富士日記2PAPERS

Apr. 2007 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Apr. 30 mon. 「休み」

岩宿遺跡記念切手

■今年も、「かながわ戯曲賞」の受賞作のリーディングの季節になったのだった。詳しくは、『廻罠』のページまでどうぞ。『廻罠』は、こう書いて、「わたみ」と読む。作者の下西啓正君は、チェルフィッチュの舞台にも出て俳優もする人だ。下西君の戯曲は読みづらい。なにが読みづらいって、『廻罠』を「わたみ」と読ませるように、登場人物の名前が、ほとんどあて字のような読めない漢字を使っているからだ。だから、リーディングをしちゃうと、その不思議な部分はほとんど意味をなさなくなり、だが、そこで戯曲は舞台とは関係なく存在するのも感じる。

■いろいろ疲れたので、29日はとにかく休むと決めたのだった。ただ、あらためて『ニュータウン入口』のプロットを書いていた。それは仕事っていうより趣味のような感じだ。休んでいないっていえば、休んでいない。ただ久しぶりによく眠った。さて写真は岩宿遺跡が発掘されてから50年を記念して作成された切手である。たまたま家にあったのを発見したのだ。
■で、話はもどるが、プロットをいまさら書くのも変な話ではあるものの、考えをまとめるために、そのやり方としてプロットにしてみたのだった。以前、京都の大学で太田さんが、「アンチ・プロット」という言葉で「ドラマ」そのものを否定しているのを聞いた。太田さんの考えはつまり、「ドラマ」から「パフォーマンス」へということになるし、たしかに凡庸な「ドラマ」は否定されるべきだろう(僕は「ドラマ」全般を否定しないし、チェーホフ的な喜劇は面白いと思っているが)。けれど、「プロットを作る」ことにべつの意味がなにかあるのじゃないか、またべつの価値を発見できるのじゃないか、おおまかな概念図のようなものとしてプロットがあってもいいのではないか、とも思ったのだ。しかも、戯曲の第一稿を書いてからあらためて書く。それはことによったらグラフィカルなものでもいいのかもしれない。戯曲を書く際、僕はしばしば、図を描く。で、プロットを書くのが苦手だから、考えていることをまとめるのにそれを絵にしてみるが、そこに、意識に浮かんだことがさまざまな連関となってグラフィック化される。視覚化される。そういったところから戯曲を書きはじめる。というか、そいうふうにしかできない。それが戯曲の世界をグラフィカルにしたものだと書けば、いわば、曼荼羅のようなものにならないか。
■そこからのまたべつの劇の構築。建築の世界に「エスキース」という言葉があるけれど、エスキースとか、ドローイングに僕は憧れる。『フランク・ロイド・ライトドローイング集』(ブルース・ブルックス・ファイファー/谷川正己 訳 同朋舎出版)など見るとそれだけで絵画の作品集のようだ。で、ドローイングになると、かなり絵だが、エスキースはもうひとつ前段階という認識がある。ちがうかもしれない。と思って書棚から、『エスキース 技法と実際』(佐々木清・グラフィック社 1976年)を出してきてその最初にある言葉を引用すると、「エスキースとは?」という節にこうある。

エスキース(仏、esquisse)とはスケッチパースおよびラフスケッチを意味する言葉で、スタディ用語として専門家(デザイナーおよびプランナー)の間では広く使われる言葉である。しかし広い意味ではパースペクティブの領域として入ることもある。パースペクティブ(以下パース)は建築物における透視図あるいは完成予想図(竣工姿図)と訳され、主として設計のプレゼンテーションとして用いられる働きがあり、営業用パースの意味あいが深いものとして考えてよい。これに対しエスキースは設計作業およびデザインの創出活動(作業)の《プロセス》で自己のイメージの確認作業、アイデア捻出作業として描かれるところに、その違いがある。建築設計、デザインにおける《目的》としての行為ではない。あくまでもスタディ用として、その働きがある。

 ああ、そういうことだったのか。だったら、「ドローイング」ってなんだろう。ただ本書にはライトのドローイングが参照として掲載されているから、いまでは、「エスキース」のニュアンスがかなり変わっているのか。なにしろこれ、30年ぐらい前の本だし。さらにいえば、「エスキース」って言葉を使ったコミックがあるらしくて、「エスキース」でネットを検索するとそれがやたらヒットする。まあ、しょうがない。ただ、「スタディ用」という部分において考えるなら、「エスキース」の概念は、考えをまとめてゆくために意識をグラフィック化してゆくような感じがあって、どこかしっくりくる。先にあげた『エスキース 技法と実際』の時代にはまだコンピュータがほとんど個人用ではなかった。そこでまた変化しているだろう。その本には様々な手描きのエスキースが掲載されそれを見ているだけでも楽しいが、たとえばプレゼンテーション用のエスキースとかそういったものっていまじゃコンピュータでやってるんじゃないのだろうか。
 だが、手は動かさないとだめだろう。もっと根源的に、建築家は。むしろ、その手の動きのことを、「ドローイング」というのかもしれない。その感じね。チェーホフが多くのメモを取ったのは、いわば、スケッチだ。それを概念化するにあたってエスキースが生まれる。そのとき動く手こそがドローイングをしている。だから、『フランク・ロイド・ライトドローイング集』を目を通す人は、ライトの手の動きを見ている。どんな手さばきで建築を構想しているかを読みとっている。チェーホフの戯曲を読むとき、チェーホフの手の動きを読むことに似ている。さらに、先日、ロシア文学者の中本信幸さんに教えられたように、全集にある「ノート」や「書簡」のなかにこそチェーホフの手の動きは見つかるにちがいない(とはいっても、それ直接的すぎて面白くない気もする。戯曲から「手つき」を読みとるからこその、「読み」の面白さがあるのじゃないか)

■白水社のW君から、「戯曲第一稿」の感想が送られてきて、「PDFの第一稿、拝読しました。リーディング公演よりも『笑える』と思いました。役者さんたちの身体性や声が加わることで、『(逸脱を含めた)論理性』は後景にまわるのだなと思った次第です」とメールにあった。それもあるかもしれないが、演出している僕が若いころに比べて、「笑い」を稽古することにしつこくなくなった結果のような気がする。つまり、すぐにあきらめる。面白くないなあと思う部分はすぐにあきらめてしまうのだ。だめだと反省もするが、いわば体力の問題のような気がする。もうちょっとがんばろうという気持ちに、W君のメールでさせられたのだ。
■一日休んで、4月も最後のきょう、ひとつ原稿を書いた。5月7日までにと言われていたがもう書けてしまったのは奇跡か。でもやらなくちゃいけないことがいくつもたまっているから、ひとつずつさっさと片づけておくと精神的に健康である。あと、書きたかった原稿でもあった。町は連休中。天気がすごくよかった。外に出ればよかったが、じっと家で原稿を書いていた。それはべつの意味でひどく不健康だ。

