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去年は、『モーター・サイクル・ドン・キホーテ』『鵺/NUE』と、あらかじめ企画があった舞台を二本上演し、それはそれとしてとても有意義な仕事をさせてもらった。あるいは戯曲を書くということについてまた考えることがあった。そして、今年の遊園地再生事業団の活動は、九月に本公演のある『ニュータウン入口』である。『ニュータウン入口』は、『トーキョーボディ』『トーキョー/不在/ハムレット』の路線に戻り、若い俳優を中心とした出演者たちとの共同作業だ。四月に「リーディング公演」、六月に「ワークインプログレス」。これは『トーキョー/不在/ハムレット』と同じ「作り方の試み」だが、同じことをやってもしょうがない。
また異なることへのべつの試みだ。考えることはまだあるはずだし、演劇の可能性をもっと拡大すること、演劇を通じて、作る側も、そして観客も意識を拡張するための舞台ができればと考えている。いやもちろん、これから作業は本公演が上演される(三軒茶屋シアタートラム)九月の上演まで続くし、2004年から2005年にかけ一年をかけて上演した『トーキョー/不在/ハムレット』と同様、いくつかの試みとしてのプレ公演、ワークインプログレスを通じて作り上げてゆく。
今回は、若松武さんをお迎えし、さらにオーディションによって集まった俳優によって様々な試みをしてゆこうと思う。また、誰からも理解してもらえないかもしれないし、いまの演劇の潮流からはまったく外れたところで作品ができてしまうかもしれないが、それはそれで、まあいいかなという気がする。それが二〇〇〇年代になってからの遊園地再生事業団の方法だ。つねに考えること、考え続けていること、その運動している状態自体が遊園地再生事業団と、宮沢の演劇へのアプローチだ。潮流から遠く離れて、だが、現在にコミットしつつ舞台を作ってゆこう。それは刺激的な試み。むしろ、作っている自分たちにとって作業それ自体が、刺激的な体験になることがもっとも必要とされる。
詳しくは、こちらの『ニュータウン入口』のページへ。たくさんの方にその冒険する舞台を目撃してもらえたら幸いである。
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世田谷パブリックシアターの主催により、野村萬斎企画「現代能楽集」のシリーズに宮沢が挑戦した作品。謡曲「鵺」を題材に、宮沢が書いたのは、『鵺/NUE』である。ヨーロッパ某国空港内になるトランジットルームを舞台に、ヨーロッパ公演を終えた演出家、俳優らが、かつて日本の小劇場で活躍し演出家と供に舞台を作っていた人物「黒ずくめの男」に出会うところから物語ははじまる。
過去の劇言語を現代によみがえらせることをコンセプトに、清水邦夫の戯曲を大胆に引用した作品。宮沢にとっては、はじめて仕事をさせてもらった若松武、上杉祥三らとの仕事で、またべつの刺激を受けた記念すべき作品になった。さらに清水邦夫さんが、現代人劇場、櫻社のために書いた七〇年代の作品を引用することで、ある過ぎ去った時代からいまに繋がるなにかを求める作品になった。
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ハーバード大学のスティーブン・グリーンブラッド氏の立案によって、シェークスピアの失われた戯曲『カルデーニオ』をもとに世界数カ国で、それぞれの解釈によって創作された作品の日本における上演の実践として作られた舞台。横浜赤レンガ倉庫で2006年5月に上演された。赤レンガ倉庫の建物の構造を生かしバイクを走らせたが、『カルデーニオ』が、セルバンテスの『トン・キホーテ』を元にしていることから男二人の旅の物語であり、補助線となったのは、往年のアメリカ映画『イージーライダー』である。タイトルは、もちろん、チェ・ゲバラの青年時代を描いた『モーターサイクル・ダイアリー』からの引用。どちらの映画でもバイクで旅に出るとき登場人物たちは、「俺たちはドン・キホーテだ」と言う。男二人が旅をすれば、それは世界中どこに行ったって、「ドン・キホーテ」なのである。横浜市鶴見区のバイク屋を舞台にした、男と女の愛憎、そしてバイクの物語。ベースになっているのは、『カルデーニオ』。ここにグリーンブラッド氏の言う「文化の流動性」はあった。この舞台に関する詳しい話は、こちらのサイトで批評家の内野儀さんが解説してくださっているので参照していただきたい。
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| 上の写真は、『トーキョー/不在/ハムレット』である。あれからもう二年が過ぎてしまった。過去の作品にいつまでもこだわっていてはしょうがないが、反省はいろいろある。そして、『トーキョー/不在/ハムレット』で試した方法をまた発展させ、あるいは、そこで考えたべつの方法や、いま、有効性を持った演劇として書くべきドラマをやはり模索しなければ、ひとつひとつの試みはただ、やりっぱなしで終わってしまう。また考える。『トーキョー/不在/ハムレット』で試した、「プレ公演方式」、あるいは、最近よく使われる、「ワークインプログレス」の連続上演の方法は、すでに書いたように、『ニュータウン入口』であらためて試してみるつもりです。けれど、『トーキョー・ボディ』と『トーキョー/不在/ハムレット』からはじまった遊園地再生事業団の新たな展開は、これからの舞台にどうつながってゆくか、それに期待していただきたいのです。 |
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毎日のように更新されるノート『富士日記2.1』はいまだに続いている。様々な人が読んでくれるのはただ感謝するばかりだが、それで各地の方より情報もメールでいただき、こうして書きつづけることがどれだけ私にとって価値となっているかわからない。宮沢はいまなにをしているのか。舞台について考え、新しい戯曲のために取材する日々、そして原稿が書けなくて苦しんでいる毎日の記録だ。そして、書けない原稿に苦しみつつ、ぼんやりした脳で考える。様々な思考のノート。今後の予定の報告。なにか気になることがあったらチェックしていただきたい。遊園地再生事業団と宮沢章夫の動向は一目でわかる。さて今後は、新作『ニュータウン入口』を作る過程が書かれてゆく予定だ。四月にある「リーディング公演」をはじめ、九月の本公演にいたる約半年のあいだを、舞台とはまた異なる姿をしたノートで目撃していただければ幸いである。引きつづき、お読みください。「富士日記2.1」はこちらへ。
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ワークショップもまたいろいろ考えている。なんどか戯曲を読もう、もっともっと戯曲を読んで、その側面から演劇にアプローチしようと書いてきたが、また新たな表現を探求するワークショップをやりたいものの、戯曲をさらに深く読むための「テキスト・リーディング・ワークショップ」はなにかの機会があったら、またやってみたい。

