富士日記2PAPERS

Jul. 2007 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

Jul. 27 fri. 「思うことをだらだらと書く」

■えーと、このノートは一度、朝アップしたのだが、寝ぼけていたらしいので少し書き直しておこう。なにしろ、眠る前に豆をひいてコーヒーを入れたらしいがまったく記憶になかったのだ。それでこのノートを書いた。でたらめになっていなくてほんとによかった。
■撮影でニュータウンに行って少しからだが疲れたせいか、もうひとつ、集中して戯曲に取りかかれない。理由はそれだけではないな。この作品(もちろん『ニュータウン入口』)について考えはじめると、もっと資料にあたっておくべきことがあるんじゃないかと思えそれで筆がぴたりと止まる。だが、締め切りはもうすぐそこだ。というか稽古が始まってしまう。いくら資料にあたったところで書けることには限界がある。付け焼き刃じゃなんにもならない。うつうつと、戯曲が書けず、うずくまっているような日々だ。さらに舞台で使う映像のことを考えていたらもっと早く準備し、最後に流す映画『ニュータウン入口』ラストシーンのアイデアを煮詰めておくべきだった。いまごろになって反省している。
■うーん、このあいだ多摩ニュータウンで撮影したあと少し疲れてぐったりしたのはたしかだが、疲れている場合じゃなかった。当初、予定していたようにまだ撮影日を延長して素材をもっと多く撮るべきだった。なんか疲れたあとに満足してしまったところがあり、「満足」は敵だ。なにごとも満足してはいけない。まだあるはずだと粘るべきだ。でも、戯曲がなあ。あと映画ラストシーン部分で、これはというアイデアが浮かんでいない。ある程度の形はあるがもっとあるはずなのだ。

■このあいだのこのノートにたまった原稿を「単行本にしたいなあ」と書いたら五社くらいの編集者の方からメールをいただいた。ありがたい限りである。いちばん最初にメールをもらった方に優先順位をあげたい気持ちにもなるが、驚いたことに、あのノートをアップした直後にメールをもらって、その素早さにひどく驚かされた。ほんとに感謝するしかない。戯曲が書けぬまま、ぼんやりしつつも、YouTubeを観ていたら「言葉にできないシリーズ」というのがあるのに気がついたんだけど、その大半はかつての『VOW』のまた異なる表現方法だ。つまり静止画像(写真)を小田和正の歌をバックにスライドショー的に編集されたもの。中味はまさに「VOW」なので新鮮みはあまりない。形式は、明治安田生命のかつてのCMの、そのカリカチュア(ここで「パロディ」という言葉を使うのは適切ではない。まあ、「パロディ」にしろ「カリカチュア」にしろ、もう新鮮味のない凡庸な笑いの形式だが)
■夕方、気晴らしのために、笠木の友人Y君がプロデュースしている「クラシック音楽」のミニライブのようなものに行った。なにが「ミニ」かっていうと、新宿通り沿い、新宿御苑の近くにあるフレッシュネスバーガーでのライブだからだ。カンパ制。ただ、道行く人がふらっとよって音楽を聴く感じがとてもよかった。小一時間音楽を聴いて少しなごむ。また家に戻り原稿を書こうと苦しんでいたが、逃避のせいかすぐに眠くなる。
■だめだなあと思いつつ、焦燥感ばかりがつのる。

(8:41 Jul, 28 2007)

Jul. 24 tue. 「夏だった」

八王子の池

■舞台で使う映像の撮影と、これからさらに撮影する場所のロケハンをする。朝七時に初台の僕の家に集合したのは、制作の永井と、カメラの岸、今野、さらに、水泳要員として駆り出された演出助手の白井である。眠い。五時間は眠ったものの、それでも眠い。今野にいたっては二時間ぐらいしか眠っていないという。岸は元気だった。とにかく、ニュータウンの実景を撮影するのが目的のひとつだが、多摩ニュータウンはばか広いのである。まずは、駅の風景を撮ろうということになって、南大沢に向かったが道に迷った。ナビをしてくれるはずの、永井と白井がまったく地図が読めないということがすぐに判明した。永井にいたっては、地図を見て、道路と鉄道の区別がつかないということがわかったのだが、そこからかと、そんな基本的なことからだめなのかいと、よく女性は地図が読めないという話があるが、道路と鉄道の区別はもっと基本的な地図の約束事で、「地図が読めない」のレベルじゃないのではないか。
■まあ、私は一日中、運転していたのでさすがに疲れたが、でも、少しはニュータウンの地理に詳しくなってきた。ここをこう走るとこのあたりに出るのじゃないかといったことを一日走ってだいたい把握してきた。次の撮影のときはおそらく大丈夫だろう。もう少し事前に地図を頭にたたきこんでおこうと思う。だが、ニュータウンは刻々と変化している。少しふるい地図だとまったくちがっていたりする。たとえば、「はるひ野」という駅が小田急線にあるが、うちにあった地図にはのってなかったし、そもそも、「はるひ野」という地区が最近造成された土地らしく地図にないのだ。以前、神奈川にある高校の方にこのあたりを案内してもらったが(2月15日付けの日記参照)、そのときはまだほとんど宅地しかなかったと記憶するのに、もう家が建っている。
■それにしても、夏だった。撮影とロケハンに予定していた日になって突然、東京地方はとんでもない好天に恵まれ、これはなにかの前兆ではなかろうか。ところで、上の写真は、『ニュータウン入口』で使う映像のなかで、二反田が泳ぐ予定の池の候補のひとつである。あらかじめ地図上でめぼしを付けてあり、いくつか池を探しているとき、探し当てた池。八王子にある。まあ、南大沢も八王子だが、ここは国道16号線よりさらに西に行く。この場所に行くのに近くでクルマを置いて歩いた。炎天下のなか死にものぐるいだった。あたりはいま宅地造成をしている地区で、泥だらけの土地をかなり歩いた。その先に森がある。森のなかにぽっかり池があるが、ここで泳いだら確実に死ぬと思った。それでさらにべつの池を探した。

