富士日記2PAPERS

Jan. 2007 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Feb. 25 sun. 「オーディション最終日(の予定)」

オーディションのテキスト

■左の画像はきょうの課題だ。このコピーを渡してエチュード。説明はなにもない。ただこれを読んで、あるいは見て、ながめ、感じたまま、グループ分けした数人でなにか作ってもらう。でも、僕もこの図のようなものを作ったときなにかしっかり考えていたわけではなく、ただ、最近このノートに出てきた「言葉」をレイアウトしただけである。っていうか、デザインすることが楽しくてしていたのだった。でも、それでどこにみんなが注目するかを見ていたのもある。
■あるフランスの演出家が日本で開いたオーディションは、演技空間を少し歩き、そして、コーヒーを飲む仕草をしてもらうというごく簡単なものだったと話に聞いた。それはたしかに正しいような気がする。それだけでわかるといえばわかるからだ。この数日、ずっとオーディションをしていたのだった。なんでこんなに手間のかかることをしているのか自分でもよくわからないのだが、ここからすでに創作がはじまっているといっていい。書類選考からはじめて三次のオーディションを終え、そこから36人にしぼって、きょうが第四次、最終日だった。これでもまだ考えあぐねた場合はもう一回、やろうと考えているのは、ことによったら決断力に欠けるってことじゃないかと思いつつ、それでも、愚鈍にオーディションを重ねる。ああ、愚鈍だなあ。うまくものごとをすいすい運ぶことができないのだった。だからなにをするにも時間がかかるが、それはしょうがない。そういうふうにしかできないのだった。
■応募者の一人から送られてきたメールには、たまたまべつの劇団のオーディションとぶつかったのでそちらのオーディションを優先するという内容だった。それがとてもいい内容だったのは、

規模も遊園地と比べると小さく、待遇もおそらく悪い、チケットノルマのある公演だとは思いますが、作文にも書きましたとおり、僕は、すでに演劇界では第一線以上のところでご活躍の宮沢さんよりも、ポツドールやチェルフィッチュのような若手の劇団が、宮沢さんのような方々にケンカを挑んでゆくような立場の方が楽しめる、○○○○○(その劇団名:引用者註)にはその可能性があるかもしれないと考えたのが辞退の理由です。

 ということだったからだ。これはまったく正しいと思う。そんなふうに考える俳優がいることに感動すらしたのだ。というか、僕も若いころは似たようなことを考えていた。すでにある潮流に乗るのではなく、自分でいまある潮流を変えてやろうという意志だ。だから大劇団の養成所に行ってしまう人を見ると、若いのになんだよってしばしば思うのだった。まあ、生き方とか、価値観のちがいだな。でもまあ、そんなことになるとだな、僕の舞台のオーディションとか来てくれる若い者がいなくなってしまうので、なんとも言いようがないものの、このメールには驚かされたし、新鮮な発見があった。あと、俺もねえ、その「制度」とか、「潮流」といったものに、常に「ケンカ」を売っているつもりだったのだが、ある位置にいるのかもしれないと思うとそれが悲しいのだ。いつまでも、ケンカを売る側にいたい。保守化したくないし、えらくなりたくないわけだ。まあ、そういう年齢じゃないよって言われたら、それはそれで、しょうがないのだけれど。っていうか、それがいよいよ悲しい。

■それにしてもひどく疲れた。この数日で200人くらいに会ったのだ。しかも何度もだ。あと、オーディションが終わってクルマで帰る途中、靖国神社の前を通ったら、乗せていた上村が、ここに初詣に来たというので、さらに疲れた。なんの意志もなく、なんとなく来たのに決まっている。意志があればまだ議論の余地はあるが(いや、議論するのは面倒だが)、それはきっと無知ということだろう。無知は罪にちがいない。それで言ったら、三次のオーディションで使った、『ハムレットマシーン』のテキストの読み合わせのときのことが思い出される。そのテキストに左翼の思想家、革命家の名前がこう列記されている。「マルクス、レーニン、毛」。それを何人かがこう読んだ。

