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Published: Apr. 3, 2004
Updated: Dec. 31 2004
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Dec.30 thurs.  「中途半端な気持ちで年を越す」

■こうして一年が終わってゆこうとしており、年内の稽古もきょうが最後だった。心地よい楽しさと同時に疲労もかなりたまった。俳優たちもきっとそうだろう。ゆっくり正月を休んでほしい。それにしても、よくもまあ、この無謀な一年をかけた舞台作りにつきあってくれたものだ。ほんとうに感謝している。
■午後、三時過ぎから「通し稽古」をする予定になっていたが、どう考えても時間がない。いくつか確認すべきこと、直しが必要だ。で、稽古場が使えるのは夜の八時まで。夕方からは衣装の打ち合わせがある。時間がない。結局、通しをやらずに確認しておくべき場面を稽古して終わり、なんというか、私としては釈然としない状態で年を越すことになったのだった。もう一度、細部を見るのではなく、全体を俯瞰するように見つめたかった。それですっきり年を越したかった。あるいは、全体を俯瞰してからあらためて考え直すこともこの休みの期間にできたはずなのだ。まあ、しょうがない。でもやっぱり正月も芝居のことを考え続けているのだと思う。
■で、きのう書いた高橋君の映像が流れる転換の場面を、転換だけの時間にしないようにと映像中の動きを作る。矢内原美邦との共同演出、というより、最近はダンスばかりではなく、かなり矢内原演出によって作られてきている。こちらはたじたじというやつだ。夕飯にはいつも今川焼きを食べている美邦である。岸の靴を見て、そのマークがどうしても許せない美邦だ。まことに助けられているのだが、一緒に演出していると、まあ、ときどきちょっとそれは、あれだなあと思うことはあるものの、ほぼ同じ感覚で作ることができ、僕が考えていたことを同じように指摘する。で、それが早い。先を越される。僕が言おうとしたときには、もう言っている。しまったと私は思うわけだ。こうなるともう、早押しクイズのような闘いになっているのだった。

■そういえば、岸の話はまだまだあって、きょう知った話もすごい出来事だった。
着替えの順番をまちがえる。
 稽古場に岸が着いたとき、すでに俳優たちは皆、ストレッチをはじめていたという。慌てていた岸は、すぐに着替えようと、まず、ジーパンを脱いだ。で、そのとき見ていた者に指摘された。「岸さん、リュック降ろしてないよ」。ふつう人は、稽古場に到着したら、リュックを降ろしてからちょっと落ち着き、それからようやく着替えをはじめるのではないか。それが普通の順番だ。だが、岸はまちがえてしまった。着替えの順番をまちがえた。しかも、本人はリュックを背負っていることをそのとき忘れていたという。リュックを背負っているのを忘れることもまれだが、そもそも人はあまり着替えの順番をまちがえないのではないか。ただごとではない。ことによると岸は、とんでもない大物なのではないか。まだ岸の話はつきないのでこんどまた書こう。
■というわけで、稽古が終わったあとは忘年会になった。三軒茶屋のちょっと気のきいた居酒屋だが、居酒屋はやっぱり居酒屋だ。となりの部屋がにぎやかだ。というか、腹が立つほどうるさい。岩崎、熊谷、山根の三人とやけに演劇の話をした。三人とも三十歳前後だが、話を聞くと、現在の演劇シーンがどんな時間を経て成立しているかほとんど知らないのが少し意外で、たとえば、「新劇を乗り越えようと六〇年代のアングラ演劇があった」というその感覚がわからない。だから、文学座と俳優座と、唐組と、あるいは黒テント、そして、青年団でも、大人計画でも、僕の集団でもいいが、すべては並立して存在し、単に表現の質が異なる程度に感じている。だが、よくよく考えれば、それは正しいといえば正しい感じ方で、歴史ではなく、現象だけで演劇をとらえ、余計なことを考えずに表現を評価する。おそらく、いまの若い世代にとってはそれがあたりまえの演劇への接し方ではないか。それでもやはり、ではなぜ、いま『トーキョー/不在/ハムレット』でやっている「からだへの、また異なるアプローチ」といったことが必要とされるかについて、いまがどのようにして成立しているかを把握できなければ原理的には理解できないことになるのではないか。なにが問題になっているかは、やはり歴史的にとらえることではじめてわかってくることだ。
■先日からなんどか紹介した、パリで演劇を勉強しているY君のメールでは、アリストテレースの『詩学』の話を引いて「戯曲」の歴史について書かれていた。いかに、『詩学』が強調した「戯曲の優位性」が何世紀にも渡って実現できなかったか。まったく演劇の歴史は長いよ。「戯曲」より「演出」が優位性を持ったことについて、私は最近の話だと書いたが、それ以前に、「戯曲」が、「演出」より優位になるまでかなり長い時間を必要としたのだし、つまり、「戯曲」が重視された時間は、演劇の歴史からいったらほんのわずかな期間ということになる。シェークスピアも少し以前の人であり、チェーホフなんてついこのあいだの人だ。それほど演劇の歴史は長く、先に書いた「演劇シーン」の話にもどれば、その変遷なんて、ちょっとした変化でしかないのではないか。Y君のメールは示唆的だった。あらためて『詩学』や「ギリシャ悲劇」とその歴史を読み返そうと思ったのだった。
■熊谷は、『トーキョー/不在/ハムレット』(まず小説版を読んだとき)を自分がどんなふうに解釈しているかについて話してくれた。さらに、では、これを舞台にしたとき観客はどう理解するのかと話す。その点については私はまったくわからない。解釈はどうあってもいいはずだし、むしろ、こう解釈してくれという強制はしない、というより、できるわけがない。では、「わからない」で観客が納得するかといえば、おそらく納得しないだろう。けれど、それは「わかる」というコードによって「舞台の見方」を支配されているだけのことだ。ほんとうは舞台で発生している様々なものによってなにかを喚起されているはずである。想像しているはずである。だから、映画でも舞台でも「見えない部分」が存在する。「見えない部分」の豊穣さこそが作品の価値につながるのではないか。

■といったようなことをつらつら考えているうちに、今年も終わろうとしている。楽しい一年だった。ずーっと稽古していた。それはそれで幸福だ。あ、もう一日あるのだな、今年はまだ。

(15:02 dec.31 2004)


Dec.29 wed.  「こんな年末にまだ稽古をしている」

■雪が降っていたよ。
■あ、そうか、「美邦言語」のことをこのあいだ書いたが、それによく似たものをかつて経験したのは、映像作家でまたは映画監督でもある中野裕之の「中野言語」だ。むかしよく一緒に仕事をしたが、打ち合わせをしてもまったくなにを言っているのかわからないときがあった。映像のイメージがどうやらあって、それを伝えようとしているらしいことはわかったが、わからないときは、ほんとうにわからない。それでも仕事をしているのは楽しかった。すごく煮詰まっているスタジオに僕が台本をファックスで送ったらあまりのくだらなさに沈滞していた現場がなごんだという。かなりでたらめなホンだったが喜んでくれるのがうれしかった。一般的には難解な言語だったはずだが、それでもよく理解できる人もいて、それはやはり、なんと申しましょうか、「変成意識仲間」とでもいいましょうか、つまり、あっちのほうの世界の話ですね。いろいろな映像作家、映画監督と仕事をしたり、話をしてきたが、「中野言語」よりすごいものはあまり知らない。青山真治さんはきわめて論理的だ。
■「中野言語」をよく理解できる人の中には僕も昔からよく知っているTさんがいる。中野さんとよく仕事をしていた。なぜか理解できているらしい。Tさんもまた、かなりな「変成意識」な人だった。そうでなければあの「中野言語」は理解できなかったのじゃないか。TさんはいまCMのプロデューサーをしている。二年ほど前、CMの仕事をしないかと誘われたが、きっとお金になるのだろうと思いつつ、なんとなく連絡しなかった。きっぱり断わる勇気がなくて、連絡しないままで申し訳ないことをした。なんというか、からだがですね、そっちのほうにゆかないときってのがあって、はっきり「やらない」と断言するのではなく、なんだか、からだが動かない状態。そういうときは意識のどこかでやりたくないという気分が働いているのだろう。俺は文学者だとかいった、よくわからない気分があるのだな、私のなかにはどこか。
■あ、そうだ、「原稿料の振込先を教えてください」というメールをもうずいぶん前に二通ほどもらっているが、連絡するのを忘れていた。こういうのもやはり、からだがうまく動いていないということだろう。でも、この件に関しては、からだをしっかり動かすべきではないだろうか。