(5:32 May, 1 2007)

Apr. 28 sat. 「チェーホフ的な」

『生きさせろ! 難民化する若者たち』雨宮処凛・太田出版

■下北沢のタウンホールの12階にあるスカイサロンで、「東京ノーヴイ・レパートリーシアター」が主催する「チェーホフ祭」の一環としてシンポジュウムがあった。僕もパネラーとして参加した。僕のほかに、柄本明さん、作家の加賀乙彦さん、ロシア文学者の中本信幸さん、演出家のレオニード・アニシモフさんという豪華なパネラーだ。いやあ、ためになる話ばかりだった。パネラーとして参加していながらつくづく勉強した。なかでも、柄本さんがすごかった。話の途中で、たとえば、『ワーニャ叔父さん』の台詞の一節をそらんじて語ってくれる。それがねえ、すごくいいんだよ、ものすごく贅沢なんだよ。参加費は無料だった。それはもう、来なかった人は損だったと思う。っていうか、ここで告知するのを忘れていた。
■で、シンポジュウムが終わってから、下北沢にある劇団京の小さな劇場で簡単なパーティがあった。ロシア式の乾杯というので、ひとりひとりが、少しスピーチをして「乾杯」という音頭をとる。そのスピーチはみんな、チェーホフにからめて持論を語るわけだが、それを聞いていて僕の隣に座っていた柄本明さんが、僕に小声で、「これが喜劇だよ」というようなことをささやき大笑いしている。まさに、このパーティの状況がチェーホフの喜劇そのものだ。しかも柄本さんは、やはりスピーチを求められてそのことを語った。すると、アニシモフさんが、片言の日本語で「皮肉皮肉」と言う。ああ、まさにチェーホフだ。知識人たちが集まり、そしてなかには、柄本さんのような人(えーと、やっぱり皮肉なことばかり語る『三人姉妹』に登場する人物は誰だっけ)もいるし、そして作家はそういうときみんながなにを話しているかメモを取っていたのではないか。それを話したら、中本さんが、「そう、チェーホフはすごくメモをとってたんだよ」と僕に教えてくれた。面白かったなあ、そういったことの全般が、面白くてしょうがなかったし、すごくためになった。
■で、劇団京の方で、今回の「チェーホフ祭」のプロデュースをしている方から、劇団京の主宰者である吉沢京夫さんについて少しお話を聞いた。「京夫」と書いて「たかお」と読むのだとそのときはじめて知ったのだ。吉沢京夫さんについて僕が知っているのは、大島渚の『日本の夜と霧』に出演していたことぐらいで申し訳ないが、それにしたって、30年以上、その名前を読めなかったのはいかがなものか。で、あの映画の吉沢さんは、60年安保当時の日本共産党員を見事に演じてましたねと話したら、「だって、当時は本人がそうだったから」と言われ、まあ、そうだろうとは思っていたけれど、やっぱりなあ(その後は除名されたのだろうか、離党したのだろうか)。いろいろなことを教えられるなあ。チェーホフを翻訳なさっている中本さんの話もとても面白かった。アニシモフさんは雄弁だし話がうまいし、ああ、こういう人がチェーホフの劇に出てくるのだなとつくづく思ったのだ。きょうも多くの人に会って少し疲れた。下北沢を出るころにはぐったりしていた。

■さて、いよいよゴールデンウイークということになっているらしい。まあ、こういった仕事をしていれば「休み」というのも曖昧な存在だ。休んでるんだか休んでないんだかよくわからないし、仕事をしているようでいて、ときにはかなり休んでいる。ずっと舞台や小説のことを考えているとしたらまったく休んではいない。
■もちろん若き日のマルクスが言った「疎外された労働」はぜったいにあるが、人の価値感によって「労働」の意味も変わってくるから、「疎外」されているか、そうでないか、一概にはよくわからない(まあ、わたしは経済学者じゃないので「労働」の分析をえらそうに語れないものの、とりあえず働いている者としての実感はある)。自由業だってその名前とは裏腹にひどく「疎外」されているかもしれず、あるいは、主観的にはそうでないと思ったところで、客観的にはひどく貧困な労働現場だってある。あるいは、「余暇」はひどく理想的に語られるが、けっこう「余暇」は金がかかるから、だったら「働いていたほうがまし」という、あらゆる意味においての「ワーキングプア」だっている。じつは僕はこっちのほうだ。まあ、「労働」と対価程度の報酬があるような気がしているから精神的にはどうにか安寧を保っていられるものの(あくまで気分的にね)、いや、現実の「ワーキングプア」は、いくつかの資料(たとえば、『生きさせろ! 難民化する若者たち』雨宮処凛・太田出版や、『フリーターにとって「自由」とは何か』杉田俊介・人文書院など)を参照してもその実情がわかるし、現場の声もときとして聞く。
■えーと、そういった現在を、「政治課題」にしてそれを運動に結びつけるようなことをしてもいまでは誰も振り向かない。じゃあ、なにも変わらないかといったらそんなことはぜったいにない。変わる。きのう会ったヘブライ大学に行った人は、この国にいることがひどく息苦しいというので外国に出て行ったそうだ。誰でもできることじゃない。そうできない人にとって、ここではじめる方法がある。というか、図式的な過去の政治運動ではない方法をあらためて考えることそのものが、方法になると考える。で、僕はいま与えられた演劇をはじめとする表現の現場でできることをしてみよう。方法を考えてみよう。演劇や小説を通じてそれを考え続けていることが、まあ、精一杯の、僕にできることじゃないかと思うのだ。

■きのうのこのノートに書いた、明治通りが封鎖されているのを目撃したのは、この火事が原因だったのか。なにかものものしかった。ちょっと離れたところで起きていることはわからない。それでこうしてニュースなどで知る。報道で知ったほうが、現場の近くにいるよりもよりわかった気がするのがメディアってやつなのだろうな。

(7:19 Apr, 29 2007)