「マルクス、レーニン、ケ」

 まあ、しょうがないよね。笑ったけどね。爆笑しちゃったけどね。知らないんだよな。これが人物の名前だっていうのもわからないんだろうし、「マルクス、レーニン、毛」がどういう文脈で書かれているかもわからないのだろう。「漢字の読み」には、地名にしばしば顕著だが「知ってるか、知らないか」は大きく存在する。「福生」という漢字を読んで、東京近郊に住んでいなくてなにも知らなければ、はたしてこれを、「ふっさ」と読めるか、あるいは、静岡県の人間以外でどれだけの者が、「焼津」を「やいづ」と読めるかはわからない。「マルクス」と「レーニン」が出てきたら、次に、「毛」とあれば「毛沢東」という人物名がさっと出てくるのはある世代ということになるのだろうか。世界史の教科書とかには出てこないのだろうか。
■唐突な例になるが、僕もたしかに、「ガンダム」のことはなにも知らない。去年、早稲田でやった「夏期演劇ワークショップ」の発表で、「ガンダム」の有名なせりふを学生が発していたのだが、あとで、それが「ガンダム」だと知ったのだった。知っていたらやらせなかった。知らなかったんだよ俺は。「ガンダム」だからっていうわけじゃなく、それを発する状況が「笑い」としてレベルが低いからだ。
■というわけでいろいろ疲れたものの、でも、いくつかのことをまた知った。あるいは様々な「からだ」があるのだということから学ぶことも多かった。これは僕の舞台に顕著なのか、いまがそうなのか、オーディションに来た人をよく考えると、大きく分けて二種類だった。チェルフィッチュの山縣太一(彼も今回、オーディションを受けた)に代表される、きわめて現在的な「だめな身体」があり、また、野村萬斎さんの元で修行している人や、元早稲田小劇場のSさんもいらした。太一も面白かったが、Sさんもエチュードをやるとめちゃくちゃ面白いわけだ。どちらも魅力的だと思うんだけれど、だけどなあ、その二種類の身体がだよ、舞台上で出会ったときどうなるか、まったくわからない。それを考えている。そうしたことから舞台の構想が浮かぶ。もう舞台作りははじまっているのだ。

■少しメモをしておけば、土曜日(24日)は昼間、オーディションをセゾンの森下スタジオでやったあと、大急ぎで早稲田に向かい、教員の懇親会に参加したのだった。岡室さんや藤井さん、来年度から演劇ワークショップを担当する平田オリザ君と、青年団の松井君たちに会った。平田君はテレビの仕事があるというので途中で帰ったが、二次会まで行き、岡室さん、藤井さんとゆっくり話せてとてもよかった。岡室さんとはしばしば会うが、早稲田で二年間教えていて、教員の方たちとゆっくり話すこともほとんどなかったのである。
■二日続けて、夜は外に出るとひどく冷えた。三月の初旬に京都に行くが、向こうはもっと冷えるのだろうな。二月はほんとうに早い。気がついたらもう終わろうとしている。

(9:00 Feb, 26 2007)

Feb. 23 fri. 「さらにオーディション二次審査」

森下スタジオの稽古場搬入口

■さすがにオーディションで大勢の人に会うのは疲れるが、応募して来た人の緊張はいかばかりか。本日から「第三次の選考」だ。このあと「第4次」があり、それでも決まらなかったときは「第5次」もやろうという思いでいる。きょうのノートは疲れたので手短に。俳優、パフォーマー、映像、スタッフによるコラボレーションの試みを九月にやってゆこうと思っている。その人材に集まってもらう。やる気のある人によって着々と舞台に向かって進行している。
■いちばん進行していないのは、戯曲である。まだ、これといった柱がしっかりしていない。ただ、「ニュータウンの暗部」ではなく、「ニュータウン万歳」というコンセプトを考えている。それにはいろいろ考えがあるのだが。様々に解釈されてきた「ニュータウン問題」とは遠くはなれ、「未来志向」の明るさを描くことで、その影にあるものは浮かびあがってくると思っている。さらに、「多摩ニュータウン471B遺跡」にはこだわりたい。そこで歴史が消されてしまった「ニュータウン」と、しかしその地下に埋まっていたはずの「石器」のあいだにある物語をつむぎたい。いや、もっとストレートに「石の物語」。これは、僕の初期の作品、『ヒネミ』にも通じるテーマになるかもしれない。「かつてヒネミという町があった。いまはもうない。町の東西に河が流れていた。これといって産業はなく、町はいつでも眠そうな顔をしていた」という姿はことによったらニュータウンのべつの描写かもしれない。だが、その地層に石は埋まっている。歴史がある。石に時間が堆積されている。
■オーディション、三日目。参考のテキストをもとにエチュードをしてもらう課題。男に面白い俳優が多い。もちろんエチュードそのものが苦手な俳優もいるし、エチュードだから生き生きする俳優もいる。それをよく知っている。そのあたりの見極めがむつかしい。それから受講者の平均年齢が高く、どうしたって、若い者はいろいろな意味でまだも見劣りがする。ただ、技術は未熟でも彼らでなければ表現できない「現在性」はあるから選ぶのに悩む。あと、早稲田の学生が何人も応募しており、これを不合格にするのがたいへん心苦しくもあったのだ。