■いよいよ年末になり、パブリックシアターの稽古場は夜八時までしか開いていない。あわただしい稽古になった。午後、矢内原さんによるダンスの直しや、いくつか気になっている場面、あるいは、ようやくできてきた道具を使った稽古。ナレーション部分の録音。それからあまり休憩する間もなく「通し」に入る。きのうの「通し」はていねいさに欠けていたが、少し落ち着いた印象である。ちょとしたことの変化だな。ただ、見ている僕が、細部ばかり気にして劇全体を見ていないのがいけない。劇に流れるうねりのようなものがどうなっているか確認すべきだった。きょうはそういう日にするつもりだったのに、つい細部ばかり気にしているのだ。でも注意点はかなり減った。まだまだ精度を上げることはできるかもしれないが、劇はきっと、いや、劇に限らず、あらゆる「表現」の領域は、「精度」ばかりが問題じゃないのだろう。何度も書いてきたことだが、それ以上に必要なものがきっとある。あるいは何度も見ることではじめてわかる発見もある。だから見る。
■たとえば、どうしても舞台上にある道具の出し入れをする時間があり、そこにニブロールの高橋君の映像を流すのだが、最初の考えでは、この場面は、「高橋君の映像をしっかり見せる時間」ということだった。しかし、それだけではなにか面白くないと思え、「なにかないだろうか」と矢内原さんに提案。すると高橋君も、「俺の映像を場つなぎに使うのかよ」と言った(といっても、実際にそれを口にしたのは案の定、矢内原美邦だが)。ここに考え方の齟齬があり、しかし、その齟齬がいい方向に向かうというまれにみるできごとが出現した。僕は「高橋君の映像をしっかり見せる時間にしようと思ったが、しかし、それだけではつまらない」と、言ってみれば高橋君にとっては申し訳ないのじゃないかと遠慮がちに提案したわけだけれど、高橋君のほうは、「場つなぎの映像として使われるのを否定する」という、よく考えてみるとまったく異なる考えが、しかし、結果的には両者にとっての解決策になった。これは奇妙だ。奇妙なのと同時に面白いことがおこった。こうした齟齬によって発生する共同作業もときとしてあるのだな。
■稽古を終えてから、三軒茶屋の喫茶店で照明の斉藤さん、舞台監督の森下さんらと打ち合わせ。主に照明の話。照明の話がほんとにむつかしいのは、現場に入らないとよくわからないからだ。これまでいろいろな照明さんと仕事をしたが、何度わたしは、けんかしてしまったことだろう。斉藤さんとはうまくやっている。しかし、私もずいぶん大人になったのだった。よほどのことがなければ怒らない。感情をたかぶらせると疲れるからな。つまり体力の問題だ。よくこうしたことを一般的に、「人間が円くなった」という表現で言い表すが、単にあれは体力だと思う。体力がなくなるから円くなるのだ。そんなことを考えている年末。今年は俺、「出す」ばかりで、ちっとも勉強していない。だめである。

(10:53 dec.30 2004)


Dec.28 tue.  「岸建太郎伝説」

岸
■『トーキョー/不在/ハムレット』の出演者を紹介するページを作ろうと思っていたが時間がないので一人一人、随時、紹介したいと思っており、きょうはどうしても岸のことを書かねばならないという気分になった。岸建太郎はもう三〇歳を過ぎている。その行動すべて書いたらきりがないが私が印象に残ったいくつかのことを記録しておきたい。まず、映画『
be found dead』で僕の手助けをしてくれ主に編集のテクニカルなことをしてくれた岸だが、その作業中、岸のあまりのことに私は気が狂いそうになった。
 編集は僕の家でやっていたが、あぐらをかいた岸の座っている空間がどんどん広がってゆき、僕のいどころが狭くなってくる。編集中、お菓子をばりばり食べ、その袋をゴミ箱ではなく床にぽいぽい捨てる。アップルの映像編集ソフト『
Final Cut Pro』のことをある程度使い方を知っているが、中途半端なので作業が滞る。ときどき、わからないことがあると、「あ」と大きな声をあげる。気がつくと僕の大事な書類を足で踏んでいるが、悪気があるわけではなく、ただ足の先まで神経がゆきとどいていないので、踏んでいることさえ気がついていない。だんだん僕の家だということを忘れ自分の部屋の感覚で行動しはじめた。映像を白黒にしてくれというと、コントラストのすごくきつい「子連れ狼」みたいな映像になっていた。岸のセンスと僕のセンスがまったくちがう。あと、気に入った女の子のカットをやたら長く編集する。どんどん切らせた。そして、さらに岸伝説はまだ無数にある。
・北川辺に映画のロケで確実に行っているはずの岸だが、制作の永井に「岸君、行ってないでしょう」と言われ、「いや、行きましたよ」と最初は反論していたが、さらに永井が「行ってないよ」と言い張るので、そこで少しひるみ、「あれ、俺、いってなかったかなあ」と弱気になる。さらに「行ってないって」と永井が強弁すると、「ああ、そうだ、俺、行ってなかった」と、とうとう行ってないという結論になってしまった。
・稽古が終わってクルマで岸を送ったとき、気がつくと助手席の床に落ちていた「道路マップ」を踏んでいる。しばらく言わずにいても気がつく様子がない。「岸、それ、踏んでるんだけど」ととがめると、「あ」と声を高くし、はじめてそのことに気がついたが、つまり足の先まで神経がいってないと思われる。
・「準備公演」のとき弁当が支給されたが、岸はひとつ食べたことを忘れていて、二つ目をたべているのを永井に指摘され、「あれ、食べてなかったっけ。これ、二つ目だっけ」と、もう自分がやっていることを忘れていた。
・稽古の帰り、家から三軒茶屋までの定期を買っている岸だが、なぜか、きっぷを買ってしまう。わけがわからない。
・「準備公演」のとき、客入れがはじまり、しかも劇場の構造のせいで俳優は幕の奥で静かに待っていなければならない。いよいよ開演15分前というとき、なぜか岸はもっていたアップルの「iBook」を起動させ、例の起動音「ジャーン」を迷惑になるなど考えずに響かせた。俳優たちが怒った怒った。だいたい、なぜそこで「iBook」を起動させるか理解できない。
・稽古が終わったあと、着替えをしている途中の岸が、スエットの下を半分まで脱いでパンツを露出しながら、ほかの俳優と芝居について議論をはじめ、パンツを露出しているのも忘れ、そのままのまぬけな姿でまじめに話をしていた。
・ある場面で、贄田を演じる片倉君が小西の腹を殴るが、殴った片倉君が手をねんざした。岸はなんともない。どんな腹筋をしているか誰にもわからない。鉄板のようだと片倉君は語った。
・なにかとすぐに忘れる。
・小銭がかばんのなかから、ばらばら出てきた。
・よくわからない筋肉質だ。
・胸板が厚い。
・長いあいだ一緒にいると、うっとおしくなる。
 あげていったらもうきりがないのだ。またべつの俳優についても紹介をかねて書いてみよう。ただ、岸が強烈だけに、ほかの俳優のインパクトは薄くなると思われる。

■ところで、竹中の舞台の評判はすこぶる悪いという噂を聞いた。しょうがないか。歌いすぎだし。演出と作り方があれだからな。となぜ急に書いたかというと、きょう稽古場にケラが来たからでそんな話を軽くしたからだ。ああ、俺が演出していればあと35倍は面白くする自信があったのに。
稽古場
■で、まあ稽古はつづく。午後から少し時間をかけ、矢内原美邦によるダンスの練習をする。細部の調整と、さらにまた新しい振りが加えられまた面白くなる。新しい道具が届いたのでそれを使って芝居の確認。そういったときにも矢内原さんが意見してくれる。あ、そうだ、きょう稽古場に着くと先に来ていた矢内原さんが僕の顔を見るなり、「疲れてませんよ」と言ったのだった。きのう僕がこのノートにさんざん「疲れているのではないか」と書いたことが耳に入ったのだろう。疲れていないのならよかった。でも無理はしないでほしい。夜、通し。少し雑になっている印象。そしてラストがどうしてもしっくりこない。うーん、なんだろう。なにかがちがうように思えてそれに悩むのだ。もっと考えよう。最後の最後まで考えつくそう。いい舞台にしよう。
■年末。都内の道路はすいている。稽古場までクルマで走るのが気持ちよかった。そしてひどく冷えてきた。

