Sep. 3 wed. 「血圧が低い」

■退院は五日になった。ようやくこんどこそきまりだ。長かった。丸二ヶ月だ。疲れた。毎日、なんど血圧を測ったことか。朝、六時過ぎにまず最初の検温と血圧測定があり、いくら眠くたっておかまいなしに看護師さんたちはやってくる。眠いけれどからだを起し体重も計りに行く。きびしかった。その規則正しい生活、ある意味、その不自由さにストレスがたまりそうだった。何度も退院がのびのびになり、そのたび意気消沈していたのだ。精神的にかなり疲弊した。手術より、そのときのダメージのほうがきつかった気さえする。
■これもひとつの経験か。病院の奇妙な時間のなかで、さまざまなことを考えていた。ゆったりとしたその時間がもたらすものはなんだろう。とはいっても、血圧を計るのは忙しかったのだ。しかも、なぜか血圧がずっと低かったし。上が、八〇台しかなかったんだよ。高いよりはいいんだろうけどさ、動脈硬化にくわえて、これで高血圧だったら、脳がね、危ないってことだろうし、あと糖尿も怖いが、そういったいちいちが「老化」ってことであって、いやになる。
■久しぶりに漫画を読んだのは、その帯にあった次のコピーにひかれたからだ。いましろたかし『盆堀さん』より。
およそ漫画の主人公たりえない人間たちが、ほぼまったく活躍せずに終わる世界。
これ、相当いいな。しかも、『盆堀さん』は、まさにその通りの作品になっているからきわめて面白い。たしかに「ほぼまったく活躍しない」のだ。病院はけっこうドラマティックである。なかでも、心臓血管外科、脳外科となると、突然の発症で緊急手術が多いし、患者だけではなく、家族が集まって劇的に事態が展開することはある。するとそこに、ちょっとしたことでも「劇(=ドラマ)」は発生するだろう。上のコピーを、「およそドラマの主人公たりえない人間たちが、ほぼまったく活躍せずに終わる世界」と書き換えれば演劇の話になる。では、「病院」という「場」は、必然的に劇を発生させてしまうかといえば、そうでもなく、それは場に向ける視線によって決まるので、同じ「場」のどこを見ているかによって、表現される「場」の色合いも変わる。
ただ、こうした「劇性」の低さ、あるいは、「劇的なものからいかに遠ざかるか」について、コミックも、演劇も、あるいは小説も、これまで繰り返し試みをしてきたのではないか。たとえば、「演劇」は「劇的なもの」を疑い、劇言語そのものを、いかに過去の「演劇のことば」から遠ざかるか、九〇年代の半ばから盛んに試行されてきた(ほかの分野も同様かもしれない)。
いましろたかしが描く世界が、またべつの姿をしているのは、その描画の奇妙なリアリティだ。けっして細密ではないし、うまいと思えない描画が、それゆえに醸し出す人物の実在感は、理想とされるべき「漫画の主人公像」とはかけはなれ、しかも、どうでもいいような内面を抱えて思考し、行為する。その思考と行為が構成するのは、「ほぼまったく活躍せずに終わる世界」だ。だとしたらかなり「実験作」のようでありながら、出現する作品の感触は確実に「ドラマ」である。人の愚かさが客観的に描かれた「喜劇」である。
あるいは、きのうのノートに「釣り」について書いたあとから、この『盆堀さん』を読んだんだけど、偶然にも釣り好きの登場人物が出てくるばかりか、作者のいましろさんが、そもそも釣り好きだった。これもなにかの縁か。「釣り」のほうへとなにかが動いている。
■とはいっても、からだの調子もあるし、たとえ、実際に「釣り」に出かけるとしても、まだ先になるだろう。九月は、胸骨をしっかり治すことが肝心だ。まだ痛いんだよ。リハビリをかねて軽い運動もしよう。そして十月までにやっておかなくちゃならないこと、ほんとだったら夏休みにすべきだった大学の準備、なかでも「都市空間論」のまとめをしなくては。読むべき本が山のようにある。
(9:11 Sep. 4 2008)
Sep. 2 tue. 「病院の時間」