■まだオーディションは続く。少しずつ劇へと向かって進んでいる。

(5:33 Feb, 24 2007)

Feb. 22 thurs. 「さらにオーディション二次審査」

森下スタジオ2

■というわけで、本日もオーディションがあり100人近くの人に会った。まあ、このオーディションは、よくある「劇団員募集」といったものではなく、次回新作公演『ニュータウン入口』のための選考であって、そこに出てもらうためにそれにふさわしい人を探していることがひとつある。さらに、どうしたって僕の演劇観があるし、好みだって少なからずある。ここで選ばれなかったとしてもそれはべつに応募者を、俳優として、表現者として否定しているわけではない。たまたま、ここでは選ばれなかったという結果に過ぎない。もっとべつの作品、そし演出家に出会えばまたその人の魅力を引き出してくれるのではないかと思うのだ。それを各回、応募してくれた人に話すが、同じことを繰り返し話すのはとても疲れる。
■場所は、前日と同じ、セゾンの施設「森下スタジオ」である。施設がとてもいいし、使っているのはいくつかあるスタジオのなかでももっとも大きな空間である。気持ちよくオーディションができる。いろいろ考えてくる人もいれば、まったくなにも考えていない者もいるし、人がやっているのを見ていま考えた者もいる。そんなことは長年、こういうことを見ていればだいたいわかる。きょうはダンスだけの人が何人かいた。まだ二次選考なので、できるだけ可能性のある人には残ってもらいたいが、すると、第三次の参加者が多くなってしまい、人数が多いってことはひとりひとりを見る時間がまた少なくなってしまうのを意味する。あるいは、人数が多いことで密度が薄まる危険がある。じっくり選びたいのだが。
■候補者のなかに、早稲田の学生が多い。あるいは、早稲田周辺で芝居をしていた人が多いのは、僕が早稲田で教えていたのが関連するのだろうか。といったわけで「第二次審査」は終了。もっと絞るつもりだったが、ボーダーラインの人が多く、それをわりと残したので次の段階に進む人が最初の予定よりかなり数が多くなってしまった。でも、もう少し見てみたいのだ。

■関係ない話だが、先日、白水社のW君から「ニュータウンが舞台になった小説」ですと、角田光代さんの短編集『空中庭園』を参考図書として薦められて読んだ。するとその冒頭、いきなり、「ホテル野猿」のことが出てきて驚かされた。多摩地区に行くとここかしこに「ホテル野猿」の看板がある。もちろんラブホテルだとおぼしい。しかも、僕が学生のころからあったんだから、もう30年は確実に存在することになるし、これだけ看板を出すところを見ると、地元ではかなり有名なスポットなのではあるまいか。で、本書では、「野猿」に「のざる」とルビがある。僕は30年間、「やえん」だと思っていた。たしかあるコメディグループがこの名前を使って音楽のユニットをずっとむかし作っていたがあのときの「呼び方」がなんだったかよく知らない。「やえん」じゃないのだろうか。なにしろ、「のざる」ってのは、いかがなものかと思ったのだ。
■で、オーディションが終わったあと、スタッフ関連に応募してきた人たちと面談。美術、衣装の人はほとんど経験がない人たちなので、すぐに仕事をするのは困難だと思われたが、映像を創る人の一人はNHKのBSで仕事をしていたというプロの映像作家だし、舞台で映像を使うことに意欲的な意見をしてくれた。こういう人に出会えただけでもとても幸福なことである。いろいろこれから相談して舞台における映像のまたべつの使い方、方法を模索できたらと思ったのだ。
■帰り、ぐったりしながらの家路。家に戻ったらやらなくてはいけない仕事が山積しているがぜんぜんできない。しかも、かなり眠いのでわりと早めに就寝するものの、なぜか、四時間ぐらいで目が覚めてしまう。で、二度寝。もうこれは病だね。こんな生活を続けていたらそのうち死んでしまうのじゃないかと思う。というか、この生活パターンを続けているとこれからはじまる稽古にも支障が出ると思われる。それそろ戯曲のことも本格的に考えよう。四月のリーディングは「第一稿」。だからっていいかげんに書くわけでははない。ある程度の完成形を目ざしたい。そこから直し、第二稿、第三稿へと進める。もう九月の舞台ははじまっている。

(7:41 Feb, 22 2007)