(6:49 dec.29 2004)


Dec.27 mon.  「三軒茶屋にばかりいる」

■こうして毎日のように稽古場のある三軒茶屋に来ている。家と三軒茶屋の往復だし、このあいだ稽古の休みの日にもパブリックシアターに『子午線の祀り』を観に来ていたのでほかの町に一切行くことなくとことん三軒茶屋だ。正月は少しどこか都内をぶらぶらしてみようかと思う。あともう初日にはぎりぎりだけどなにかを発見できるかもしれないから「入れる」ことにしたい。映画を観に行くとか、単に、ぼんやりなにかを見ているとか。三軒茶屋はこじんまりとしたいい町だ。むかしここらあたりは渋谷から都電が走っていたのだな。いまでも、京王線下高井戸まで都電の雰囲気を残す世田谷線が走っている。以前は小田急と世田谷線がクロスする豪徳寺に住んでいたので世田谷線はよく利用した。いまではなくなったのだろうが、世田谷線では定期券をホームで運転手や車掌に見せるという奇妙な作法があり、そう書いてもなんのことかわからないかもしれないが、つまり電車に乗るとき確認してもらうのではなく、ホームで定期券を手をあげてかざし、それで定期で乗車しますということを示していたのだった。最初にそれを見たときは、文革時代の中国の毛語録をかざすあの姿を思い出した。そしてきょうもまた、三軒茶屋のパブリックシアターの建物の地下にある稽古場で稽古である。
■関係ないけど、『トーキョー/不在/ハムレット』の戯曲はいま発売されている『テアトロ』の最新号に掲載されている。読んでから舞台を観ると三倍面白い。そして舞台を観たあとで小説『不在』(文藝春秋)を読もう。久しぶりの単行本だ。単行本の話はいくつもいただいているのに私が怠けて先延ばしになっている。なかでも、実業之日本社のTさんとは『資本論を読む』の単行本を出そうとどれだけ前から準備しているかわからないし、Tさんもいろいろ作業をしてくれているのに俺はなんてだめな人間だ。それから柏書房のHさんにも不義理をしている。申し訳ないことになっている。それから考えてみるとエッセイもいろいろなところに書いてけっこうな分量になっているのだからそれをまとめてもいいのだな。舞台が終わってからまた落ち着いて考えよう。

■そして稽古はつづく。まだ未整理な部分やきのうのだめ出しで確認しておくべきことを抜きで稽古する。だいぶ落ち着いてきた。テクニカルな部分の確認もできた。それからいくつか映像班の鈴木や浅野からもアイデアが出る。俳優たちも活発に発言する。いい感じで稽古は進む。夕方、矢内原充志君が来てできた衣装をいくつか見せてもらう。とてもよかった。映像のときもそうだが、衣装でも矢内原美邦さんはいろいろ意見してくれ、ちょっと疲れちゃうんじゃないかと思うほど、パワフルに動く。ダンスはもちろん、芝居の部分でもアイデアを提供してくれる。きょうの帰りぎわ、少し疲れている様子なのが気になった。先日、疲れで倒れたから心配だ。大丈夫だろうか。あるいは「通し」を見てまだひっかかることがあるのじゃないかとも想像する。遠慮なく言ってくれればいいが。
■夜の通しは照明の斉藤さん、衣装の充志君らも加わり、稽古場が狭いほどぎっしり人がいる。しかし、照明のプランはこれからだが、きっと今回はむつかしいだろう。かなり苦労しそうだ。で、きのうの「通し」はできがよかったが、きょうは少し悪く、上演時間も二分延びた。考える。どこがどう伸びたか演出助手のMさんが記録している各場面の時間を確認すると前半はほとんど時間に変化がない。後半が少しずつ延びている。なにがいけなかったか分析。それとラストがよくなくなっている。形になっている。それは俳優の問題だけではなく、そうさせてしまうなにかが場面全体に影響しているということだろう。そのことも分析。まだ考えることはある。
■パリにいるY君からもらったメールのことを書きたかったがちょっと長くなる。あらためて今度書こう。考えるべき示唆的なことがそこにはかなりあった。とにかくきょう気になったのは矢内原さんが稽古が終わったあとで疲れている様子だったことだな。無理しないでやってもらえればと思ったのだった。小浜から連絡してもらって稽古に来る時間を遅らせるとか、臨機応変に対処し、無理しないよう伝えてもらうべきかと考える。

(7:45 dec.28 2004)


Dec.26 sun.  「上村の髪型が変になっていた」

■取材を受けた雑誌をこれまでも何冊も永井が稽古場に持ってきてくれていたが、きょう届いたのは『シアターガイド』の最新号で、公演の情報を掲載してくれ僕の写真が何枚か載っている。うまいぐあいにトリミングしていると思ったのは、頭のてっぺんを切ってあるからだ。それというのも、取材を受けた日、たしかひどい寝ぐせだったからで、気をつかってくれたのだろうな。いい雑誌である。そうそう、島村幸森を演じている上村が髪を切ってきて、これが、すこぶる評判が悪い。矢内原美邦はずっとそのことを言っていた。「なにがいけないのかなあ」と美邦。つくづくその髪を見ながら、「なんか、変だよねえ」と美邦。「通し」の「だめ出し」のとき、幸森が登場する場面で僕はそのたびごとに、「髪型が変」とだめを出した。それがもう、面白くてしょうがない。それはともかく、午後は、きのうの稽古でまとまらなかった幸彦と巻子の場面を作る。矢内原さんが考えその場面の構成をまとめてくれる。ひとまずこれでゆこうという方向が定まり、あとは精度を上げる稽古をすることにした。
■稽古場には、矢内原さんのほかにも、同じニブロールで映像を担当している高橋君、演出補の小浜、それから音楽の桜井君が来てくれた。桜井君と軽い音楽の打ち合わせ。今回の桜井君はどんどん作ってくる。人が変わったかのようだ。あと、小浜がいるとなんで稽古場の空気がなごむかだな。美邦言語にもかなり精通しているし。
■「通し」はこれまでのなかでももっともよくできたのではないか。なにがちがうか考えたが、それはほんの小さなことで、たとえばちょっとした「間」の長さだ。あるいは、それぞれの場面に対する俳優の集中力だ。何度か通しを繰り返すことでようやく流れを把握し落ち着いた印象である。精度が高まったこともある。それから高橋君の作ってきてくれた映像もやっぱりよくて、その効果もかなりある。「だめ出し」のとき、矢内原さんが、なにかに気がついたり思いつくと、「はい」と手をあげるのが面白い。なにか思いついたときの矢内原さんはすごくわかりやすい。いま面白いことを思いつきましたと顔が語っている。わかりやすい。うれしそうな顔をする。で、手をあげる。それで僕が、「はい、矢内原さん」と指名すると、いろいろ意見してくれそれにとても助けられる。高橋君の作ってくれた映像のなかに「観覧車」が出てくるがその映像の尺を短くしなくてはならず、それで矢内原さんが、「観覧車いらないんじゃない」と意見した。しかし、高橋君はどうも承伏できないのか口ごもっているとさらに、「いらないよお」と言うのだが、僕が「いや観覧車はいれよう。僕は、観覧車が好きなんだ」と断固主張したのだった。このあいだの「牛」と同じで、単に「観覧車」が好きなのだった。観覧車ほど、遊園地の中でほとんどなにもないアトラクションがあるでしょうか。ただ回っているだけだ。しかもただの円だ。なにをするかといったら、ただの「観覧」だ。「観覧」する「車」である。あのなにもなさとその形状が私はすこぶる好きなのだった。それはともかく、いよいよできてきたな。これからは「足す」のではなく、もう少し「引く」ことも考え、全体を整えようと思う。「無」が足りない。「なにもなさ」が不足している。