Apr. 27 fri. 「人に会う」

■夕方、北海道文化財団の方にお会いする。5月からはじまって、月に一日か二日の「演出ゼミ」というものを札幌でやるのだった。チラシがこちらである。ワークショップとはまた異なるレクチャーのようなものになると思われる。いろいろ資料を持っていきたいが、遠いな、北海道は。本とか荷物が多いとたいへんなことになる。計画的に今回はこの話というようにして資料を最小限にしよう。先に宅急便とかで送っておくとか。打ち合わせは軽くすみ、あとは、北海道の話などをした。よさこいの話題になる。札幌で大盛りあがりらしい。全国に蔓延している。東京だって例外ではない。なぜあれが、あんなに支持を受けるかについて考えると憂鬱になるが、まあ、好きなんじゃしょうがないというしかない。
■その後、早稲田を卒業した人で、僕の授業によく出ていたIと、ヘブライ大学に行っていたIの妹さんに会う。食事をしながらいろいろイスラエルの話を聞かせてもらった。妹さんはガザ地区でも働いていた経験があるそうで、話はとても興味深かった。もちろんイスラエル国内について、僕も資料で知っていることはあったが、生の声はやはり面白いのだ。そしてここには詳しく書けないようなこともあった。当然、「イスラエル」はこの東京にいて報道などで知るよりずっと複雑であり、様々な人がそこに生きている。国内の宗教も複雑だ。国全体が一枚岩でもないし、まして左翼的な反政府勢力もいる。話を聞いていたら自分の目でたしかめたくなった。メディアは、と書いたときのそのメディアもまた、大きな資本によって支配されているしそれはたとえば資料を読めばユダヤ系、あるいはシオニスト系大資本になるが、だとしたら具体性はこちらに伝わってこない。もちろんパレスチナについても。あるいは、「テロリスト」と呼ばれる者らについても。情報はそこで一方的に流されているのは少し考えればすぐにわかる。そこにいる人たちの具体性が知りたい。でも、話を聞くだけでも、彼女の話のなか、それは何気ない雑談のようなものだったが、そこからいくつもの声が聞けた。とても貴重な話だ。
■なんだかわからないが、今回は、リーディング公演を終えてから、より戯曲について意識的になっている。いくつもの課題があるのを感じ、さらに、それをどう書き直すと面白くなるか、それを考えること自体が自分にとってかなり楽しい作業だと感じてならない。というのも、あそこをああすればいい、といったアイデアが次々と浮かんでくるからだ。で、なんでしょう、頭が活性化してるとでもいいましょうか、やたら勤勉になっており、家に戻ってからメールチェックし仕事の用件についてすぐに返信したり、あるいは資料にあたったりとずいぶん働いている。まあ、どうでもいいことですが。

■ところで、アップルから、「Mac Pro」などを提供してもらう件について知人から、もらうんですかいいですねといった意味のメールをもらったが、あれは、「MACPOWER」の取材がらみで一時的に借りるのである。今回の舞台で「Mac Pro」を使って映像を作る現場を取材し、「舞台とMac」というようなテーマだ。つまり仕事である。稽古場に「Mac Pro」を持ちこんでそこで作業する。まあ、贅沢っちゃあ贅沢な話だ。ほんとにありがとうございます。
■きょうは少し疲れた。帰り、Iとその妹さんを高田馬場までクルマで送ったが、その途中、早稲田通りと明治通りの交差点から、新宿方向の道路が封鎖されていた。その向こうに救急車や消防車、警察車両が何台も並び、やけにものものしかった。なにごとかと思ったのだ。

(7:49 Apr, 28 2007)

Apr. 26 thurs. 「仕事だから」

■ほんとうなら楽しめるはずだが、仕事だと思うと、とたんに苦労してみなければならないDVDを見る。あるコメディである。しかも四枚組でやたら長いのだ。このあと、ドキュメンタリー作品などいくつもDVDを見る必要がある。本来なら楽しいはずだし、ためになるし、勉強になるはずだが、ついそれを仕事にしてしまった。だから見るのが少し苦痛で(仕事だからさ)、つい逃避する。逃避し、それでチョムスキーとかそのほかいくつかの本を拾い読み。仕事をしなければとそれが気にかかっていると本を読んでも集中できない。
■オーディションも受けてくれ、今回は残念ながら落ちてしまったO君から感想のメールが届く。O君は、白水社のW君と同期で白水社に入りその後すぐに辞めてしまったという人だ。O君が公演のとき持ってきてくれた差し入れがことのほか気がきいていた。というのも、僕が酒を飲めないと知っている知人たちは気をつかって甘いものをいつも届けてくれる。それはそれでうれしいものの、O君はちがった。「フロンティアライト」という銘柄の煙草をワンカートン差し入れてくれたのだ。僕がいつも吸っている煙草だ。こんなにうれしいものはなかった。ありがとう。そして感想のメールは示唆的であり、また、出演者の佐藤についてとても高く評価していた。その部分を読んで僕は不覚にも感動してしまった。
■「文學界」のO編集長が異動になったとのしらせがあった。ずっと小説を待っていてくれたのに、結局、渡せずじまいになってしまった。いつでもそこにいてくれると思っていると、けっしてそんなことはない。まだ先があると思っていたのだが、ああ、ひどく後悔した。申し訳ない思いでしばらくへこむ。だからこそ、ともかく「新潮」の小説を書きあげなければ。そして「群像」。それで、何年も前から声をかけてもらっている「小説トリッパー」のOさんにも会って小説の話をしよう。小説のことをあらためて考えようと、O編集長の異動をきっかけに思い直したのだった。あれ、きょうはやけに、「O」の人が出てくるな。

■で、つくづく思っていたのが、このノートの価値である。もちろん、このノートをこれだけ書いたところでなんら貨幣的な見返りはないわけだが、書きつつ考えることにおいて、むしろこのノートを中心に生きているような毎日だ。しかも、ノートを読んでいる様々な人からメールや連絡をもらい、いくつも示唆される。これほど高い価値を持ったメディアがあるだろうか。しかもときどき休むことができる。誰からも強制されない。なにを書いても自由だ。そのことで人とつながりができる。あるいはなにかメッセージを発することができ、ニュースを伝えることができ、それを読んで誰かが反応してくれる。ネットは、そのうち、べつに新しくもなく、特別なものでもなくなるだろうが、当面のあいだ、これを書くことが大きな価値になると確信する。
■それはそうと、『ニュータウン入口』への感想や意見、そして質問に応えると書いておきながら、それができなくなっている。メールをいただいた方、ほんとに申し訳ない。あの、なんといいますか、いろいろあせっているのだった。とにかく、DVDを観なければいけないのだ。

(9:12 Apr, 27 2007)