Feb. 21 wed. 「オーディション」

森下スタジオ

■『ニュータウン入口』のオーディションがはじまった。セゾンの森下スタジオである。一回につき20人前後、それを5組、今日のスケジュールではやるのだが、午後から夜まで、さすがに疲れた。書類段階の第一次選考で何人か落としたが、でも書類だけではわからないことがあったので、直接会って、その「身体」を見るというのが二次選考の目的だった。だからまだ、技術的なことなどあまり厳密には見ていなかったものの、さすがに大勢の人を見るのは目が疲れる。いろいろ疲れるけど、単純に目に疲労を感じるのは、じっと見続けなければならないからだ。
■まず課題は、「90秒で表現する私の人生」。いろいろな表現があったが、なにか工夫してくる人もいれば、ただ話をする人もいた。それもまた表現といえば表現ではあるが、小道具など用意し工夫してきた人はそれだけで努力賞をあげたくなった。全体的には平均年齢が高い。それはそれで面白いと思った。こうしたオーディションをやると、かつて僕の舞台だったら若い者しか集まらなかったが、さすがに僕自身の年齢もあって平均年齢が上がっている印象だ。カントルの『死の教室』なんてもう、ものすごい年齢の高さだけで、なにかべつの表現になっていたし、それであの表現なんだから、演劇だってべつに、若い者がやるなんてきまりはないわけだ。一人、子どものころからバレエをやっていたという人がいて、いまはコンテンポラリーを主にやっているという。何人かダンスらしきものを見せてくれた人もいたが、ちょっとした動きがまったくちがう。こういう人が10人くらいいればいいと思う。
■ただ、この人、このオーディションで大発見だ、という人があまりいなかった印象。たとえば、前回、『トーキョー/不在/ハムレット』のときは上村を発見した。それ以前のワークショップでは田中夢を発見した。上村はずばぬけて魅力的だったわけだし、田中をはじめてワークショップで見たとき、演劇などまったく無縁の、あるいは演劇界にあまりやってこないような芝居の経験もない普通の女の子がなぜここにいるのか、きわめて不可解だったのである。かつてもそういう人は何人かいた。今回もひとり、まったく経験がない子がいて、それはそれで面白かったのだ。きょうはじーっと見ていた。ごく短い時間で質問もする。疲れた。ただ、いろいろな人が様々に考え、そして発表してくれることに感謝した。で、繰り返し話したのは、ここでたとえ落とされても、それは、『ニュータウン入口』という舞台のためという「選考基準」があるわけで、ただそれだけにすぎない。彼ら、彼女らを、俳優として、表現者として否定したわけでは決してないのだ。たまたまだ。今回の舞台にふさわしいと思う人を選んでいる。そういうことを、たとえ落とされても理解してもらいたいと思った。つまり、たまたまここでは選ればれなかったというだけの話。あしたも、二次の二回目。また100人くらいに会う。さらに三次、場合によっては、四次、五次と続けるつもり。疲れるけどこうした積み重ねで舞台はできてゆく。

■とはいえ、さすがに疲れたので、本日のノートは短めに。またニュータウンのことなど考えたことがあったが、それはまた。いまはオーディション。これもまた創作の一部である。

(8:47 Feb, 22 2007)

Feb. 19 mon. 「国道16号線」

国道16号線

■きのうのこのノートは、朝の段階では、ものすごく誤りが多かったが、それというのも寝ぼけていたからだ。白水社のW君から届いたメールで「間違いが六箇所あります」と指摘された。それは、少し書き直したいわば第二版ぐらいの段階。自分で気がついて直したあとだ。さらに間違いがあるとW君の指摘で気がつき、「斎藤美奈子」さんの表記がまず、まちがっていた。大失敗だ。寝ぼけているときは書いてもアップするのはまずいということ。というか、最初に直したときもまだ寝ぼけていたとおぼしい。
■とある用事で、東大の内野さんにメールをしたらすぐに返事をいただいた。で、そこに、内野さんが住んでいるある都内の地域について書かれていたのだが、あ、そうか、あそこもある意味ではニュータウンだと気がついた。都内のニュータウンっていうと、やっぱり「多摩ニュータウン」しか思いつかなかったが、さらに考えてゆくと、東京湾の歴史を少し調べればいかに埋め立てが進んだかわかり、東京のなかでも海沿いは、江戸時代から連綿と続くニュータウンであろう。っていうか、東京自体がニュータウンだな、京都の町の歴史から見れば。ほんと、京都はすごいよ。よく京都人に教えられる有名なエピソードが、「前の戦争って言ったら、京都では、応仁の乱です」という話だ。これ、何度も聞いた。京都に住んでいるころ、夜、自転車で御所の蛤御門のあたりを走るとほんとに怖かった。あの御所の暗闇の深さがものすごく恐ろしいのだが、いわば歴史という名前の井戸をのぞき見るような怖さだと思われる。
■歴史がない「ニュータウン」のつるっとした感触はなんであろうか。「歴史」という簡単な言葉で語ってしまう、時間の堆積とはなんだろう。それに欠けていることで生まれる「町」とはなにか、さらに考えている。で、『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』(東浩紀、北田暁大・日本放送出版協会)を読んでいたら、東さんが、『トーキョー/不在/ハムレット』について言及している。観ていただいていたのか。三坂からそんな話を聞いた気もするが。で、そこで語られる「国道16号線」が気になったのは、北田さんが千葉県の柏について話すなかで16号線が出たからだ。16号線はどういうルートになっているか知らないが、僕の感覚では、柏とは、まったく方向の異なる八王子近辺を走る道路になる。というのも通っていた大学が16号線のすぐ近くにあったからだ。早速、地図で調べてみた。八王子を北進すると、拝島に入り横田基地のすぐわきを走り、その後、埼玉県に入って、狭山、川越を抜け、春日部、野田と千葉に入って、それから柏にいたる。ぐるっと東京の外側を走っているのが地図でわかる。南は、町田から神奈川に入り、相模原、座間、保土ヶ谷、横浜を少しかすめ、横須賀から浦賀にいたるという、ほんとに、ぐるっと首都圏をひとめぐりだ。
■この道路がかつてなんだったかを知るには、古地図を見なければならないのである。で、じつは、多摩ニュータウンの旧地名を調べたいと思ってもいて、そのためには国会図書館に行くしかない。まあ、地図はほんとうに面白い。こうして国道16号線を見ているだけで、なにか喚起され、そこからまたべつの物語が生まれてくるような気がする。国道16号線ツアーを敢行しようかとも思うのだった。