■いよいよ押し詰まってきたと感じるのはこの一年だが、振り返れば、なんとまあ、いろいろなことをしてしまったことか。この十年、これほど活動した一年はなかったのだし、まして、『トーキョー/不在/ハムレット』という、「ひとつの作品に関わったもの作り」などやったことがない。この作業自体の名前を『トーキョー/不在/ハムレット』と名付けたい気持ちだ。劇団という形態で動いたことがないので、これほど同じ人間たちと長い期間を共にすることもなく、この感覚も私には新鮮だ。だがこうして稽古場にこもり続けるのはあまりいいことではないのじゃないかと思え、どうしたら外部に表現を開くかが問題で、ほかの誰かから見たら単に遊園地再生事業団という集団がなにかをしているらしいという程度のことでしかないばかりか、パレスチナをはじめ世界のいたるところで演劇どころじゃない現実はあり、スマトラ沖の地震による津波は無数の人を死に至らしめた。世界のなかではほんの小さな空間がこの稽古場だ。ここからどうやってもっと遠い場所に表現を広げられるのだろうと考えながら、きょうの「通し稽古」を見ていた。とはいっても、それは海外に進出するために作品を作るといった安易なやり方ではないのは、たとえば、フォークナーにしたって、マルケスにしたってそれはきわめてローカルな文学だったが、それが作家の意図とは異なる普遍性をもったからこそ世界的な文学になったのだから、なにより<ここ>なのだろう。遠い場所を意識のどこかに持ちつつ、けれど、<いま>であり、<ここ>である。
■そういえば、パリに留学中の演劇を専攻しているY君から、きのう書いた「戯曲」のことなどについて、きわめて示唆的なメールをもらった。紹介したいがまたあしたにしよう。すごくためになった。

(11:10 dec.27 2004)


Dec.25 sat.  「戯曲とか、それを書くといったことについて」

■世田谷パブリックシアターに『子午線の祀り』を観にゆく。わたしは『子午線の祀り』という作品についてまったく無知だし、無知でかまわないと思っていた。その考えはいまも変わらない。ただ、タイトルはすごくいいといった程度の認識だ。それでこの作品の初演がいつの時代なのか、それさえ知らず、おそらく一九五〇年代なのだろうと考えながら舞台を観ていたが、あとで調べると一九七八年に雑誌に戯曲が発表され、その翌年に「第一次公演」が上演されていると知った。驚いた。というのも、演出がひどく古い劇を思わせたからで、六〇年代、七〇年代の小劇場演劇の時代を経たあとになおもこうした演出が出現することが想像できなかったからだ。ことによると、なにも変わっていないのではないか。一九七八年ごろ、僕は舞台をまめに観るようになった。いろいろ観た。黒テントもまだ活発に作品を発表しており必ずその舞台は観ていた。つかこうへいが大人気で紀伊國屋ホールの通路に腰を下ろして観た。状況劇場では一番前の席に腰をおろしたら水を浴びせられた。自由劇場がまだ六本木のガラス屋の地下に劇場をもっていた。渋谷のジアンジアンでおそろしい俳優を目撃した。柄本明さんだ。ほかにも小さな劇場をまめに観て歩いた。そのころ、『子午線の祀り』が初演されていたのだとは知らなかった。いや、どこかで聞いていたのかもしれないが、観に行こうと思わなかったのだし、作者の木下順二の名前とそのタイトルは知っているのだから、なにかで読んだかその記事を見、知識だけはあったのだろう。その後、劇評のようなものを書くようになってまた異なる意識で舞台を考えるようになったのは、もっと先のことだ。
■ロビーで、「岩波文庫」から出ている木下順二の戯曲集を買う。『子午線の祀り』を含め三作所収されている。上演の時期、事情など、発表当時に書かれた木下順二の文章で知ることができて興味深かった。ここで印象に残ったのは「劇作家」が確固とした地位を持っており、まず最初にテキストありきということで、第三次公演までは宇野重吉の演出にゆだねている部分があったが、第四次以降は、文学作品としての「劇作品」をいかに舞台化するかという木下順二の野心があったことを自身が書いていることだ。それで上演時間も四時間を超えるようになった。「劇作品」「劇文学」に有効性がなくなっていったのが、六〇年代、七〇年代、そして八〇年代だったはずで、それで思い出すのが別役さんがある場所で、「劇は稽古場で作られる傾向になった」とその現象を否定的に語った意味の言葉だ。そして、別役さんとは異なる立場から、戯曲が面白ければ読めばそれですむ、上演してもしょうがないと語ったのは寺山修司だ。ある時期を境に後者へと劇は傾向を深めこうして「演出」がより強く意識されるようになった。そして九〇年代、いったいどれだけの演出をしない「劇作家」がいるだろうか。「劇作」と「演出」が一体化されて劇は作られる。『子午線の祀り』はそれとはまったく異なる性格をもっている。ヒエラルキーで考えれば、まず「戯曲」が一番上にあって、作品に奉仕するために、演出があり、俳優がいたとおぼしい。それは有効だっただろうか。一九七八年の当時にあってもそれはすでに無効になっていなかったか。九〇年代になって「劇作家の復権」はある程度の姿で出現し、それは岩松了、平田オリザ、松田正隆らによって現象するものの、だからといって、木下順二のありかたとはまったく異なった性格をもっている。
■『子午線の祀り』を観ることの一番の刺激はそうしたことを考えることだった。旧来の演劇を壊すために現れたはずの六〇年代の運動がありながらも、旧来の演劇はまったく変わらぬ「思想」で上演され、そしていまもまた、変わらぬ「思想」で上演されていることの奇妙さは、「壊す」ことの無力さであり、「壊した当事者」もまた旧来の演劇と同様に平行して存在していることの不可解さだ。そんなとき、新国立劇場では俳優を養成する機関を新たに発足させるという記事を新聞で読んだ。こうした状況の中でそこに作られようとする演技理念、演劇の考え方はなにを参照にするのだろう。で、思うに、かつて私が、「『子午線の祀り』という作品についてまったく無知だし、無知でかまわないと思っていた」と同様のことをいま演劇をやっている若い者らもまた感じているのではないかと想像し、だから連中の誰も見に行こうなどと思わないだろう。なにしろ、ロックも漫画も、ヒップホップもコンピュータ文化も、サブカルチャーの変化なんかとはまったく無縁にメインカルチャーとしての「演劇」がそこにはあったのだ。
■出てくる俳優のほとんどがみんないい声だ。ほれぼれするようないい声。見事な所作。これが「演劇」だとしかいいようのない俳優の姿だ。そして戯曲の言葉。こうした状況についてどう考えるべきかと家に帰る道ずっと思っていた。まあ、そんなことぜんぜん関係なく、いまやりたいことをやるというだけですむことだろうか。わからないから考える。わからないことを解いてみたくなるのもまた、やっていてとても面白いことだから困る。

■劇場に行くと、演劇批評家の内野さんと席が隣になったので少し話す。内野さんとももっとじっくり話しをしたい。そういえば、まだなにも決まっていないが、内野さんの大学で非常勤講師をやる気はあるかという軽い打診。ああ、あそこの大学は学内の図書館が夜10時までなんだなあ。それは大変魅力的だ。あと、小説を書くようにとこのあいだもある編集者から言われたが、木下順二の文庫の「あとがき」のようなものを読んでいたら、もっとしっかり戯曲を、いまだからこそ、「文学」として書こうという気持ちになった。それはなんだかいまの時代にあってばかのような行為だけれど、だからこそ、やりたい気持ちにもなったのである。また「テキスト・リーディング・ワークショップ」を僕の勉強のために開講しようと考えた。

(10:04 dec.26 2004)