Apr. 25 wed. 「多くの人に助けられて」

■その後、戯曲についてさらに考えていた。いろいろ反省する。作品のバックボーンについて語りすぎた。語らなければそれはそれでよかったはずなのだ。ところで、「第一稿」の戯曲はこちらからダウンロードできます。あと、二日ばかり、やけにこのノートが長くなったので簡潔に。深夜。内野儀さんからメール。舞台についてとても丁寧にいろいろなアドヴァイスをしてくれた。それでまた考える。昼間はチョムスキーの本など読む。夜、家にいるのが息苦しくなったのでクルマで走ってファミレスかなにかでやはり本を読む。「第二稿のためのノート」を作っている。だが、仕事もしなくちゃならないのだな。いろいろDVDを見なくてはいけない。連載の原稿もある。「ノイズ文化論」のゲラも直さなければ。でも、つい舞台のことを考えてしまうわけさ。小説も書きたいし。
MAC POWERのT編集長からおそろしいようなメールが届いたのだった。これはおそろしいぞ。

AppleのSさんから「何とかします」と返事をもらいました。間違いなく大丈夫だろうと思います。是非、最新のMac Pro & 30inchモニター & Final Cut Studioで、「ニュータウン入口」の映像を制作してください。

 こりゃあすげえ。最新のMac Proのみならず、30inchのモニターが届いちゃうんだよ。Final Cut Studioも。これはこんどの舞台にからめてMACPOWERの取材のために用意してもらう。まあ、期間限定ってことになるが、それでもこの環境で作業できるのはすごい。当然、本チラシには協力として「Apple」の名前を入れさせてもらいます。
■内野さん、T編集長、そしてここにまだ書けないある大学の先生など、多くの方に助けられています。メールで感想をいただいたたくさんの人にも勇気と考える契機をいただきました。ありがとうございました。きょうは手短に。ただただ感謝だ。さらに作品タイトルを『ニュータウン入口』から、『ニュータウン入口 または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入をきめたか』にしようと思うのだ。

(8:33 Apr, 26 2007)

Apr. 24 tue. 「身体の変容の速度」

■今回の舞台の戯曲を書くのにひどく苦しんでいるとき、僕の舞台にもよく出ていた笠木からメールが届き、弟子としてなにかをしたいという、きわめて唐突なメールがあったのだった。いつから弟子になったのだ。でも、まあ好意をむげにするのもなんなので、「引用」の一部は笠木に起こしてもらったのである。とても助かったものの、「引用」はやっぱり自分で起こさなければだめだとあとで思った。それというのも、起こしてもらった引用部分の言葉が自分のからだとしっくりこないところがあるからだ。大変だけど、自分の手を使うことを怠けてはだめだな。でも、笠木には助けられた。メール自体にとても助けられた思いがする。
■その笠木が俳優として、本谷のところで舞台に出るという。それはよかった。このところの笠木の状況を、じつは裏でよく聞いていたので、ほんとによかったと思うのだ。笠木が僕の舞台のオーディションに来てからもう12年ぐらいだ。長いねどうも。ともあれよかった。ところで、よく舞台のほうでは、「呼んでもらう」という言葉が使われる。「呼ばれる」とはいったいなんだ。俳優が「呼ばれる」とするなら、なにか、「呼ぶほう」がえらいかのようだ。太一が、「ぜんぜん呼ばれないんですよ」というのだが、おまえはもっと自信を持てと言いたい。なにしろ、いまもっとも先鋭的な身体なのだ。きのうも書いたが、なんだろうなあ、チェルフィッチュの山縣太一と、松村翔子の二人が持っているあの魅力というものは。岡田君の作品は、舞台を観るより戯曲を先に読んで、これはすごいと思っていたが、チェルフィッチュを実際に観たのは、横浜のBank Art Studio NYKでの『目的地』のワークインプログレスだ。最初に松村さんがなにげなく舞台に姿を見せ、そのとき、客席でなにか音がした。それに松村さんは、え、といった表情で反応して音のする方向を見た。それがすごくよかった。それというのも、その一瞬の仕草に、「演劇的なるものへの疑い」が、意識的にではなくごく無意識に、それはそうするものだとばかりに、からだが自然に疑っているのを感じたからだ。
■かつて笠木も、僕の劇への疑いを見事に表現しており、とにかく、なにもするなという言葉に応じて、ただ舞台上に立っていた。それはほんとうになにもしないで、ただ立っていたので、なにもしない人にしか見えなかっただろう。なにもしない人たちをいかに舞台上にレイアウトするかと書けば、まるで俳優をモノのように見ているかのようだが、それがひとつの俳優の身体性の表現だと考えていたのだ。なにもしないほうがより強く俳優の身体性が出現すると考えていた。さらに「台詞」は、「意味を持った言葉」ではなく、「意味内容」をなくした「音」でいいと口うるさく言っていたので、笠木はただ、「音」を発していた。笠木が発する音がとても心地いいと僕には感じた。「なにもしないで音を発生するからだ」が、笠木のものになっていったのは、何年かその方法を試していたからだ。だが、演出家がそのことに飽きてしまったとき、俳優はどうしたらいいのか。もう稽古がはじまったという笠木は、本谷のところで苦労しているのではないだろうか。もちろん、いまでも僕は、「台詞」は「音」でいいと思っている。どんな「台詞」を書こうと、「劇言語」は舞台上にあらわれたとき、結局のところ、身体器官が発する「音」になると思う。どんな「音」であるかが問題だが、それを原理主義的に考えず、いまは「言葉」との連関のなかで生まれる、「心地よさ」というひどく曖昧な、いわば「趣味判断」を重視している。
■あ、でも、あれか、こういうのもいまではあたりまえの話だな。「テキスト中心主義」というのは、「テキスト」が中心にあった時代にそれに抗う側が言葉にしたと思うが、アルトーを読めばそのことがすでに言い古された概念なのはよくわかる。とはいえ、では、それ自体が新鮮味を失ったからといって「反動」になっていいかといったらそういうわけではない。「戯曲」や「テキスト」から「パフォーマンス」へというのを、まずは、前提にする。そこに意識的であるかどうかが、どうしたって現在性だ。じゃあ、戯曲の賞ってものはなにってことになるかもしれないけれど、それに意識的かどうかは、戯曲を読めばわかるわけだ。テキストに反映するのだ。だから、読む側も油断してはいられないのだ。テキストになにが含まれているかをより深く、より強く読み解く力が試される。選考委員なんかをやっていると、ほんとうに試されるな。あれはもう、選考しているというより、こちらが試されている思いだ。