■写真は、入院している病院の吹き抜けである。でかい。
■「新潮」のM君とKさんが見舞いに来てくれた。直接的にこの手術や闘病について書くというわけではなく、これをきっかけに、また新たな創作の手がかりになればと励ましてくれた。そう言われてみると、いま時間について、「感じ方」が日常とは異なるものになっており、まるで子どものころ、川へ遊びに出かけ、水の音をいつまでも耳にしていたときのような、そうしているだけで、ほかになにもしないでも困らなかったときのような奇妙な感覚になっている。子どものころに遊んだ川は信じられないほどきれいだったし、ほかに物音もせず、水の音は心地よくあたりの森に響いたものだった。
■そんなことを考えていたら、中学生のころに読んだソローの『森の生活』のことを思い出した。中学生の僕にはまだむつかしく感じるところもあったが、書物の全体から湧き上がるような匂いは、あとになって知ったが、その時代のある傾向を持った「空気」だ。『森の生活』は六〇年代から七〇年代にかけて、自然志向派というべきか、もっと端的にヒッピーと表現すべきか、その世代の人たちの参照先のひとつだった。病院のなかにコンビニがあって、「BRUTUS」の最新号があったので手にすると「釣り」が特集されていた。べつに、「釣り」をやろうとは思わないが、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を持ちだすべくもなく、「フィッシング」の思想の一面に、やはり、自然志向というか、「森の生活」的ななにかがある。それで『フライフィッシング教書──初心者から上級者までの戦略と詐術のために』という本をネットで発見し、すぐに注文した。繰り返すようだが、べつに釣りをするつもりはないのだ。子どものころから、釣りにはいい記憶がちっともない。ただ、フィッシングの本が読みたかった。釣りを含めた「森の生活」的な本が読みたいから、今泉吉晴さんという人が新たに翻訳して評判もいい、『森の生活』(小学館・二〇〇四年)をアマゾンで注文したのである。これらはみな、「サブカルチャー論」に属する事柄である。べつに趣味的ななにかというわけではなく。
■で、「新潮」のM君とKさんが見舞いに来てくれたから思い出したわけではないが、小説『返却』に書いた、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のあの独特な、章立てというか、エピソードが重ねられてゆく手法は、まあ、よく理解できないリズムで刻まれているが、「釣り」をする行為を考えればその不可解さが解けるかもしれないと思った。ブローティガンの文体、と僕が認識している日本語は、どうしたって翻訳に決定づけられている。構造や構成を考えると、そこに「釣り」があるように思えてならない。だから僕には、『アメリカの鱒釣り』がうまく理解できなかったのではいだろうか。なにしろ僕には、子どものころから「釣り」にいい記憶がまったくないのだ。
■そんなことを考え、つらつら書いているうちに、だんだん「釣り」をしに出かけたい気分になってくるから人間、わからないものである。繰り返すが、「釣り」にはいい記憶がないし、先述した「BRUTUS」には開高健の釣りについての記事があって、読むといよいよ「釣り」にいい印象を持てないが、けれどなにかが魅了する。
■夕方、映画を作っている岸と、『ニュータウン入口』にも出た杉浦さんが見舞いに来てくれた。聞けば、杉浦さんもからだの調子が悪いという。心臓じゃないかと心配していた。岸はぜんぜん、健康そうだ。そして、病院生活はまだまだつづき、奇妙な時間の流れのなかで、「釣り」のことを考え、「森の生活」について考え、まずなにからはじめたらいいか迷っている。
(13:16 Sep. 3 2008)
Sep. 1 mon. 「夏は終わったけれど」

■もう九月だ。夏は完全に終わってしまった。なんだったんだよ、夏。
