作業をしているのをただ待つしかない。ところがいくつかわからない問題が発生しそのたびに岸に電話してやり方を教えてもらううちいろいろなことを覚える。こうなるともう、Final Cut Proもだいたいわかった。基本の仕組みがわかってくると突然、目の前が開けたようにわかってくる。あまり松倉たちと話をすることができなかったが、それでも「dots」の舞台の話ができてよかった。その反面、DVDはもうこりごりだ。もっといろいろ覚えればいいのだろうが、できている映像をただ焼く作業はひたすら消耗するだけでクリエティブなものがなにひとつない。ひたすらエンコードできるのを待つばかりだし、そして一時間四十五分の映像を一枚のDVD-Rに、「iDVD」を使って焼くのは大変だからと三分割したが、その一枚目ができて家のDVD再生機で観ようと思ったら読み込めない。気が狂いそうになった(あとで永井からプレイステーションで読めたと報告があったのが唯一の救いか)。
■こうしてよくわからない一日は終わった。
DVD作製の作業のあと、ビデオプロジェクターを借りに荻窪まで永井と演出助手のTをクルマに乗せて走ったが、車検のために整備してくれたおかげか、快調な走りになった。修理を依頼したT.C.RosaryのTさんによると、「このクルマはあたりでしたね」とのこと。エンジンがよくてかなり速いという。どうりでやけに走ると思っていたのだ。
■とはいうものの、原稿の不安と焦燥があってなにも楽しめない。やらなくてはいけない雑事いろいろ。眠る前に本を読むのが唯一の安寧。

(5:36 aug. 10 2004)


Aug.8 sun.  「ナガサキからも遠く離れて」

■いくつか書かなくてはいけない原稿があり、まず、「実験公演」の上演台本があるが、「リーディング公演」で使った第一稿をもとに「実験公演」用に、いくつかスタッフのためにも直し、また「リーディング」とは異なる性質のものにしようと思ったが、まったく書けない。というか、書く気力が出てこない。というのも、大学が終わってから気が抜けたせいか仕事をする気がしないのだ。さらに「ユリイカ」の「チェーホフを読む」がある。こっちは純粋に書けない。だめである。せっぱつまっているのだ。そこにきて、上演台本をプリントアウトするためのプリントアウト専用コンピュータが動かなくなった。メモリを認識しない。窮地に追い込まれる。
■そんななか、土曜日(7日)は青山のスパイラルホールに、「
dots」の舞台を観に行った。会場は「京都造形芸術大学祭」かと思われるように、うちの大学の教職員、卒業生、在校生らの顔があったが、それでも東京の観客も来てくれたにちがいなく、なにか可能性を発見してくれたらいいと願ってやまなかったものの、僕が観た昼の回はかなり機材のトラブルがあったとのこと。とはいえ、言い訳にはならず、そこまできちんと整えて最後の最後まで確認をしなければならなかったはずだ。ただ、会場への入り口の作り方、そこにあった美術作品、丁寧な照明など僕も参考になったことは多かった。パフォーマーも少し成長したのではないかと感じたが、表現に昇華されている部分と、そうではない部分のむらも感じた。演出のK君は徹底的に美学的な舞台作りをし、ドラマからいかに遠ざかるか、演劇の文脈からどこまで遠ざかってゆくかを試み、その妥協のなさがいい。東京を中心にした演劇の、あたりまえのありかたに媚びない作り方で、状況に異を唱えるというより、これしか自分に表現できる方法はないのだと自分を貫く。トラブルをはじめいくつかまだ未熟さは感じるものの、可能性はきっとあるのだ。
■手早くこの二日間のことを書けば、車検がすんだというので、きょうはまた南大沢まで行き、クルマを引き取る。クルマがないと機材類の運搬もあって稽古にも支障をきたす。早く検査が終わってよかった。で、仕事をしようと思うがぜんぜんやる気が出ない。三月からまったく休めなかった「からだ」が抵抗しているかのように、仕事はしない。本を読んではいるしそれもまた仕事といえば仕事だが、やるべき当面の課題がちっとも片づかない。というかどうしてこうも落ち着かないのか。仕事はどこまでもどこまでも続くのだった。18日からはずっと稽古が続く。あ、そうだ、矢内原美邦さんというか、ニブロールから公演のお知らせメールが届いたが(大勢の人に届いているとは思うが)、その冒頭、矢内原さんはこんなふうに書いている。
こんにちは、私は毎日、毎日スタジオにいてダンサー、役者、スタッフにしか会っていません。あーーーーーーーー! もう、夏は恋の季節なのに!
 笑ったなあ。何を言い出したんだこの人は。