■それから、ある地方の「埋蔵文化財センター」の方からメールをいただいたことはすでに書いたが、また返事をいただき、やっぱり引用する前に確認してよかったと思うのは、前のメールの内容は少し引用にはふさわしくないと返事をいただいたからだ。このノートでは、いただいたメールをかなり勝手に引用しているのですが、それは吟味しているのであって、さすがにこれは引用しちゃまずいだろうと思う内容は引用しないし、でも興味深い内容のときは確認するようにしている。まちがえないよう、極力、注意しているつもりだ。一日に、五千アクセスあるこのノートですので、少しはそういったことを考えているのだった。アクセスしてくれる方が全員、舞台を観に来てくれたら、いろいろ苦労はないのだが(ちなみに、去年の夏、『東京大学「地下文化論」講義』を出したあと、急激にアクセス数が増加した)
■時間ができたら、その方が勤めてらっしゃる「埋蔵文化財センター」を訪問しようと思う。まあ、このノートをずっと読んでいただいている方はごぞんじのように、私の「ブーム」はかなりサイクルが短いので、時間ができるまでに「考古学」に飽きていなければと思うわけだ。ただ、相沢忠洋さんの本を読んでいると、考古学ということではなく、この方の存在自体に感化される。なにしろ、繰り返すようだが、桐生から東京まで自転車で通ってしまった人である。すごいとしかいいようがないのだ。
■あ、そういえば、白水社のW君から、『運命論者ジャックとその主人』(ドニ・ディドロ、王寺賢太・田口卓臣訳)という小説を送ってもらい少し読んだが、冒頭からしてでたらめである。18世紀の小説だが、このでたらめさはなにかと思う。ああ、そうだよなあ、「小説」はその出発の時期からして、こうして、あらゆるものから自由だった。こうした小説を読んでいると小説を書こうという気分がまた高まる。じつは少しずつだが、以前書いた小説を直してもいるのだ。うーん、ぱっとできるほど、器用ではないのだ。つい細部の文体とかそういったことを何度も繰り返し直していっこうに進まなくなったりする。そんなふうにしてもう50年。意外と長い。

(11:47 Feb, 20 2007)

Feb. 18 sun. 「オーディションを前に」

白水社のW君からメールをいただき、別役さんの『台詞の風景』をお手本にした連載をはじめると書いたら、「楽しみです。単行本にしましょう」と連絡があった。それから斎藤美奈子さんの『それってどうなの主義』は少し前に送ってらっていたのだが、この本はすこぶる面白いですよ。さらに、今年は受賞作がなかった岸田戯曲賞の選評がすでに掲載されているという知らせ。選考委員それぞれの意見が読めてとてもためになる。
■ある地方の「埋蔵文化財センター」の方からメールをもらった。専門家だからこその貴重な意見だ。たいへん興味深かった。それで、その方が勤める「埋蔵文化財センター」に行こうという気持ちになったのだ。多摩ニューセンターにある「埋蔵文化財センター」とは異なるセンター。「考古学会を裏側から見ませんか」とメールにあった。全文の引用をしたいが、内容が内容だけに、まだ確認が取れていないのであちらからの返事が来てから引用しよう。
■きょう(18日)は、永井、遊園地のメンバーである上村、田中夢が家に来て、オーディション書類のまとめに忙しかった。永井はかなりてんぱっている様子で、上村、田中に対して、かなりきつくあたっており、そんなに怒ったら二人が萎縮してしまいできる仕事もできなくなるんじゃないかと心配である。あんまりきつい言い方をしなくてもいいんじゃないかと、端から見ていて思った。ただ、この仕事は大変だ。永井はいまにも、きーっとなって爆発してしまいそうだ。周囲を信頼して仕事を任せられるといいのだが。