■閑話休題。そういった意味で(というのはつまり、話を元に戻して、「音としての声」についてだが)、南アフリカのヤエル・ファーバーが演出した、『モローラ ーー 灰』の、あの「ンゴコ女性文化合唱団」の歌が発する「音」はものすごくよかった。ああ、そうですかと言われるのを覚悟で書くなら、僕は「声」がとても好きだ。「声」だなあ。しかも、「いい声」なんて絶対的なものはこの世になく、さまざまな「いい声」が世界中にあるのを、「ンゴコ女性文化合唱団」は教えてくれた。あ、そうか、俺、そういうレクチャーをよくやってたんだ。いろんな「声」を集めたんだよな。それはそれでとても面白い作業だった。
■ふと思ったのは、私が「ニュータウン入口」という言葉を知ったのは、当然、家からもっとも近かった(といってもクルマで二時間ぐらいかかるが)、という理由で「多摩ニュータウン」の「入口」だったわけだが、ことによったらほかにもあるんじゃないかという疑問である。あったね。ものすごくあった。日本全国に「ニュータウン入口」があったのだ。疑問に思って、「ニュータウン入口」をキーワードに「Google」で調べたところ、十八万三千件がヒットした。出てきたなあ。それは次のような「ニュータウン入口」たちである。

「いわきニュータウン入口」「千代ニュータウン入り口バス停徒歩約2分」「利根ニュータウン入口」「朝日ヶ丘ニュータウン入口」「青空ヶ丘ニュータウン入り口」「日豊ニュータウン入口」「御所ニュータウン入口」「酒直ニュータウン入口」「白金台ニュータウン入口」「成田ニュータウン入口」」「椿峰ニュータウン入口」「 西武ぶしニュータウン入口」「手代森ニュータウン入口」……。

 と、あげていったらきりがない。つまり日本全国に無数の「ニュータウン入口」があるのである。なぜそのことにいまのいままで気がつかなかったのか。たしかに、漠然とではあるが「ニュータウン」は数多く存在し、その数だけ「入口」はあるだろうと思っていたものの、それを検索しようと思いつかなかった。というか、「ニュータウン入口」というのが自分の芝居のタイトルで、自分にまつわることを検索するのが、なんだか恥ずかしい気持ちになるじゃないですか。って、同意を求めても、あれだけど。たとえば、自分の名前を検索するとかね。自分の著作について検索するとかさあ。おかしいと思うのだ。
 だが、「ニュータウン入口」はもとをただせば、一般名詞である。自分の作品名だと考えるのもおこがましかった。ともあれ、全国に「ニュータウン入口」は数多く存在する。で、その数だけ「ニュータウン入口」の様態があるにちがいない。それは多様だ。その「多様さ」を書かなければと思うのだった。

■あ、そうだ、『ニュータウン入口』に出ている時田からメールがあり、きのう書いた、「テーマをわからせないよう、そこから離れよう離れようとする書き方」からすれば、冒頭の時田の台詞「ここが約束の地だ」が、かなりわかりやすい台詞ではないかと質問があった。質問があったんだ。時田からの質問だ。杉浦さんから、「質問する男はだめだよ」とまで言われた時田からの質問である(どうやら杉浦さんの考えでは「質問する男」はもてないらしい。その問題に関してわたしはなんともコメントができない)
■それに関して言うならば、打ち上げのときの私の態度を見ていなかったのかと言いたい。私がほとんどのことを冗談にしているというのが伝わらないのかと。まあ、ときとして、かなりまじめに書くというか、シリアスになる。ただ、いきなり、「ここが約束の地だ」と言葉にしてしまう人はおそらく「ばかもの」だと思う。たしかに、「約束の地」って言葉が、あれだから、やはり変えようかと思うものの、演じる「からだ」は、「ばか」になっているはずだ。あの打ち上げの時の私の態度というか、「身体性」である。杉浦さんが、誰かにダメを出すそばから、そのことをすぐに冗談にしてしまう態度である。ダメを出された鄭から私は、何度も電話をもらったことになっている。しかも、家で飼っている馬の出産のときに鄭から電話があって、この忙しいときに電話してくるとはなにごとかと、怒ったことになっている。それを話している私のからだは、ばかになっているのだ。その「からだ」を、ひょいと、また変容させる。と、いきなり演劇論も語る。また変容させて、政治についても語る。その変容の速度だ。それは運動神経だ。「身体の変容の速度」という運動能力だ。
■で、じつは、この「身体の変容の速度」についてきょう一日、考えていたのだった。その運動能力はもともとの素養や、子どものころにいかに運動をしていたかに関わる気がするが、演劇は「文学」の領域にあるので、演劇をやる人はあまりこの能力に長けていない場合が多い。それを人工的に作り出そうとして、さまざまな身体トレーニングがあるのではないだろうか。チェルフィッチュの岡田君の方法もきっとそうだと感じるが、そもそも、スタニスラフスキーだって、そうだったにちがいない。野田秀樹さんにはもともとそれがあったとおぼしいし、太一もサッカーをやってたくらいだから運動能力に長けていただろう。これを人工的に作り出すトレーニングはむつかしそうだ。そこに「からだの困難」がある。「身体の変容の速度」は、百メートルを少なくとも11秒台で走るべきだ。それができないのなら、百メートルを三日かけて走ればいい。
■雨の火曜日。本を読んでいた。「群像」に書いたエッセイのゲラが届いたのでチェックして戻す。たくさんいただいたメールから、『ニュータウン入口』第二稿のためのノートを作る。そしてまたこのノートが長くなった。

(9:35 Apr, 25 2007)