(7:49 aug. 9 2004)


Aug.6 fri.  「ヒロシマからはるか遠く離れて」

■そういえばこのあいだ、演劇評論家の長谷部さんから電話があって、京都に行くので会いませんかという話だった。残念ながら京都にいないので会うことはかなわなかったが、久しぶりにいろいろ話をする。『秋人の不在』を読んでくれたとのこと。面白かったというのだが、僕が、「あれは、エンターテーメントのつもりで書いたんです」と話すと、「えー、浄化がないじゃない」と言われ、言われてみればまったくその通りで、謎を数多く出しながらちっとも解決されない。カタルシスはほとんどない。なきゃいけないんだなエンターテーメントは。むつかしいな。
■午後、「実験公演」に向けての打ち合わせを演出助手のEやM,そして制作の永井はもちろんだが、本公演の舞台監督をしてくれる森下さんと打ち合わせ。主に、装置について。プレ公演はできるだけシンプルにと考えていたが、「実験」のためにはいろいろやらなくてはいけないものの、ここでの「実験」は、「実験演劇」の「実験」とは多少、趣が異なる。「リーディング公演」には、「戯曲を試す」という意味があるが、「実験公演」は、「演出を試す」ということだときょう気がついた。これはあくまで、「本公演」ための「実験」であり、そうした意味において「実験公演」である。だから、会場に入ると観客に目隠しをするとか、会場をいくつものしきりで囲い、観客をばらばらにして壁の向こうで起こっていることが見えない観客もいるといった「実験」ではない。私は寺山修司ではないよ。
■終わってから永井と、新宿のビックカメラに行って、『
be found dead』のデータをすべてひとつにまとめようと外付けのハードディスクを買いにゆく。大容量250ギガ。かつて、40メガのハードディスクを使っていたような時代から比べたらたいへんなことになっている。2ギガのものが出た当時だって、なんに使うんだよそんなに容量があってと思っていた時代が懐かしい。Mac関連の売り場ではじめて、iPodを手にした。全面が白いと思っていたら裏がそうではないデザインに少しがっかり。そういえば広告で裏側のことを見たことがなかった。
■家に戻って本を読んだり、ビデオを観る。「実験公演」についていろいろ考える。でも、全般的にはだらだらしていた。さらに「
PAPERS」って、このサイトのTOPページだが、その更新。もっといろいろ変更したかったが、ひとまず「実験公演」と、「水戸短編映画祭」についての告知だ。
■いろいろな人に会いたいと思っているが、スケジュールをよく観ると、今月の後半はもう、「実験公演」の稽古であまり時間がないのだった。約束している人たちと会う時間があまりない。「ユリイカ」の原稿もあるしな。結局、夏だというのに、エアコンのよくきいた部屋でだらだら原稿を書いている。小説『28』はいつになったら完成するんだ。『資本論を読む』の単行本はいつ出版できるのだ。ほかにもいろいろ頼まれているのにちっとも先に進まなくてみんなに迷惑をかけている。まあ、あせらずにじっくり丁寧な仕事をぼちぼちやってゆこう。あせってもろくなことはないに決まっている。ヒロシマからはるか遠く離れて。

(5:41 aug. 7 2004)