■で、全然、関係のない話。20年間探し続けていたCDがアメリカから送られてきたのである。上の写真がそれ。こうなるともう執念の捜索だ。よく見つかったな。でも、意外に、簡単と言えば簡単で、あるところにはあるのだった。それを発見し、その輸入の方法を獲得しただけでも大きな収穫である。それをiTunesに取り込みなんども聴いていた。20年前だからさすがに懐かしいと思いつつ、なにかとても幸福な気持ちになった。これ、もう20年前の音源だけど、次の舞台に使おうかと思った。アイルランドのバンドで、ある歌のインストである。そのインストバージョンが手に入らなかったのだ。発見したときのよろこびはひとしおである。
■『ニュータウン入口』のプレビュー公演、九月の通し公演までまとめて買えば多少お安くなるチケット、さらに個々の公演ごとのチケット予約も、三月に入ってから開始だ。くわしくはこちらのページに。たくさんのお客さんにご来場いただけることを切に願っております。オーディション書類の片付けは手分けしてやったおかげで割りと早く終わった。雑談。僕はいま、「考古学会」、「発掘」に夢中になっているので、「ニュータウン」がどこかに行ってしまい、「発掘」の話になるんじゃないかと危惧する。永井をはじじめ、みんなから反対された。そうだ、ニュータウンなんだ。歴史のない町ニュータウン。だからこそ、生まれる、きみょうに整理され表面がつるっとした清潔な町はなにを生み出すのか。

(8:04 Feb, 19 2007)

Feb. 16 fri. 「いろいろ学ぶ」

■そんなわけで、日本の旧石器時代研究の先駆者ともいうべき、在野の考古学者・相沢忠洋氏の話などを調べているうち、いったいなにをいまテーマにしているのかよくわからないことになっているが、相沢氏の発掘した「岩宿遺跡」が学会で認められるまでの軌跡は、相沢氏の著書『岩宿の発見―幻の旧石器を求めて』などにあるように、読み物としてきわめて興味深く、二〇〇〇年の藤村新一氏による「発掘捏造」がなかったら、プロジェクトXで取りあげられてもおかしくなかったようなお話である。そんなわけで私はぐっと考古学に興味を抱き、時間ができたら、群馬県にある「相沢忠洋記念館」「岩宿遺跡」に行こうとする勢いである。
■まあ、以上は単なる趣味の話。舞台のことを考えなければ。
■そんな折、筑摩書房のWEB連載と、雑誌『東京人』にも連載をこの四月からはじめることになり、また忙しいことになってしまった。『東京人』の連載は、戯曲を読んでそのなかの「台詞」を取りあげるエッセイだが、別役実さんの『台詞の風景』(白水社)がお手本だ。とはいうものの、別役さんとは異なる仕事をしなければ。筑摩のほうの連載は、おなじみの笑えるエッセイを書こうと思うが、これまでと同じような切り口にならないように、自分でも楽しめる文章にしたい。でたらめなことをまた書こうと思っているのだった。とはいえ、どちらの連載もむつかしい。締め切りももうすぐになっている。うーん、大丈夫なのか。しかも筑摩は毎週更新という、僕としてはめちゃくちゃ困難な仕事である。でも、エッセイの読者のために、また新しい単行本を早く出したいのはやまやまなのだが。また、死にものぐるいで仕事をしなくては。相沢忠洋先生の苦労のことを考えたらそんなものはなんでもないといえばなんでもないのだ。なにせ、まだ自分が岩宿で発掘した旧石器が学術的に認められていないころ、東京の大学の研究者の意見をあおぐため、相沢さんは群馬の桐生から、自転車で東京に向かったという。片道120キロ。交通費を節約するためだ。そのころ相沢さんは生活のために、納豆の行商をしていたという。なんて偉い人なんだ。赤貧のなかで信を貫き、あきらめなかった人、相沢忠洋。それを支援した当時明治大学大学院の研究者だった芹沢長介氏はすごいが、後年、芹沢氏が支援していたのが、藤村新一だったという皮肉。