Dec.24 fri.  「美邦言語が面白くてたまらない」

■夕方、稽古場に行く。午後は矢内原さんが来てダンスの稽古をしていてくれたが、舞台で使う大きなテーブルが届いており、その出し方、はけ方を作ってくれた。卓球をしたり人が乗るがっしりした作りのテーブルで期待どおりのものになっていた。さらに、矢内原さんから芝居の中で流したいという映像を見せてもらったが、これがまたすごい。どうやって作ったか質問すると、当然の答えなのだが、しかし、当然とはいっても、それにしたってそれをすること自体がすごいことになっているので、なんのことかそれもまた劇場でのお楽しみである。
■いくつかの確認と、さらにここはこうしたほうがいいと考える演出を付け加える。ゆうべ思いついたこと。そしてきのうの「通し」であまりよくなかった「風俗店」の場面を流してみる。少し止めて、気がついた変更を加えたりしつつ稽古する。だいぶよくなった。ただ、ローゼンクランツとギルデンスターンの歌がへただ。いったいこの歌を、それを演じている渕野と柴田は何ヶ月歌っているんだ。半年以上歌って、まだうまくならないのは驚くべきできごとだ。こうなるともう、へたとかいうレベルの話ではなく、かなりすごいことなのではないか。偉大なことなのではないか。
■稽古場には、矢内原さんの知り合いの方で、かつて太田省吾さんの演出助手をしていたという女性が見学に来てくれた。少し太田さんの話をする。太田さんの『水の駅』は無言劇であり、人が上手から下手へと、ものすごくゆっくり歩く。それだけの作品に私がどれだけ感動したかわからないが、聞くところによると、その稽古がすごい。当時の転形劇場の人たちはあまりしゃべらない人たちだった。誰もなにも話さず稽古場に集まる。そして稽古でやっているのは無言劇だ。演出する太田さんもほとんどなにも話さない人だ。なにも話さず稽古場に来て、なにも語らず稽古が進み、そして終わる。結局、誰も声を発することのないままその日の稽古が終わるということがあったそうだ。そんな稽古場にしたいものだが、でもやはり、私はしゃべる。くだらないだめをだす。
■そして、矢内原美邦である。きょうもまた、共同演出感にあふれる稽古場になった。忙しいと思うのに、最後まで稽古につきあってくれた。巻子と幸彦によるラスト近くのシーンについて、美邦さんの演出アイデアを試してみる。僕も考えを出す。だが、途中で、いったいこの場面はなんだったかよくわからなくなる。整理してみる。まず、ごくふつうに夫婦の会話によって物語における大事なせりふを描いてもいいはずの場面だった。だが、ほとんどのせりふを発している巻子を演じる笠木の「発話」に負荷を与えようと、夫婦による共同作業をしながらやろうとしたことがことの発端だ。それでシャツをたたむとか、洗濯物を干すとか、大きな布を折りたたむなどいろいろやってみたが、そこに「美邦言語」が現れる。一瞬、みんながぽかんとする。それを理解して私がみんなに通訳する。そうするうちに、俳優たちから次々とアイデアが出され、結論は出ない。

■もう退出の時間に近くなったので永井が、「もうそろそろ」と声をかけるが、「うん」と僕は返事をし、まだ考えている。稽古を終えるのかなと永井がほっとしたと思うと、「だから」とまた私が声を出して終わらない。すると、矢内原美邦が突然、声を高く上げた。「なわとびだ。二重跳びをしましょう」と美邦の大きな声にわたしはたじろぐ。「できないんですよ、なわとび」と笠木。「そもそも、ここは、家の中だからなあ」と私が言うと、「じゃあエアロビクスは? エアロなら家の中でもするでしょう」というが、ちょっと待て、台本をちゃんと読め、エアロビクスをして語るようなせりふの流れにはなってないぞ。直前まで男からの得体の知れない電話に苦悶する女が、そんなに気持ちをさっと切り替えてエアロをするだろうか。結論は出ない。とうとう永井が「早く出て、早く着替えて、岸君、靴そこじゃないよ。岸君、あんた北川辺には行ったことがないよ」ときりきりしている。「あ、そうだ、俺、北川辺に行ってない」と岸。いや、岸は北川辺の映画ロケに確実に行っている。撮影に使った犬にそうとう噛まれている。いや、そんなことはどうでもいい。
■面白いなあ、この共同作業はすこぶる面白い。「美邦言語」がなにより面白い。次々と発案。その絶妙な感覚もいい。そして考えているだけじゃなくからだを動かす。そして俳優たちからも意見がとびかう。大河内君からは『灰とダイヤモンド』のラストの洗濯物がぱーっと広がる光景を作るのはどうかと意見。伊勢も意見を主張する。美術協力の武藤からは、テクニカルなことでアドヴァイスがでる。なにが可能で、なにが不可能か。なんていい稽古をしているのだろう。「悩み」、そして「議論」する稽古だ。とはいっても、太田さんの静かな稽古にも私は憧れるのだ。でもできないな。まず黙っていられない。どうでもいいことをまず話してしまう。まっさきに話すのが私だ。その次が矢内原美邦だ。しかも、「美邦言語」だ。
■あした一日、稽古は休み。みんなしっかり休みを取ってくれるだろうか。明日稽古が休みだからときょうはみんなで酒でも飲みに行ったのではないか。飲めばいいさ。稽古場の外ではなにをしていたっていい。稽古場で結果が出ればいいのだ。出なかった者は失格。まだ考える。さらに考えることはある。次の「通し」が楽しみだ。もっと詰めよう。深めよう。いい舞台にする。

(2:24 dec.25 2004)


Dec.23 thurs.  「足りないもののこと。それは無である」

■あと、初日まで何日になったんだろう。だんだん焦ってきた。まだなにか足りないと思える。で、上映時間は二時間半以上あるのだが、どうもせわしない気がしてならないというのが、きょうの「通し稽古」を見て感じたことだ。何日か前から感じていたことだが、ぎちぎち詰めすぎて、「空白」といったものが感じられない。五月の「リーディング公演」のとき感じた劇性が薄い。家に戻ってからそれをずっと考えていた。
■でも、ひとりひとりの芝居はどんどんよくなっている。「円」に所属する岩崎が過剰になっているというか、芝居が大きいというか、ああ、新劇の人だ、と思いはするものの、でも、それぞれ確実に深みをましてきた。特にきょうは松田貞治が娘の杜李子に話しかける朝の場面でどこまで押さえて芝居ができるか何度か反復。すごくよくなった。はじめは「泣き」の入った湿度の高い芝居だったが、ぐっとタイトになってその場面の集中度もました。ひとつひとつの場面はよくなっているが、それをどうつないでゆくかという演出に、せわしなさがある。場面の終わり方とか、暗転の間とか、映像の出し方、消え方、そういった細部をきちんと指示していなかった。
■で、やっぱり、その日稽古した場面は「通し」でもかなりいいわけだ。そりゃあ当然なんだ。それが何日か経つとだめになり、きょうは「風俗店」がよくなかった。稽古はその反復。そしてだんだん安定度を増してゆくのだろうと思われる。もう何年舞台をやっているか忘れたがその繰り返しだ。いつも同じことが課題になる。だから反復。

■昼間、『
be found dead』にも監督として参加してくれた冨永君が見学に来てくれた。少し時間ができたとき、俳優についての話をする。あるいは演出というものについて。映画と演劇ではまったく異なり、それぞれの特性があるのを知ってわかるのは、「似たものの差異」によって鮮明になる、「演技」とか「演出」と呼ばれるものの本質だろう。映画はマイクがあってそれで声を拾うから俳優は声を大きくしなくていいなんてことは、おそらく、どうでもいい些末だ。もっと異なる視点からより強く見つめれば、そこからいま「演技」についてまたべつのアプローチが見いだせる可能性もある。ハリウッドが参照したリーストラスバーグ経由のスタニスラフスキーのことなど、考えることはいろいろあるものの、書きはじめると長くなるのでまたにする。というか、うまくつかめないのだった。なんかあるはずなんだ。
■まだあると家に戻っても芝居のことばかり考える。「間」のこと。「無」のこと。「なにもない時間」のこと。劇のこと。そして、また異なる俳優のからだ。

(10:02 dec.24 2004)