■入院してから二ヶ月になろうとしている。こんなことになるとは思いもよらなかった。数日、チェルフィッチュの山縣太一君をはじめ、いろいろな人が病院を見舞ってくれた。それから、元筑摩書房の打越さんからはハガキとお見舞いが送られてきたが、ハガキに「私はこの夏、マジックとチアリーディングに明け暮れました」とあって、どう理解していいかわからなかった。
■大阪のM君からはメール。最近、「素人の乱」の松本哉君と友だちになったという。それで、松本君、それからかつて京都にいていまは静岡で働いているK君と三人で会いに来たいという旨のメールをもらった。うまくいって四日に退院するとしても、まだ胸骨が痛いので外で人に会うのが不安である。松本君とは、ほんとは阿佐ヶ谷のロフトでイヴェントをやる予定でもあったし、ぜひとも会いたい。M君、K君は、遠くにいるのでなかなか会う機会もないから、やはり会っておきたい。ただ骨なんだよ、問題は。だいたい、そのイヴェントにこんなからだの状態になってしまって参加できないのが悔しい。面白そうなことがあったらどこにでも行きたいが、からだがだめだと、動けないんだから腹立たしいよ。ロフトの人にも迷惑をかけたし。きちんと治さなくちゃな。楽しいことがなにもできない。
■夜、主治医のN先生から手術の経過と、今後の治療について話をうかがった。胸骨のレントゲンを見せてもらったが細いワイヤで縛りつけてある。元のようにきっちり接合するには二ヶ月ぐらいかかるらしい。クルマの運転は控えたほうがいいとか、いくつか注意されたが、胸はしっかりカヴァーしつつも軽めの運動は続けなくちゃいけない。軽めの運動だから、チアリーディングは無理だと思う。で、根本的に考えると動脈硬化だから、食事を制限したり、煙草をやめたり、ストレスをためないなど、日常を全面的に更新しなくちゃならない。なにしろ、医師によれば、「もう心臓はこれ以上、よくなりません」だ。だからよくない心臓を保守するための生活である。煙草はやめ、塩分の少ない食事をするのはいいとして、ストレスをためた記憶がこれまでないものの、なんかあったんだろうし、それを解消するとき僕の場合、煙草が大きな意味を持っていた。だとしたら今後はどうしたものか。そうはいっても、やっぱりチアリーディングじゃないと思うんだよ。
■それにしても、心臓血管外科の医師たちはものすごく働いている。僕が入院してから、部長のT先生や、主治医のN先生とは毎日会っているし、朝の八時過ぎ、夕方、必ず回診に来る。そのあいだ、外来があり、手術があったり僕がICUにいるあいだはN先生がしょっちゅう様子を見に来てくれたし、いつ休んでいるのかぜんぜんわからない。不思議だ。あと、よく働いたというなら、自分の心臓だ。虚血性の心臓病というのは、心臓の筋肉の一部が死んでいることだと説明を受けた。ある部分が死んでいたらそこを切り取って縫い合わせる手術も今回はする予定だった。そこまで死んでいないのでそれはしなかったが、まばらに死んでいる部分が存在するという。だから、「心臓はこれ以上、よくなりません」になる。心臓にいろいろ負担をかけてきた長い時間の結果だ。よく働いていたのだ。それでもうこれ以上は無理だというので、瀕死の心臓が悲鳴をあげ、肺に水がたまった。よくがんばった。これからは大事にしながら生きてゆこうと思う。
■さて、退院まで、あとわずかだ。ようやく仕事の続きができる。やらなくちゃいけないこと、あるいは、読んでおきたいもの、あらためて資料にあたって調べたいこと、考えることがいくらでもある。いま、また、新しい興味が生まれた。どんなに愚鈍であろうと、反時代的であろうと、興味のあることしかしない。そのほうがストレスもたまらないし、心臓にもいいからな。そしてそうした興味への情熱が、創作や、大学の授業に反映すればいい。
(10:15 Sep. 2 2008)
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