Apr. 23 mon. 「それから」

■リーディング公演の打ち上げは新宿だ。一度、12時ぐらいに解散したが、俳優たちはもう帰れないというので二次会へ。そこで私は午前〇時半から朝の四時半までの、約四時間、果てしなくしゃべり続けた。どうかと思うほどしゃべり続けた。ほとんどがくだらない話である。ずっとでたらめな話をし続けた。みんなが笑ってくれれば、それだけでまったく疲れないのはなぜなのか。このくだらなさと、でたらめにかける情熱はなにごとなのか。で、そのとき思ったんだけど、今回もまた、いい俳優たちに恵まれた気がする。いいな、みんな。稽古中、「妹よ」という言葉で立ち上がってせりふを発するべきところを、いきなり、「弟よ」と言ってしまった佐藤もよかった。それ、もし本番だったら、どうつじつまをあわせるつもりだったのだ。突拍子もない声の鄭もよかった。やけに高い声の二反田もよかった。猫背の三科、すごくまじめな時田、やけにおしゃれな鎮西、関西弁が抜けない橋本、ふだんは声の小さい齊藤、若い俳優たちに容赦なく意見をしてくれて演出家としてはとても助かる杉浦さん。そして、上村、南波、田中。たしかに常識のない山縣太一。みんないい感じだ。
■で、午前五時ぐらいに帰宅。メールチェックをするとたくさんの感想をいただいたのを知ったのである。(きのうのこのノートの)繰り返しになりますがありがとうございました。それからしばらく眠れず、舞台のことを考えていた。資料を少し読む。で、ようやく眠って、また短時間で目が覚めこのノートを書いていた。さらにまた眠る。午後、ある方に会って打ち合わせ。わざわざ初台まで来ていただいた。来年の話。その件について詳しくはいずれ。その後、同席してくれた制作の永井が家に来たので、いろいろ仕事の件について話をする。今後のこと。またスケジュールを見るとあわただしい。かながわ戯曲賞のリーディング公演の演出がある。北海道でワークショップをやる。夏には、島根県の松江で高校演劇コンクールの審査員をやる。そして、『ニュータウン入口』。十一月にはアメリカに行くことになりそうだ。夏には、『ニュータウン入口』のラストシーンに流れる映画を撮影するであろう。「鳩男」を演じた二反田は池で泳ぐ羽目になると思う。その池を探している。いい池がないだろうか。いま必要なのは、「いい池」だ。で、MAC POWERのT編集長から、その映画の編集をするのならアップルにかけあって、Mac Proを提供してもらいましょうと、まことにありがたい進言をされたのだ。Mac Proはおそらくレンダリングもものすごく速いにちがいない。単純にうれしい。うちに、Mac Proが来るのである。って、まだ予定に過ぎないが。
■打ち合わせのあと、夜、「群像」の原稿を書きあげる。そこで力つきた。たくさんいただいた『ニュータウン入口』に関する感想や意見のメールから、今後に生かすべき点を抽出してノートを作る。第二稿のための準備である。で、出演していた杉浦さんからのメールには次のようなことが書かれていた。

 ご存じかも知れませんが、昨日来た岸建太朗君の妹はイスラエル人と結婚していてテルアビブ在住。車で10分くらいのところでテロもあったらしいです。すごい爆撃音だったとか。で、義弟の妹(18才)は大学に行く前に軍隊に入り任務は爆弾処理。イスラエルは女性にも徴兵制度あり。で、彼のまわりには政策に嫌気しているイスラエル人のバックパッカーも多いとのこと。今、妹さんは東京に里帰り中だそうです。話せたらなぁと思ってます。

 ここには歴史的視点が少し欠けている思いもあるが、それはともかく、岸というのは、僕の舞台、『トーキョー/不在/ハムレット』にも出演した俳優だ。いまは主に映画を作ったり、映像の仕事をしている。一週間で携帯電話を三個ぐらいなくすというすごい男でもある。そうだ、忘れていた。岸をすぐにでもパレスチナに行かせよう、しかも、自費で。それで映像素材を撮影させよう。問題は、どうやってその気にさせるかだ。岸は、話しているうちにその気になるような感じがする。たとえば、「いいよなあ、岸はさあ、そういう国際的なつながりがあってさあ、ほんとうらやましいよ。そういう岸は、おそらくイスラエルとか親しみがあるだろうし、わりと行っても楽しめて、パレスチナとか、ガザ地区とか、そういったところにも、その軽いフットワークと映像への情熱で、カメラ片手に行ってしまうのだろうなあ。しかも岸はさあ、いい映像、撮ってくるんだろうなあ。ほんと、いいよなあ、岸はさあ」と、それとなく話すのである。行くね、あいつは。すぐに出かけると思う。そういう男だ。俺は岸を信じる。去年、横浜の赤レンガ倉庫で公演した『モーターサイクル・ドン・キホーテ』のときもいい映像を撮ってくれたのだ。
 それと、「イスラエル」という土地、あるいはその国に住む人たちと、「イスラエル国家」「イスラエル政府」は厳密にわけて考えるべきだろう。あるいは、「シオニスト」とを。だが、イスラエルとパレスチナのあいだのこれまでの紛争の歴史は確実にある。そこでイスラエル政府がなにをしたか。どのように動いたか。その背景にある諸外国の思惑の歴史。ただ、それを知っておきつつ、しかし「政治的な意味」の重さからどう逃れるか。その逃れた先に、「現実」が浮かびあがればいいはずだ。それは演劇的な美しさをどう取り戻すか、物語の愉楽をどのように擁護するか、イメージをどのように舞台作品として表出するか、そうした作業の積み重ねだ。その経過のなかで、その結果、いくつも出現するだろう解釈のひとつに、ある意味における「政治」があればいい。

■それにしても、南波さんが後半に語る独白の評判がすごくよかった。稽古中、杉浦さんがついそれに聞き入ってしまい、出とちりしたことがあった。谷山さんもいいとメールに書いてくれたし、友部さんは、「詩の朗読を聞いているようだった」という意味のことを話していた。さらに数人の方のメールにあった。ああした言葉を語るときの南波さんにはある「特別な身体」が出現するのではないかと思ったのだ。それというのも、元早稲田小劇場の杉浦さんと話をしているとき出てきたのが白石加代子さんの話で、そこにある「白石加代子」というある特別なからだについてだったからだ。杉浦さんが早稲小の内部で評価されたのは白石さんをコピーするのがいちばんうまかったからだと杉浦さん自身が話していた。それはそれとして意味のあることだろう。だが、「特別な身体」はその時代ごとに、時代を背景に出現する。
■「特権的肉体論」を書いた唐十郎は、唐さん自身が、やはり特権的な、つまり「特別な身体」だったのだろうし、麿赤児もしかり。つかこうへいさんのことを考えると、おそらく、つかさんがそもそも、「特別な身体」であり、若い俳優たち(三浦洋一、風間杜夫、平田満)がそれをコピーしていたとおぼしい。野田秀樹がいる。松尾スズキがいる。そしていま、そうした「特別な身体」の系譜として、どうしてもあげておかなければならないのが、山縣太一だ。今後、太一のコピーはきっと出てくる(というか、もうすでにいるわけだけれど)。太一は現在的だ。いまある、きわめてまれな、「特別な身体」だ(あとチェルフィッチュに出ている松村翔子さんも、きわめて現在的だ)
■ただ南波さんの独白におけるあの身体は、それらとは少し異なる気がしてならない。それはあの独白のような、ある瞬間に出現する。それがなにかよくわからない。ただ、湘南台市民シアターで太田省吾さんの『千年の夏』を原作に、市民とともに舞台を作ったとき(そこで僕ははじめて南波さんと舞台を一緒に作ったのだが)、子ども役の南波さんが、けんぱをしながらかなり広い舞台を動く姿を見て、あの太田さんが、「あれはきれいだった」と言ったのだ。僕はなにも演出していない。そしてその意味がわからなかった。むしろ、その「美しさ」とはなにかをあれからずっと考えていた。太田さんの仕事を、京都の大学で見たり、その姿を見ることで学んで、その言葉の意味をずっと考えていた。そして正直なところ、みんながいいと言ってくれた南波さんの独白の、なにが魅力的だったかをあらためて考えざるをえないのだ。それがうまくつかめない。言葉だけではないと思う。やはり、その瞬間の、ある「特別な身体」だ。