Dec.22 wed.  「いま、ここである」

■いま発売中の、「SWITCH」という雑誌で、『トーキョー/不在/ハムレット』について特集をしてもらった。自分で引用するのもはばかられるが(というか恥ずかしいことをします)、取材もしてくれた徳永さんはそこで僕についてこれまでの仕事を次のように要約してくれた。まずそこには、「宮沢はかつて、演劇の定義を広げ、若い世代に計り知れない影響を与えたムーヴメントをふたつも起こしているのだ。『トーキョー/不在/ハムレット』の前に、まずその話から始めたい」と前置きがあって、そして次のように記している。
ムーヴメントのひとつは80年代半ば、シティボーイズ、竹中直人、いとうせいこうらが俳優として名を連ね、宮沢が作・演出したラジカル・ガジベリビンバ・システム。これこそ、意味がなくてくだらなくて格好いいという、それまでの演劇(以外も含めていいだろう)の価値観にはなかった表現や、シニカル、シュール、ナンセンスといった、わかる人だけがわかるサブカル的センスを、初めて舞台の主目的にした集団だった。それまでの演劇の大半が、ざっくり言って“体育会系による汗と感動”と“思想系による主義主張”とに占められていたとすれば、ラジカルはその中に“文系の笑い”で侵入し、増殖した。それは東京の笑いの新しい鉱脈であったし、いとうせいこうらの深夜番組を通してTVの世界にも流出していった。そして90年にスタートした遊園地再生事業団では、何も起きない時間と場所を描くという、いわば通常の演劇のネガともいえる作品をつくり、「静かな演劇」という新ジャンルで呼ばれるようになる。そうした90年代の宮沢流は、やがてひとつひとつのセリフや間の厳密さを追求していく。
 なんで引用したかというと、「ムーヴメント」といったようなものは常に結果にしか過ぎないだろうとこれを読んで思ったからだ。起こそうとしたわけではない。そのときいちばんやりたかったことをしていただけだった。ただ、たとえば「笑い」なら、それを変えるという意志はあり、それというのも、流通している「笑い」のほとんどが面白いと思えなかったからで、だったら自分が面白いと思うものを自分で作ったほうが早かった。さらに九〇年代の劇については「八〇年代の劇がきわめて恥ずかしい気分になってきた」ことが大きくあるので、表現の方法をがらりと変えた。だから結果だ。気がついたら徳永さんが書いてくれたようなことになっていた。とはいってもやはりどこかできっぱり、「革命の意志」はあったな。変えてやろうという野心。スガ秀実さんの言葉を借りれば「革命の祝祭的享楽」の気分がラジカルのころはかなり高かった。二〇代で、生意気で、いつもぴりぴりしていた。
 で、問題は、というか、書こうと思うことの核心は、『トーキョー/不在/ハムレット』である。また新しい「やりたいこと」が少しずつ形になってきた。それがいま、一番興味のあることなのだ。どこまでも先に進む。方法が固まったらそれを崩す。九〇年代にやったことにももう飽きた。笑いはいま、単に恣意的な享受者になった。芸人ばんざい。小劇場で笑いをやっている人は甘いよ。営業なんかにいったときのあの暗澹たる笑いの世界の暗さを味わってみろってんだ。ほんといやだぞ。だからたくましくなる。そして、とにかく、『トーキョー/不在/ハムレット』。いまのことがもっと大事だ。「いま」であり、「ここ」である。

■夜、通し稽古。きょうは矢内原美邦さんもいて、だめ出しにも参加してくれた。通しの前には少し話し合い。六分間以上ある「詩人の独白のダンス」がもつかどうかと矢内原さんは心配するが、「大丈夫だ。ぜったい大丈夫だ。俺なんか、短すぎるとすら感じた。ぜったい大丈夫だから」と安心させる。タルコフスキーを見てみろ。たいてい観客は寝てしまうんだ。観客が眠ってなにがいけないんだ。あれは眠るようにできているんだ。俺なんかつまらない舞台を観ると腹が立って寝てなんかいられないが、眠れる表現はそれだけで価値があるんだ。
■そんなことを考えて「通し」を見ていたが、少しぎちぎちに詰めすぎた感がある。「なにもない時間」があまりにない。表現の要素が重なった部分もかなりある。さらに矢内原美邦がアイデアを提出。どんどん過剰になる。矢内原さんのアイデアは面白い。それを話すときの矢内原さんの状態そのものが面白いというのもかなりあって、いきなりなことを言い出すのだった。それをうまく取り入れ構成しよう。ただ、どこかで、「なにもない時間」を作りたい。きょうの「通し」は一昨日よりできが悪かった。なにがいけないかについて考える。もちろん「だめ出し」のとき細かい指摘はいくつかしたがそれは本質ではない。
■家に戻って構成表を見ながら考える。台本を再読する。どこかで「なにもない時間」「ゆっくりした時間」を生み出せないか考える。まだまだ考えることはあるのだな。もっと深みを増し、クオリティをあげたい部分もかなりある。あ、そうだ、京都で『
be found dead』を上映したときアフタートークに来ていただいた丹生谷貴志さんから本を贈ってもらった。うれしかった。『三島由紀夫とフーコー<不在>の思考』(青土社)という書名。「不在」である。そうきたか。

(10:23 dec.23 2004)


Dec.21 tue.  「共同作業である。そして表現について」

■午後、矢内原さんによるダンスの稽古があり、顔を出そうと思っていたのだが眠っていたのだった。このところすぐ眼が覚めるので、朝五時半頃にいったん眼が覚め、それからこのノートをつけたりあれこれ考えごとをしているうち午後になる。いったん眠ってダンスの稽古に間に合うようにしたつもりだが、眼が覚めたらもう午後四時半だった。からだが動かない。ようやっと着替えをし、稽古場に向かう。夕方の六時になるところだった。失敗した。演出補で、ダンスのいわば演出助手的な役割をしてくれる小浜からダンスの稽古の報告を受けたところ、煮詰まったといい、矢内原さんの提案も聞いた。詩人の独白についてだ。ふむふむそうか。で、なにが問題になっているのだろう。しばらく小浜と話をする。それからやや沈黙があったのち、「で、なにが問題なってるんだ?」と私は言ったのだった。それを何度か繰り返す。なにが問題になってるんだ?
■でもなんとなく矢内原さんの考えていることがわかったので、その方向で検討しようと考え、そして議論し、さらによくなってゆくことを期待した。これぞ共同演出であり、コラボレーションだ。名ばかりのコラボレーションにはしたくない。そもそも、最初、矢内原美邦さんというかニブロールと作業しようと発案したとき考えたのは、たとえば、「この部分にダンスを入れたいので振り付けしてください」といったものにしたくなかったということがある。それはいやだ。それだけではもの足りない。「からだ」へのアプローチはなにもダンスばかりではなくもっと様々な方法があると考えていたし、そのためにニブロールと共同作業することによって発見できることがきっとあるはずだというのが、このプロジェクトのはじめに考えていたことだ。からだへのまたべつの試みだ。
■ただ、問題はですね、最初に戯曲がというか、企画があり、北川辺町を舞台にすること、『ハムレット』を下敷きにすることが前提にあったことで、それにニブロールが合わせなくちゃならなかった事情はどこか歪みが生じるのも当然だ。ニブロールと北川辺町はぜったい合わない。ほんとなら、企画段階から共同で作ってゆけることができたらいちばんよかったのだろう。それをいまさら言ってもしょうがないというか、私が「北川辺町」に夢中になっていたのが問題ではあったものの、まあ、いま興味のあるものに集中してしまうのが作家ってものだろう。だから話し合いだ。小浜を通じてだとよくわからないこともあり、あした打ち合わせをすることにした。

■で、ひとつわかっていることは、「時間」に対する感覚だ。あるいは「速度」の基本感覚。矢内原さんには速度の高さをかなり感じる。速度の美。僕はそれも好きだ。気持ちがいい。だが一方に、たとえば太田省吾がいる。太田省吾さんの『水の駅』で、俳優が舞台中央までやってくるのに五分ぐらいかかるあの表現をどう感じるかの差異である。長いと感じるか、それともそれが美しいと感じるか。あるいはタルコフスキーでもいいか。でも、太田さんにしろ、タルコフスキーにしても、たしかに「長い」んだよ。どう考えても長い。しかし、その「長さ」についての基準が問題になっているのだろうと思われる。能という芸能もまた、やはり「はしがかり」をやってくる時間がきわめて長いが、かつて表現の時間感覚は、おそらくあれがあたりまえであって、いつしか俳優は舞台の中央に10秒以内にやってくることになっていたのだ。太田さんにしても、タルコフスキーにしてもそれを疑う。太田さんは「劇的なるもの」を疑った。タルコフスキーは、エイゼンシュテインの「モンタージュ」を疑った。テオアンゲロプロスのどうかと思うほどの長回しもまた、ある種の「映像的なるもの」への疑いだろう。俺はあのテオアンゲロプロスの長回しがものすごく好きだ。それを言葉でやりたいと思ったのが、読点がぜんぜんない、六分以上ある詩人の独白だ。だから、そのノーマルな発話は、退屈なほど長くなければならなかった。そしてあらためて、また詩人がその同じ言葉を発するとき、もっと異なる表現になっていてこそ、言葉はより生きてくると思われた。矢内原さんのつけてくれた動きによってそれは異なる言葉となって出現し、僕はそれに心を動かされた。だから、なにが問題になっているんだ?
■で、とにかく議論する。するとこの舞台はさらによくなってゆく予感がする。議論だよ。もっと話しあうことだ。で、よかったとえいば、きょう稽古場に届いた高橋君の新しい映像だ。すごくよかった。びっくりした。ローソンの外観が映っているのだが、それがどこまでもどこまでも長く続いている。いやあ、驚いたなあ、いったいこんなローソンをどこで見つけたんだ、こんなに長いローソンを、というのは冗談です。ローソンを撮影しそれを加工してですね、めまいのするような映像になっていた。かっこよかった。それは劇場でのお楽しみだ。
■夕方から芝居の稽古。いくつか、きのうの通しで問題になった箇所のチェック。やり直したり、考え方を変えたり、あるいは安定させるために反復する。やっているうちにわかることがある。反復してみているうちに発見することもある。ちょっとした演出の変更でよりよくなる。その余裕があってほんとによかった。一年は無駄ではない。ないにちがいない。ないのじゃないだろうか。ないと思いたい。