Aug.5 thurs.  「だらだらしたい」

■書くのを忘れていたが、大学での一年生の授業で課題を出した。「授業の感想」という簡単なテーマだが、「表現方法自由」というのがこの課題のポイントだ。何年か前に同じ課題を出した。そのときいちばん面白かったのは授業風景のドローイング作品。なんでこんなことを丁寧な絵にするのかわからなかったが、そのよくわからない情熱において点数がはねあがった。今年もいろいろ届いた。文章もあれば、ビデオ作品もある。だが、必ずいるのが迷惑千万な学生で、今年は研究室から送られてきた課題を詰めた宅急便の箱に「生たまご」があった。箱を開けると異臭がする。生たまごが割れ、どう考えても腐っている。あと、「うどん」。それからなにも考えていないとおぼしき「湿布薬」。腰がだめになってそれで休講したからだろうか。あるいは、お店の袋のなかにファンシーグッズのようなものがあってだね、それ、課題じゃなくてただのプレゼントだよ。それらを含め、すべて許容し、いちいち楽しませてもらった。
■午後、映画や舞台の音楽を担当してくれる桜井君や、『
be found dead』の鈴木と浅野の二監督、さらに、俳優としても『トーキョー/不在/ハムレット』に出演しそして映画を編集してくれる岸、そして永井が家に来た。もちろん遊びではなく映画の音楽についてだ。時間がなくて満足にできなかった音楽を検討する。鈴木、浅野の映画はもっと音楽があっていいのじゃないかと提案し、それは、『be found dead』が、単に短編をランダムに並べたのではなく、構想していたように並べられており、「第一話」「第二話」の役割というものに沿ってあらためて音楽を検討するという意味だ。さらに、すでにできている音楽も、音質をもっと深くしてもらうよう桜井君に頼む。
■だから、九月十九日(土)に「水戸短編映画祭」で、『
be found dead』が上映されるが、これ、音楽をさらにグレードアップした「水戸版」である。京都での上映は、十月の二十三日か、二十四日のいずれかになる予定だが、まだ未確定。大阪はまだなにも決まっていない。そこへ、新宿ロストプラスワンでも上映しないかと声をかけていただいたらしい。年内にもう一カ所でもいいから映画館のレイトショーで上映できたらと思っている。ついでだから、「実験公演」の宣伝もしておくが、九月二日(木)〜五日(日)まで「横浜STスポット」で上演される。こちらもぜひご覧いただきたい。

■横浜の「実験公演」のためにTOPページ「
PAPERS」を更新したいと思いつつ、ついだらだらと過ごしてしまった。いや、だらだらしたいんだ。だらだらすることが大事だ。そこから次へきちんと切り替えればいいんだ。というか、いやでも切り替えさせられる。「実験公演」の上演台本を作ること、雑誌「ユリイカ」(青土社)の連載を書くこと、そしてまた稽古。いやでもやることはある。それでもあいまに本を読んだりビデオを観ていた。だらだらと受容する時期だ。
■そんななか、今週末の八月七日(土)、青山のスパイラルホールでうちの大学の卒業生のK君がひきいるパフォーマンスグループ「
dots」の公演がある。これはぜひとも観よう。というかできるだけ多くの人に目撃してほしい。異なる文脈からあらわれたまたべつの表現。東京の演劇シーンに刺激を与えてほしい。いろいろな人に会おうと約束していながら、それが果たせない。考えることがいろいろあり、どうも落ち着いた気分になれない。だから「だらだら」だ。だらだらする時間をもっと作ろうと思う。

(6:42 aug.6 2004)