■『ニュータウン入口』はまだはじまったばかりだ。その作業はすでに、「オーディション」からはじまっていた。今回はリーディングの終演後、ポストートークをやっていろいろな意見を聞くことができた。この意味は大きい。繰り返しますがたくさんのメールもありがとうございました。あ、そうか、質問にも応えなくちゃな。少し待ってください。少しずつ応えてゆきますので。さて、次のことをしよう。

(5:22 Apr, 24 2007)

Apr. 22 sun. 「ありがとうございました」

■無事に「リーディング公演」が終わった。
■劇場に足を運んでいただき、なおかつ、ポストトークのとき、いま質問できなくてもメールで感想、質問など送ってくださいと話したところ、とても多くのメールをもらった。ありがとうございました。いろいろな意見がとても参考になります。で、まあ、ポストトークの日によって、物語の背景をかなり語ってしまった日と、そうでない日のばらつきがあるので、少しずつ受け止め方にちがいがある。ただ、どの感想もとても読み応えがあってありがたかった。
■で、直接、ポストトークで出たなかで、それに気がつかなかったと気づかされたのは、僕の『演劇は道具だ』の編集をしてくれた打越さんからの質問というか、意見だ。打越さんの質問は、「ダンス普及会」が、「管理」とか、「管理された社会」といったものを象徴した存在で、それがステレオタイプではないかという意味だったと思う。それは考えていなかった。というか、そんなふうに考えて書いていなかったので、そう読む人がいることに気づかされたのだ。多くの人が「まったくわからない」と感想を語るなか、打越さんはかなり読みが深いので、そこをそう読む。つまり、そう読む傾向の人がいることがこれでわかったのである。ここをなんとか回避しなくてはならない。ぜったいそう読ませてはいけない。もっと異なる「ダンス普及会」の描き方が必要だ。
■また、早稲田の学生で、僕の授業にも出ていたIからの感想のメールには、「私の妹はヘブライ大学で中東政治・文化を学んでいました。ヘブライ語・アラビア語もそれなりにできます」とあった。そのような人がわりと近くにいるとは驚きだ。これは会っておかなければだめだろう。なにしろヘブライ大学はエルサレムにあるのだ。というか、打越さんからもたらされた「問題点」の回避において、そっちの側からの話を、って、つまり、(もうこうなったら書いてしまうが)イスラエル側からの話も聞いておくべきだ。僕の視点はどうも傾向としてパレスチナ側だけになってしまう。もちろん、ヨルダン川西岸に軸足を置いているが、もっと複雑さ、多様さを、あの土地について書かなければだめだと思った。だけど、スピルバーグの『ミュンヘン』にはしないよ。っていうか、ぜったいにならないけどさ。
■ほかにも、たくさんのメールでの感想に喚起され、また教えられたな。日本に住むイスラエル人の結婚式に出た方もいた。そこではほんとうにあたりまえのようにマイムマイムを踊ったらしい。あときのう書いた谷山さんからは、あれからメールを五通いただく。その熱心さに頭が下がります。とてもうれしかった。ありがとうございました。劇場には、また多くの人が来てくれた。友部正人さん夫妻も。早稲田の学生たち。青土社のHさん、Yさん、白水社のW君は二度観てくれた。ありがたい。そしてできるだけ、メールの質問にはこの場を借りて返事をしたいと思う。きょうは少し疲れているので後日。あと、楽日の話とか、打ち上げでいかに私はしゃべり続けたかとか、リーディングをやって考えたこと、反省点など、さらに書こうと思ったが、ちょっと疲れているので、それもまた、後日。『群像』から頼まれたエッセイの原稿を忘れていた。もう締め切りだ。
■と、ここまで書いて思ったのだが、打越さんの感想のようなものが出てくるというのは、たとえば内野儀さんによる、「テーマをわからせないよう、そこから離れよう離れようとする書き方」という感想から言えば、打越さんのように読まれることもまた、正しいような気もしてくる。わからないな。

(10:18 Apr, 23 2007)

Apr. 21 sat. 「たくさんの方からの意見」

二日目の『ニュータウン入口』点景

■昼と夜、二回公演の日であった。当然、劇場入りの時間が早いが、このところ深夜に眠ると必ず朝の六時ぐらいに目が覚める。このノートを書き、少し本を読み、あらためて眠る。それから二度目に起きるときが死にそうにつらい。眠い。眠さをこらえてクルマで森下へ。少し遅刻。
■あまりダメは出さなかった。いくつか気になった点を修正する以外はあまり細かいことは言わない。たいてい僕はそうなので、最近の公演では、初日があけるとほとんどダメは出さなくなる。また何人かの知人が来てくれた。そういえば、きのう音楽評論家の佐々木敦さんが来てくれたのだった。終演後、お会いできなかったが少しでも話を聞けばよかった。いまは「週刊SPA!」の編集者をやっていてむかし僕の舞台『知覚の庭』にも役者として出た山崎が来た。それからWAVE出版のTさん、白水社のW君も来てくれた。早稲田で教えていたときの学生の顔もあった。で、今回はポストトークを各舞台ごとにやっているが、そのたびに、俳優を二人づつくらいゲストとして呼ぶ。みんなあまりしゃべらないが、でも少しでも話ができるのはいい機会だ。というのも、飲みにゆくといった機会が僕にはないからで、今回、はじめて舞台を一緒にする俳優たちと作業をはじめてまだ二週間ぐらいなわけだし、そういった意味では正直なところみんなのことがよくわからないのだった。みんな、どんな思いで舞台をやっているのだろう。
■ポストトークで、きょうも質問がさまざまにあり、とてもうれしかった。なぜか昼の回では、何度か流れるPoguesの曲について質問する人が二人いた。アイルランドのバンドだが、そのことと今回の舞台に通じるものを感じてくれた観客がいたのにとても感謝した。いいお客さんだなあ。それから白水社のW君からとてもいいアドヴァイスを何点かもらった。家に戻ったあと忘れないようにノートにつけたのだ。いろいろな人からの意見や疑問点を聞いて、次にどう変更するか、おぼろげながら第二稿の姿が見えてきた。やっぱりポストトークをやったことは成功した。というのも、こちらが意見を求めているという姿勢がはっきりするからだ。敏感に反応してもらえる。それが次にどう変化するか、意見してくれた方たちも期待してもらえるのではないだろうか。で、夜の回のポストトークには佐藤と二反田が出たんだけど、二人になぜ今回の舞台のオーディションを受けようと思ったか質問したのだった。すると佐藤が、僕のことなどほとんど知らず、友だちに教えられて受けたという意味のことを話した。で、考えてみると、そういう話はたいてい一緒に受けに来たなにも知らない人がオーディションに受かる、というか、人に教えたその「友人」はたいてい落ちるのである。で、ポストトークも終わってロビーで早稲田を卒業したモリモトに会ったが、そこではじめて、今回の舞台に出ている鎮西とモリモトが友だちだと知った。で、その鎮西もモリモトに教えられてオーディションを受けたという。モリモトは落ちた。鎮西は受かった。そういうものなのだな。
■森下スタジオを出てはじめて俳優たちと立ち飲み屋に行った。串揚げとか、煮込みが美味しかった。ふつうの居酒屋なんかよりずっと美味しくて、しかも安い。俳優たちとようやくこうやって話しをする余裕ができたのだ。