様々な戯曲をただ読む試み。世界中に無数の戯曲がある。俳優志望でなくても誰もが参加できる。「読み合わせ」をすることで「劇」の仕組みを考える。いったい「劇」はどういった構造で書かれているのか。そして「せりふ」と一般的に呼ばれる「言葉」が、「演劇」そのものの変化と平行して、どう変わったのか。演劇を深く知るためには、まず戯曲からだ。だけど、「表現の探求」もやってみたい。以前、「富士日記2」でこそこそ演技について勉強する会をやろうかと思っていると書いたが、その時間が、ぜんぜん、ないんだよ。やってみたいなあ。じっくり考える機会を作りたい。それは、ほかならぬ、自分のためにある。
あと、舞台表現に関する「研究会」のようなこともやりたいのだが、いろいろ忙しくてできないのだなあ。それをワークショップという形でやってゆこうと考えるものの、しかし、どういった方向に「研究」していったらいいものか悩むのであった。うーん、まだまだ、道は遠い。
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二〇〇七年、私の、そろそろ春
久しぶりのPAPERS更新だが、たいして内容は変わっていない。と、前回書いてから、もうほぼ一年である。というか、このページを更新するのも一年ぶりぐらいになるのだった。なにをしていたのだ。まあ、しょうがない。とはいえ、前回もここに書いたとおり「富士日記2」は、人からあきれられるほど更新しているものの、トップページの更新は、いろいろ面倒だ。トップページのデザインも一新したいし、そもそも、「ウェブ標準」というやつにしたいのだが、その勉強をする時間があったら原稿を書かなければいけない。
やっぱり、いまやネットで情報を収集する時代になっているのだった。「情報」と軽い言葉になるが、「情報」ばかりか、「知識」までもがネットで獲得できてしまうほどの勢いである。
様々なメディアの広告収入がどのような状況にあるか報道が伝えている。いまやネットが、雑誌を追い抜かんばかりの勢いになっているという。なかなかにあなどれないメディアが「ネット」である。だから、このトップページを更新して、また新しい観客に出会える可能性がある。もちろん、舞台の成果が大事だがこうしてサイトからなにかを発信することも、またべつの表現のような気がしているのだ。だが、「ウェブサイトは忙しい」のである。それでも、情報や言葉を伝える手段としていまやネットは大きな意味を持っている。限界ももちろんあるが、可能性もある。そのこと自体はいまだに、試行している段階だ。
さて、舞台も大事だが、私は四月からエッセイの連載をあらたに2本はじめることになって、なによりそのことが忙しいのだ。まず雑誌「東京人」の連載がある。こちらは、「戯曲」を読んで、そこから印象的な「せりふ」をきっかけに文章を書く試み。別役実さんの『台詞の風景』がお手本だ。けれど、真似をしたってしょうがない。私なりの戯曲の読み方をしなければ。さらに、筑摩書房のウェブサイトでの連載がある。これからはこうした形体が増えてゆくのだろうか。でも、私は雑誌が好きだ。雑誌が家の棚に並ぶような姿が好きだ。あと、ネットだと書き換えがわりと簡単だと思うのだけれども、どうなんだろう。それから、過去の資料にあたるというとき、それは古い文献や雑誌になると思うが、そういった文献による研究対象としてネットはどうなのか。なにしろ、消えるのが早いでしょ。それから書いている側だって、ブログに顕著だが、それほど真剣じゃないかもしれないのだ。こういうことはどうなるのだろう。ともあれ、四月から新しい連載がはじまる春だ。
そして、『ニュータウン入口』のプレ公演第一弾「リーディング」が四月にあります。ぜひともこちらに足を運んでいただきたい。 |
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『考える水、その他の石』(白水社)

『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房)

『演劇は道具だ』(よりみちパン!セ・理論社)

『チェーホフの戦争』(青土社)

『レンダリングタワー』(アスキー)

「『資本論』も読む」(WAVE出版)

『不在』(文藝春秋)

最近の宮沢の仕事。こんな雑誌に連載の原稿を書いています。

一冊の本(朝日新聞社)
「文学でゆく・横光利一『機械』を読む」

考える人(新潮社)
「考えない」

MacPower(アスキー)
「ノート」

東京人(都市出版)
「このことばからはじまる」
WEBちくま(筑摩書房)
「テクの思想とその展開」
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