(3:32 dec.22 2004)


Dec.20 mon.  「気がついたら年末だった」

■稽古場と家との往復でいまが12月だとこのノートを書いて知るとはいうものの、「年末感」がさっぱりない。正月には稽古が「稽古場がない」という理由で休みになる。年明け4日からはまた稽古だ。するとすぐにもう初日。季節感はまったくないのだ。忘年会でもやろうかと思っている。それで今年を振り返ろうと思ったが、振り返ろうと思っても、よくよく考えると、われわれは『トーキョー/不在/ハムレット』のことしかないではないか。稽古ばかりしていた。映画を撮っていた。プレ公演があり、そしてまた稽古だ。今年の十大ニュースは「プレ公演」といったことになるのだろうな。なんだかよくわからない。
■夕方から照明の斉藤さんが来てくれるので「通し」をやる予定になっている。きのう気になった部分について直しの稽古を午後はする。特に松田貞治の場面が中心だった。やりこむことでだいぶこなれ、深みがましてきた。少し演出を変える。ずっとよくなった。あるいは、ちょっとしたことで全体に漂う空気が変化する。それはなにも起こらないたった五秒の空白だったりもする。北川辺ライブラリーも何度か返す。巻子と杜李子が出会う場面だ。なにをここで描かなければいけないかが明白ではなかった。少しよくなる。もっとよくなるにちがいない。
■夜、通し。きのうより一分短くなっていた。なにがそうさせたかよくわからない。松田貞治が酔っぱらって家に帰ってくる場面がある。そこに関してその酔っぱらいぶりは大河内君に好きなようにやらせているがそれが少し短くなったのかもしれないとはいえ、一分ということはないだろう。きょう笑ったのは、べろんべろんに酔っぱらった貞治が、さんざんでたらめをしたあと、「きょうはあんまり酔ってないな」と言ったせりふだ。いかにも泥酔した人間が口にしそうな、大河内君の芝居とあいまって笑った。で、まあ、それはいい。全体的にはきのうよりずっとよくなっていた。ほんの少しのちがいだ。で、さらに考える。どこをどうしたらいいか。なにを描くべきか。そのためにはどんな演出が必要なのか。ただ途中まで、かなりいいと思っていたが、ラストに向かって少しなにかが崩れる。これは戯曲の問題でもあるなと思って見ていたのだ。いまさら戯曲をというか、上演台本や構成を変えるのもなんなので、そこを俳優のからだと、演出でなんとかしよう。家に帰ってまた考える。ただ、きのうよくなかったことの解決の糸口がきょうの通しで見えてきたので、気分はよかった。

■それで、家では、いまさらだが新しい告知ページを作っていた。情報が正しくない部分もあったので制作の永井にもうずっと前から頼まれていたものの時間がなかった。告知をデザインするのは面倒だ。うまくレイアウトできないし。ほんとは、今月のあたままでには作るべきだったのだ。だめでした。演出助手の相馬に頼めばよかった。なにしろ相馬はウェブデザイナーだった。いまは映像出しの仕事をしており、なにか頼むと稽古場ですぐ作ってくれ、たとえば文字をこういうふうに出してくれと頼むとさすがにデザイナーだけに仕事が速い。すぐできる。
■そういえば、告知ページに次の情報を入れるようにと永井に頼まれていたが忘れてしまったので、ここに記しておこう。
○ロビーにて『トーキョー/不在/ハムレット』、遊園地、ニブロールグッズ販売中
  (ここでしか手に入らないものばかり)

 ・パンフレット『トーキョー/不在/ハムレット』
   Tokyo/Absence/Hamlet BOOKLET \1,000
 ・DVD『be found dead』\2,940
   (パンフとセット販売もあり¥3,600)
 ・小説『不在 Nowhere man』¥1,500
   (『トーキョー/不在/ハムレット』原作、サイン本)
 ・過去の上演台本
   (『ヒネミ』、砂漠監視隊シリーズ、『知覚の庭』、『TOKYO BODY』等、
   セット販売あり)
 ・過去の公演パンフ(『ゴーゴー・ガーリー!』、『Yes』)
 ・宮沢章夫著作本
   (『牛への道』『わらなくなってきました』『牛乳の作法』等、サイン本)
 ・ニブロールオリジナルTシャツ \3,800(各種サイズ、色あり)
 ・他、関連雑誌
 永井の野望はつづく。「関連雑誌」には舞台芸術センターの『舞台芸術』もあるだろう。ぜひ買おう。特にDVDとパンフレットのセットはお買い得だ。小説も頼む。読んでほしい。『サーチエンジン・システムクラッシュ』の文庫もあるはずだ。といったわけでもっといい舞台にするための稽古はさらに続く。

(10:35 dec.21 2004)


Dec.19 sun.  「道具がまだできてなくて稽古にならないよ」

■ストレッチを俳優が自主的にやりそれが終わったころ僕は稽古場に着く。少し確認のためにいくつか稽古したあと、午後3時過ぎより「通し」。通しについてはあとで書く。ニブロールの矢内原美邦さん、映像の高橋君らも参加してくれ、「通し」が終わったあといくつか反省。矢内原さんはダンス部分でさらに直し、あるいは、崩してゆく作業にこれから入るという。高橋君から新たに作業中の映像を見せてもらう。牛の映像があって、個人的にほしくなる。「これ、ちょうだい」と言うと、「ちょうだいって……」と戸惑うように高橋君が声にする。「いや、家で楽しみたいから」と私。なにしろ牛がすこぶるよかったからだ。私は牛が好きだった。稽古じゃないよこれは。
■夜は、まだ直せるだろう芝居を稽古。きょうの通しを見ていてやはり精度を高めたくなった部分だ。「悩み」「議論する」という稽古ではなかった。でもきのうは、ラストシーンについて、上村、片倉、岸らと議論した。結局、「やり方」についての議論、というか意見交換になったが、僕が「足りない」と感じていたのは「やり方」ではなくもっとちがうことだ。
■で、「通し」だが、上演時間が長いと「通し」も大変なわけだが、午後3時に開始し終わったのが5時半過ぎ。前回の通しより4分ほど長くなっていたのが気になる。それから「だめ出し」を終えたころにはもう夕方の7時になろうとしていた。きょう気になったのは物語のうねりがまったく感じられなかったことだ。仕掛けばかり目について、物語というか、劇性がなにも感じられない印象。終わった直後、それがひどく気になり、原因を考えていた。ひとつ考えられることとしては、熊谷の芝居がよくなかったことがあげられ、というのも、劇性を支えるのに熊谷が演じる松田鶏介の比重はかなりあるからだ。どこか芝居が流れており集中力がない。で、それは熊谷ひとりの問題ではなく、全体的にばたばたしていた印象がある。ひとつひとつの場面の集中力。なにかやはり足りない。重しみたいなものが外れて、ふわふわしているように感じ、すると、生中継や、手の込んだ演出、つまりは仕掛けばかりに目がいってしまう。なにかな。悩む。で、「だめ出し」のとき判明したが、上村が演じる島村幸森の発する重要なせりふを、片倉君が食っていたことがわかり、かなりそれは重要なせりふだったので、それが原因かとも思ったものの、いや、それだけではないだろう。