Aug.4 wed.  「四十七歳の憂鬱」

■え、俺、審査員長なのか?
■リーディングの演出をするのはたしかにやると返事をした記憶がある。制作の永井から「長」について話を聞いた気もするがよく覚えていない。というか、永井の話をちゃんと聞いていないことが多くていつも迷惑をかけているものの、「長」だとは思わなかったし、すると審議がまとまらないとき、「では審査員長に最終的な判断を」といったことになってこれは少し荷が重い。言っておくがなあ、「学級委員長」をはじめ、「長」といったものに私ははこれまでほとんど縁がなかったのだ。いつでもものごとから距離を取りいいかげんな立場で遠巻きに接しているのが気が楽だったというのもある。それでも、四十七歳。同じ四十七歳の男が防衛庁長官をやる時代が来るとは思ってもいなかったのだし、兵庫県加古川市では、四十七歳の男が七人を殺傷し自宅に火をつけるという事件が起こった。チェーホフの『ワーニャ叔父さん』におけるワーニャもまた四十七歳だ。加古川の事件を知ってまず誰もが思ったのは、犯人の行動や生活スタイルと、「四十七歳」という年齢のあいだがうまく埋まらない奇妙な感触ではないか。たとえば、三十五歳だったらどうか。三十五歳もどうかと思うがまだわかりやすかったはずである。自宅の敷地内に建てたプレハブの住居に引きこもる生活と「家庭内暴力」とも呼ぶべき行動をとる「四十七歳の男」の存在が事件の理解を困難にさせている。ワーニャもまた、第三幕で親族の一人を殺そうとし、しかし加古川の男とは異なって目的は果たせず、死のうとしたがそれもできなかった。ワーニャは人生を「六十年」と考え残りの時間を「まだ十三年もある」と言葉にすると、どうやってその十三年を生きたらいいか苦悩する。では加古川の四十七歳は残りの人生の「時間」をどのように考えていたか。「まだ○○年もある」なのか、「もう○○年しかない」なのか。おそらく、ワーニャもきっとそうだったはずだが、それはひどくきわどい位置にあってどちらに傾くかはっきり把握できない危うい場所だ。それはまた、「死」と「生」について、そんなことを考えるのがばかばかしいと思いつつ、その反面、いやでも考えてしまう場所であり、だからこそあやうい年齢になる。ワーニャが抱えていた憂鬱とはそのような「もろさ」だ。加古川の男が持っていた「狂」は、四十七歳の防衛庁長官の中にあってもおかしくはない。とてももろい土の上にそのからだがあるからだ。
■そんな憂鬱なことを考えているうち、書かなくてはいけない連載原稿を落とした。それでまた落ち込む。大学の仕事が終わって少し休みが取れると思っていたが、いくつかやらなくてはいけない仕事や、諸々の雑事があるうち、3日(火)から「実験公演」のための稽古がはじまった。稽古するうち当然ながら「実験公演」用の上演台本が必要だと思い、その構想を練る。リーディングではないのだし、「実験」なのだから大胆であっていいはずだ。物語る必要はないのではないか。もっとできることがあるはずだとあれこれ考える。なにかあるはずだな。きっとなにかある。稽古をしたのは小田急線を、梅ヶ丘まで乗って駅から歩くと10分ほどの場所にある公共施設だ。かつて住んでいた豪徳寺の家のごく近くだ。ひどく懐かしい気分にさせられた。

■たっぷり休みをとりたいがそうもいかない。自分で考えてはじめたことだから仕方がないが、今年一年は、『トーキョー/不在/ハムレット』で終わる。ひとつの舞台に向かってじっくり取り組むというのはどういうことなのだろう。様々なアプローチでそれを描いてゆくのはどんなものなのだろう。まだなにもわからない。

(6:56 aug.5 2004)


Aug.2 mon.  「電車に乗って」

■九月十九日(日)に、「水戸短編映画祭」の招待作品として、『be found dead』が上映されるが、その詳細はこちらのページにあります(フレーム内のページを勝手にリンクしてすいません)。
■クルマの車検を
T.C.Rosaryといういつもお世話になっているお店に頼んだので、きのう(八月一日)は京王線・南大沢まで行った。甲州街道を西へ。府中の先で鎌倉街道を左折、それをまっすぐ走ると南大沢に着くが、いつ行ってもやはり遠い。北川辺町は「埼玉県の北端あたりに位置する」といった覚悟が最初からあるが、同じ都内でこれだけクルマを走らせるとさすがに遠いと思わずにいられない。車検のためクルマを店に預けて帰りは京王線に乗って家に戻る。窓の外を見ていると、どこからどこまでが、いつの時代に宅地として開発されたかその光景からわかって興味深かった。南大沢まで京王線が走るようになったのはいつの時代だろう。そこから多摩センターまでは山を削って高層の集合住宅が建設されたのがわかり、その先、稲田堤あたりは、一戸建ての住宅がびっしり並ぶ町になる。そして多摩川を越えるとまた窓の外の姿が変わる。調布から先になると広い景色を眺めることが少なくなり、笹塚で京王新線に乗り換えると、私の家のある初台まではもうずっと地下だ。
■「東京」と簡単に言葉にしたり、僕もまた、「トーキョー」と都市的なるものを記号化してしばしば書くが、それはいかにも漠然としており、ひどく曖昧で抽象だ。様々な「東京」が具体的に存在していることを、クルマを走らせたり、電車に乗って知ることができ、ことに電車に乗ることで受ける刺激は大きい。たとえばそれは笹塚で京王線新線に乗ると、車内のつり広告のちがいに見いだすことが出来る。見たこともないような広告が、京王新線というか、都営新宿線にはあるのだった。たとえばひどく趣味の悪い色でごてごてデザインされた携帯のエロサイトの広告がある。地下鉄を含め、電車のなかでこういった種類の広告を見た記憶がほとんどない。かつての都営新宿線もこんなではなかったはずだ。どこか落魄している印象を持った。