■ところで、捏造が発覚してから藤村氏は精神的な病を理由に入院していた。考古学会のある人が面会して、これまでどの発掘現場で捏造があったか質問状を渡していたが、その後、「藤村メモ」と呼ばれる告白の文書がもたらされる(『旧石器発掘捏造のすべて』毎日新聞旧石器遺跡取材班・毎日新聞社、『神々の汚れた手』奥野正男・梓書房、などによる)。そして疑惑になったのは、そのメモが公開される際、いくつもの伏せ字を考古学会がつけて発表したことだ。ことによったら共犯者がいたのではないかという疑惑が生まれた。だが、僕はそのメモを読んで、正直、藤村さんの文章力に唖然としたのだ。とても研究者の文章ではない。ことによったらその伏せ字とは、そこを黒く塗りつぶして伏せ字にしないと藤村さんの文章力がいよいよあからさまになって、藤村氏個人に対する中傷を生みかねなかったからではないか。学会と、その責任者である戸沢充則氏(藤村氏に面会したのも戸沢氏である)が、その事情をおもんばかって伏せ字にしたのではないかと想像したのだった。つまり戸沢氏の思いやりである。
■藤村氏は会社勤務をし、休日を利用して発掘に参加していたまさに在野の研究者だった。その周辺にいた人物は捏造発覚後に、藤村氏について「論文も書けず、英文も解さない」という意味の発言をしており、それを読んだ立花隆氏は、ある場所であからさまにその発言に含まれる、学者による、在野の研究者に対する侮蔑を読みとって不快感を表明している(『立花隆「旧石器発掘ねつ造」事件を追う』朝日新聞社)。しかし、相沢忠洋氏の発掘当初(一九四〇年代から五〇年代)もまた同じように、「学者でもないものが」とか、「一介の納豆売りが」といった侮蔑的な発言や、あからさまな差別は存在した。学問の壁は厚い。アカデミズムの権威の力は強い。藤村氏に対する、マスコミをはじめ(まあ、学会もそうだったわけだが)、社会的な過度の期待はこのような背景もきっとあった。そして、捏造が発覚すれば、「論文も書けず、英文も解さない」という侮蔑だ。ああ、いやな話だよ、まったく。
■それはそうと、三月の初頭、僕は京都に行く。京都造形芸術大学の卒業発表公演・最優秀作品の特別上演を観て、そのアフタートークに参加するからだ。楽しみだ。その足で千里が丘ニュータウンも見ることができたら、行きたいのだが。

(6:47 Feb, 17 2007)

Feb. 15 thurs. 「高校生に話を聞く」

■このサイトを読んでいる、高校で教師をなさっているKさんの好意で多摩ニュータウンにほど近い場所にある高校に行き在校生から話を聞くことができたのだった。それを許してくれた学校にまず感謝。だいたい高校に行くってことがいまではもちろんないわけだ。
■約束の時間はもちろん授業が終わってからだったので、余裕があったら昼間、ニュータウンをもう少し見ようと思っていたが、うっかり昼過ぎまで眠ってしまい、あまり時間がなくなった。また多摩ニュータウンには行こう。だいぶ道にも慣れて地理も把握してきた。時間ができたらニュータウンへ。多摩ニュータウンだけではなく、またちがうところにも行きたいが、遠いんだよな、どこも。「ユーカリが丘ニュータウン」は印旛沼の近くだっていうから、とてつもなく遠い。大阪の千里が丘、神戸の須磨はさらに遠い。
■高校生たちに対面してうまく話が弾むか心配だったのは、なんせ、彼ら、彼女からしたら、僕なんかおそらく両親の世代か、それ以上なわけだよ。でも、話を聞かせてくれた四人の高校生は、少し人見知りする子もいたけど、すんなり話に入ってきてくれた。こういうことをインタビューするというのではなく、雑談のように、あっちへ飛び、こっちへ飛び、いろいろ話す。とても面白かった。町の話。子ども時代、どんな遊びをしていたか。いまの生活のディテール。なかでも印象に残ったのは、四人の高校生がまだ子どものころ家族とともにニュータウンに居住したのは、新しく造成されたばかりの地域で、すると、そこの小学校、中学校では、「全員が転校生」だという話。それでいろいろ考えたのは、ニュータウンの大きな特徴ってのは「歴史がない」というか、「居住者にとって地域に対する歴史意識が希薄」ということであろうか。
■で、「歴史がない」っていうのは、人と人との関係においても、ごつごつした感触がないということであり、その土地に染みこんだ「しがらみ」とかそういったものの薄さだ。あるいは過去から染みついたような「悪」のようなものがないのである。とても清潔だ。例を持ち出して申し訳ないが、京都に住んで気がついたのは、この町の歴史の古さがもたらすのであろう、様々な階層による表面がざらついた感触をもつ町の姿だ。ニュータウンは表面がつるつるである。ごつごつした京都とちがい、そのつるっとした町の表面の上で、彼ら、彼女らはあやうい感じもしないではないのだ。だってとても安全な街なんだよそこは。町が怖いと思ったことはほとんどないという。