■それで終わってから、「準備公演」で作った「また異なる演技へのアプローチ」ともいうべき「演出」の場面をいくつか削ったほうがいいんじゃないかとすら考えた。「劇性」や「物語」を大事にすべきだろうか。すると、構成自体を変えないとおかしなことになる。削る方向ではなく、やり方、演技が変わればちがうのじゃないか。判断がまだつかない。夜の稽古では「やり方」「演技」を再確認。もう一度、通しをして考えよう。でも、これから構成を変えてもまだ間に合う。時間はまだある。このあいだ、「ぴかぴかに磨くのは面白いか」といったことを書いたが、きょうの「通し」をやって、「磨く」というより、「深める」ということもまた重要だと感じた。「深める」ための稽古はきっと必要だ。まだ浅い。それは磨くだけのことではない。表現の深度を高める作業。それはただ反復でしか生まれないものだ。で、抜きで稽古(つまり、場面ごとをやること)したときは、かなりできがいい場面も、「通し」でやってみるとだめだったりする。つまりですね、「通し」の慌ただしさに俳優のからだがついていってない気がするのだ。あるいは、表面的な「熱演」はだめだ。「火曜サスペンス劇場の追いつめられた犯人」じゃないんだ。そんな薄っぺらいものじゃだめだ。
■きょうの「通し」で眼が覚めた。もっと稽古する。ただただ稽古だ。安心してはいられない。あと、舞台監督の仕事が遅くてまだ用意されていない道具がある。稽古にならない場面がいくつかあってむかつく。優しい言葉で、「これ、頼むよ」と言ってあげてるからいい気になってやがるが、怒鳴りつけてもいいんだ。ばかやろう。

(7:25 dec.20 2004)


Dec.17 fri.  「そしてなおも稽古をしている」

■明け方まで、このあいだも書いた公演中に販売されるブックレット(パンフレット)の残りの原稿を書いていた。青山さんとの対談の直しをし、それから河合祥一郎さんとの往復書簡の返事を書く。もうすでに90パーセント書いてあったがどうもまとまらないので、その書き直し。さらに「あとがき」がある。ようやく書き終える。で、私はこの半月ばかりのあいだに様々な方に不義理をしているのであった。原稿が書けなかった。ゲラが届いてもチェックしなかった。舞台のことばかり考えている。田代まさしは覚醒剤使用について「酒が飲めないのでストレス解消にヤクをやった」といった意味の供述をしているが、私も酒が飲めないとはいえストレスがたまっても覚醒剤に手を出す勇気はない。仕方なくパンを食べている。よくわからないが深夜こっそりパンを食べるのだ。それから眠って目が覚めたら正午過ぎだがからだが動かねえ。かなり遅くなって稽古場に到着。衣装の打ち合わせがあったが欠席。
■ニブロールの高橋君が作ってくれた映像を見せてもらった。かっこいい。きれいだ。あとで高橋君と話したのは、その映像と、映像と同時に見せるダンスのつながりだ。たしかに高橋君も言っていたが高橋君の映像が持っているポップさと、その場でやっているダンスの質はかなり異なるので、ダンス単独ではあまり気にならなかったが(というか、かなり僕は気に入っていたが)、男中心のダンスがやたら泥臭く見えるというか、岸を中心に、もうほんとに野蛮さが前面に押し出される。がらの悪さがいかんともしがたい。しかしこれはこれで面白いのかな。矢内原充志君も来て途中段階の衣装を見せてもらった。これも面白い。着々と作業は進んでいる。もちろん、美邦さんのダンスの稽古もあった。またべつの場面の動きを演出してくれた。いよいよ共同演出感は高まっているのだ。
■夜、いくつかの場面を抜きで稽古。だいぶよくなってきた。ふと思いついたことをやってみるなど、何度も稽古しているなかで発見したことを試してみる作業。ただ、卓球の場面の、ラリーをする以外の芝居で三坂がうまくできないのでそれを何度かくりかえす。どんなやり方をしても、「よければいい」が、よくないのでいろいろ意見をする。だが、できない。いや、そうじゃなくてとか、ああ、そうなっちゃうんだよな、三坂がやるとと言ったことを演出していると、どんどん萎縮してゆきいよいよつまらなくなる。「埼玉県のヤンキーを演じなければいけない」といった観念にしばられ三坂が本来持ってるよさを感じない。からだがこわばる。かつてのように、ここはこうやれ、こう声を出せ、こう動け、これ以外のことはするなといった演出にするべきなのだろうか。

■稽古の最後はラストシーンについて考える。まだ考えることはあるな。たとえば、最初の戯曲とおりのノーマルに戻してもいい。まだ悩み、試す時間はある。で、そのことを通じて「劇」そのものについて考えるためにこの作業がある。

(8:37 dec.18 2004)


Dec.16 thurs.  「矢内原美邦復活」

■体調を崩していた矢内原美邦が元気に稽古場に戻ってきてくれた。昼間はダンスの稽古をし、できたところを見せてもらった。詩人の独白はかなりよくなっていた。その後の稽古は、それまでに芝居の中で使われたせりふを脈絡なく矢継ぎ早に発する場面の稽古をしたが、そのまま、夜まで矢内原さんがその稽古に付き合ってくれ、せりふを発するにあたって単調だった動きに変化を持たせるための様々な案を出してくれる。「あ、そうだ」といきなり口にする美邦である。「山手線がいいよ。渋谷とか、新宿とか、あるでしょ、その町の動きが」と発案するが、皆、釈然としない顔をしていると、「渋谷だったら、ほら、こんなふうに」と動いてくれる。で、「ああ、ね、それだよね、渋谷だよね、それ。あきらかにそれは渋谷だな」と私。いや、よくわからないのだが。それがだめだとわかると、なにかのテレビゲームのようなものはどうかと言う。僕はからだの変化、動きの変化によってせりふの発話がふつうに芝居するときとは異なることに興味があったので、たとえば、中腰になってせりふを発するとか、からだが意識を変容させること、そんなふうに人はからだを動かして話さないだろうということが面白くて案を提出。
■こうして共同演出がはじまった。これぞ共同演出だ。たまらなく新鮮だった。久しぶりに気持ちのいい稽古ができた。矢内原さんに助けられる。病気から復調した矢内原さんはさらにパワーアップした。そして、何度も何度も、同じことを繰り返し稽古することにつきあってくれる俳優たち。途中、こんなことはどうかと、脱線したりもしたが、それが議論になり、またべつの動きが生まれる。そうして贅沢な稽古はつづく。ところで、繰り返すようですけどね、詩人の独白がかなりよくなっていて、与えられる暴力的な外側からの力に反発して発せられる詩人の強い言葉に私は感動すらしたのだ。きょうはよかったな。ほんとにいい稽古だった。
■稽古が終わってから、武藤たちと小道具の打ち合わせのため、三軒茶屋にあるシャノワールという喫茶店で話す。膨大な小道具だ。冗談を交えながら相談。それも楽しかった。で、家に戻ってパンフレットのゲラをチェックした。ニブロールと、音楽担当でダンス批評家でもある桜井君、演出補の小浜による座談会の部分を読んだらそれも面白かったが、なかでもニブロールの映像を担当してくれる高橋君が「演劇がきらい」ということがその座談会の発言で判明。それをばらしたのは、矢内原美邦である。ほっとくとなにを言い出すかわからないよこの人は。高橋君もさぞかし困ったことだろうと想像した。で、関係ないけど以前までどうも軽くなりがちだった伊勢のせりふが今回の稽古ではかなり変わった。伊勢の成長ぶりに感心している。あと三坂の日記を読んだら、新宿にあるバーのママがこのノートを読んでいてくれるとの話を知り、どこでどんな人がこれを読んでいるかわからないものだと、驚く。いい稽古をしたあとの帰り道は気分がよかった。それでも山手通りの工事はあいかわらずすごい。道が混む。東京はそのうちすべての土地が道路になってしまうのではないかとすら思えるのだ。

(4:07 dec.17 2004)


二〇〇四年十二月前半のノートはこちら → 二〇〇四年十二月前半