■そしてきょうは、『トーキョー/不在/ハムレット』プレ公演第三弾、「実験公演」の会場になる「横浜STスポット」に行った。集合時間に六十分遅刻。新宿から横浜まで「新宿湘南スカイライナー」という電車が走っているのをはじめて知った。新宿が始発だったので余裕で座ることができた。とても便利だが、どこをどう走っているのかよくわからない。「西大井」という駅があったなあと車内アナウンスを耳にしたが、本を読んでいてふと顔を上げると「新川崎」という駅だった。次がもう横浜だという。驚いた。驚いたのは新宿駅で横浜までの運賃を見たときだが、なんせ「540円」だ。JRは高い。ともあれ、STスポットに着くと、制作の永井、演出助手のEとM、そして出演する片倉、渕野、上村、南波の七人がいた。以前ここでダンスも見たし、「かながわ戯曲賞」の公開審査会がここで開かれたから来るのははじめてではないが、あらためて見ると、やけに狭く感じた。それで間口の尺などを測って「実験」のための計画を進める。「実験」は着々と進んでいるのだった。だいたい、この連続的なプレ公演ってやつがもうすでに「実験」ではあるが。
■あ、それで思い出したが、「かながわ戯曲賞」は昨年、僕はただの審査員だったので、読んで面白かったものを推薦し、『神曲』という340枚もの大作を推したが、いま応募受付中の今回は、受賞作のリーディング公演の演出をしなくてはいけないのだった。こうなると「読み方」がぜったいに変わる。演出可能かどうかを考えるに決まっており、まず『神曲』は推さないだろう。それは一見、ひどく理不尽な話のようだが、要するに、前回はただ「読む人」で、今回は「演出する人」になり、このちがいはあきらかにある。はっきりいって俺は340枚もの戯曲を演出したくないよ。正確にいうと、「340枚もの戯曲を<忠実>に演出したくない」だ。34枚に短縮して演出したくなる。あと、「登場人物180人」といった作品もごめんこうむる。180人をどうやって集めたらいいか悩むからだし、その一人一人に演出家として対応するのがきわめて疲れるからだ。
■それにしても、『神曲』(作・高野竜)という戯曲はよかった。技術的なことを言えばもっと要求されることはあるが、あの戯曲で「北関東」の言葉について喚起され、「北関東」に意識的になって地図を見たのだし、そして「北川辺町」を発見した。さすがに最初は340枚の戯曲にたじろいだが、まあ、ジャン・ジュネの『屏風』に比べたらどうってことはないとはいえ、ほかにも10作品ぐらいを短期間で読まねばならず、さすがにそのときはとんでもない仕事を引き受けてしまったと後悔したものの、ひとつひとつ丁寧に読んだからこそ、この仕事で喚起されるものがきっとあったのだ。「丁寧に仕事し、施主が安心するように、のちのちまで面倒を見る親切」が、建築業だった父が私に遺してくれた言葉である。まだ生きているけれど。

(4:46 aug.3 2004)


二〇〇四年七月後半のノートはこちら → 二〇〇四年七月後半