■もちろん、ニュータウンといってもものすごく広範囲にわたっており、地域によってもちがうだろうが、たとえば買い物をしに新宿に行ったりせず(なかには新宿だけでなく、渋谷に行く高校生もいるのだろうけど)、ほとんど地元で事足りるという。南大沢には映画館もあれば大きなショッピングモールもある。子ども時代の話を聞くと、子どもが遊びのためにする工夫はほとんどいつの時代も変わらないのかもしれない。ニュータウンのなかで「秘密基地」を作る遊びをしていたという。作ったなあ、俺も子どものころ、「秘密基地」。なんだったんだろう、「秘密基地」。
■30年前、僕はこの近くの多摩美に通っていた。当時は、周辺にまったくなにもないただの山や森だった。それが開発され風景は一変している。まあ、当時と大きく変化したことのひとつとして、京王線、小田急線が橋本まで伸びたことがあげられ、橋本って町自体がものすごく変化した。
■ところでさっき、「歴史がない」と書いたが、それは新しく造成されたニュータウンの光景と、町の構造がそうなだけで、当然ながらかつてこのあたりが山であり、森であったことを考えればもっと過去の歴史が、地中に堆積しているにちがないのだ。そこで知ることになるのが、「遺跡発掘」ってことになる。そこから縄文期、あるいは旧石器期の発掘物は出ているが、そうして注目される考古学的な歴史はあっても、あいだの中世、近世、近代の歴史についてあまりに抜け落ちているのではないか。もちろん歴史はあったはずだ。ないはずがない。それはきれいに消された印象はある。Kさんの案内で、若葉台や、さらに新しく造成されている土地をクルマで案内してもらったが、ものすごいよ。その人工的な美しさはただごとではない。計画され整備された都市に「路地」はない。「清濁併せ呑む」という複雑さのないまま、高校生たちは「清」だけを呑んで育つのだろうな。もちろん「清」の背後になにかあるにちがない。ここらの町には「パチンコ屋」がないと、あとでSさんから教えられた。その代わり巨大な「ブックオフ」があった。やっぱりものすごくでかい。古本をはじめ、DVD、ゲームソフトと、なんでも大量にある。

■よく知られているように、第一期の入居があった永山付近のニュータウンではいま高齢化が問題になっている。ニュータウンの「歴史のなさ」とは、住民たちが歳をとるという想像力の欠如かもしれない。歴史のある町にはすでに高齢者がいるのだ。そして智恵は受け継がれるのだ。それは「猥雑なもの」、あるいは「悪」をも包摂しつつ、町を形成して人の生きる場所として土地を育てる。そうしたことの希薄さが興味深かった。もちろん、現在的に考えたらこんなに住みやすいところはないのではないか。だいたい、たいていが高台にある住居群は単純に気持ちがいいからね。
■それで僕は、ニュータウンと呼ばれることになった土地の「地層」について考えていた。そこに含まれた「時間」、そして「歴史」について考えていた。地中の深くに「石」とともに歴史がある。「石」に時間が堆積している。高校生たちと話しをすることで様々なことを気づかせてもらえた。とても有意義な時間をもらえたように感じた。Kさんにあらためて感謝だ。
■あとでまた、地図を見て付近のことをおさらい。僕が持っていた地図だと、まだ造成される前の地名になっており、ニュータウン建設、造成によって歴史が変化するのは、単純に、「地名」が変わることに反映している。それもニュータウンなのだろうと思う。Kさんが話していたけれど、「ニュー」がつくものはいまではなんでも「古びて」感じる。その言葉がかつてもっていたのだろう新鮮な響きがいまではすっかり色褪せてはいるものの、しかし、造成はさらに継続している。どこまでも、どんなに時代が変わっても、そこだけ「ニュー」という言葉に代表される「未来志向」の夢はあるのだ。もちろん背後に「資本」の巨大な運動は働いているが。まだ、考えることはあると、きょうの高校生との対面で知ることができた。さらにべつのことをいろいろ知ることができ、そして喚起されることがいくつもあった。

■帰り、またKさんのクルマで、僕のクルマを置かせてもらった高校に戻ったが、もう外はすっかり暗くなっていた。グランドではサッカー部が練習をしていた。ここのサッカー部はとても強い。ある有名な選手の出身校でもあるのだ。中村俊輔だけど。

(9:13 Feb, 16 2007)

←「富士日記2」二〇〇七年二月前半はこちら