■家に戻ると、古書店と、アマゾンから大量の資料となる本が届いていた。どれから読もうかうきうきする。さらに白水社のW君から推薦されたのが、ミシェル・ウエルベックの小説なのだが、これはもう以前から読もうと思っていたが戯曲を書くのと稽古で読めずに机の上に何冊かある。『ニュータウン入口』にもヒントになるといったことをW君は話していた。
■そして、メールをチェックすると谷山さんという方から何通か舞台の感想をいただいたのである。谷山さんの名前を見たとき、むかし、それは僕が高校生のころだったと思うがよく深夜のラジオで流れて来た音楽を歌っていた人と同姓同名なのが少し気になり、で、本文を読んだら、「歌を作って歌う仕事をしてます。宮沢さんと同じ1956年生まれです」とあって、それあきらかに本人でしょう。谷山浩子さんだ。そしてメールに感想をしっかり書いてくれてとてもうれしかった。いろいろな方に観てもらえるのだなあ。ただただ感謝するのみ。しかも谷山さんは、ぜんぶで三回観てくれるという。ほんとうにありがたい。きのうは鎮西の友だちの友だちということで、一青窈さんもいらしていたという(いま、「ひととよう」と入力したら、すぐに「一青窈」と変換されて出てきたよ)。いろいろな方に観てもらえとても感謝した。さあ、「リーディング公演」もあと一日。あと二回の公演。人から意見をもらうたびにモチベーションが高まる気がする。これまでにはなかった経験だ。それが不思議にも感じているのだ。

(7:47 Apr, 22 2007)

Apr. 20 fri. 「リーディング公演初日」

■無事に初日があけました。もちろん三日間の公演期間ですから、初日があけたら、すぐに楽日ってことになってしまいますが、それでもやっぱり初日には特有の、ある種の緊張感や、新作を披露するという期待があって、朝からいつもとはちがう気持ちでいたのだった。で、なぜか午前五時ぐらいに目が覚めてしまった。遠足の前の日の子供のような気分だ。それからもう一度仮眠を取って準備万端で挑もうと思っていたが、それから眠ろうとしてもどうしても眠れない。睡眠時間三時間ほどで森下スタジオに入った。
■俳優たちはすでに準備して待っていてくれた。少し抜き稽古。きのうやり残した後半をあらためて整理する。音響のテスト。演出助手で、急遽、音響のオペレータをやることになったO君の稽古など。少し不安であった。それから最後のゲネ。ゲネの途中、ここはこうしたほうがいいだろうと思う箇所があって台本に書かれているのとは異なる方法を試す。あ、こっちのほうがずっといい。もっと細かく稽古するべきところはあったかもしれない。ただ、若い女優たちが最初、うまくゆかなかったのでそこばかり返していた。それがだいぶ整理できると、こんどはほかの俳優たちの部分がもっとよくなると思える。長い台詞を一人で読む部分がまだ深められていない印象。もっと深い「読み」になったのではないか。
■こうして本番は午後七時から。きょうは観客が少ないと制作の永井に言われていたけれど、まあ、八分ほど客席は埋まっていただろうか。ほんとうにありがとうございました。あまり内容については書けないのです。観ていただき、それぞれに想像していただければと思います。むつかしく考えないでください。俳優たちは少しせりふをかんだりしつつも稽古通りにできていた。ただ、杉浦さんが本番になってほんの少し力が入っていたかな。観客が入れば変わるのもしかたがない。なにしろ、「ダンス」とか「ヨーロッパ」というカタカナが、「ダーンス」とか、「イォーロォッパ」といった妙な言葉になっていた。ちょっとおかしくて笑いそうになったが。

en-taxiのTさん、MAC POWERのT編集長、白夜書房のE君、岩崎書店のHさん、筑摩書房のIさん、そして、内野儀さん、チェルフィッチュの岡田君、ニブロールの矢内原さん、ぼくの舞台によく出ていた小浜らいろいろな方が足を運んでくれた。ポストトークでは、矢内原さんから「なぜ○○○○ダンスなんですか?」という質問。それ応えるとこの舞台のからくりが全部わかってしまうのだった。話してしまった。岡田君からは劇言語について。これは質問されてあらためて、僕も考えることになった。ポストトークでは期待以上にいろいろ質問が出てとてもうれしかった。終演後、内野さんからも少し意見を聞く。勇気づけられる。もっとほんとは書きたいことがあるし、俳優たちについて、書いておきたいことがあるものの、いや、みんなきちんとやってもらえてうれしかった。ただ、太一が、稽古のときのような爆発力がなくなっているのが心配だ。もっとでたらめさが見たい。
■時間がないので、またゆっくり書きます。ともあれ、無事に初日を迎えられたこと、いろいろな方が観に来てくださったことに感謝しました。ありがとうございました。それから、劇場では質問することができなかった方、意見のおありの方、メールでもけっこうですので送ってください。お願いします。

(7:31 Apr, 21 2007)

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