八王子の池

■写真は、南大沢駅で鳩を撮影している岸である。不審きわまりない状態だった。岸と言えば、すぐに携帯電話をなくすことで有名だが、この日も、撮影中、「携帯がない」と騒ぎ出した。今野が電話したら近くの草むらで鳴っていた。なぜそんなところで鳴っているかよく理解できない。その岸が、夕陽待ちをしたいというので、かなりニュータウンを走ったあげく、ファミレスで時間をつぶし、午後5時を少し過ぎてからさらにニュータウンを走る。ところで、僕はまだ、『ニュータウン入口』の戯曲の書き直しが終わっていないので、全体のことまで頭がまわらず、もっとこういう風景を撮ってくれという指示が出せず、とにかく、ニュータウンを映像におさめるに終わったが、もっと考えることがあったかと反省する。
■戯曲がなかなか書けないんだ。原稿の締め切りはあるし、あと、イレギュラーの原稿の依頼がこのところやけに多い。こういったイレギュラーの原稿だけでもまとめるとけっこうな量になるんじゃないだろうか。単行本にしたいな。そういえば、ある出版社の方からも連載の依頼があって、「爆笑エッセイを」という注文なんだけど、そんなに爆笑エッセイが書けるとは思えないっていうか、大量生産していると、質がどうしたって落ちるから期待にそえられるか自信がない。いろいろなところに行って講演する仕事も数多くいただく。
■そういえば、返事を書かなくてはと思っているのは、知人のお子さんで、いま中学三年生の女の子からのメールだ。質問がむつかしいんだよ。応えにこまっている。その子は、いま『ノイズ文化論』を読んでいるという。あれを読んでくれる中学三年生がいるかと思うととてもうれしい。とにかく、いろいろありつつも、きょうは疲れた。家に戻ったのは、夕方の6時半ぐらいだっただろうか。運転をずっとしていた。くたくたである。目が疲れた。あと日に焼けた。僕の場合、焼けるとすぐに黒くなるから、いい感じで日焼けしてしまった人になってしまうので、海にでも遊びに行ったと思われやしないだろうか。このあと、さららに引き続き撮影も控えているし、舞台美術の打ち合わせもある。戯曲を書き直さなくちゃならない。小説を書く時間がない。だから、いろいろ考えるに、「爆笑エッセイ」はそれはそれとして大事な仕事なんだけど、それより小説を書く仕事を優先したほうがいいんじゃないかと思いもする。

ニュータウン遠景

■あ、そうそう、井土紀州監督の『ラザロ』の上映でトークイヴェントをやったのは先週。久しぶりに井土さんたちと話ができて楽しかった。それから熊本の演出家・劇作家のK君と会ったのは、今週の月曜日だ(きのう23日)。地域創造と西巣鴨創造舎によって進められているプロジェクトで、地方の劇作家が東京でオリジナル作品のリーディング公演をし、僕はそのアドヴァイザー的な役割をする。忙しくて余裕がないが、なにしろ、彼が用意してくれていた過去の戯曲を、この日の打ち合わせまでにぜんぜん読んでなかったよ、というか、受け取っていたのも忘れていたのだ。申し訳ないことをした。
■あと、僕の『ヒネミ』を英訳してくれいまはアメリカの大学で教鞭に立ってらっしゃるジョン・スウェインさんが来日していたのも先週で、その大学で『ヒネミ』を上演してくれるという。学生の発表公演なのかと思っていたが、公演日数が意外に長いので、しっかりと上演してくれるようだ。公演のとき、予算が工面できたら呼んでくれるとジョンさんがおっしゃっていた。それはぜひとも行きたいし、なんとなれば自費でも行きたいくらいだ。先週は、まあ北海道に行ったり、戯曲を直したりと、いろいろあったが、時間が過ぎるのは早い。もうすぐ稽古だ。稽古が始まる前に、美術打ち合わせや、映像のことなど、やっておくことはまだある。あ、そういえば、岸は八月一日からイスラエルに行くとのこと。むこうでも映像を撮ってきてくれるという。少しずつ舞台に向かって進行している。
■今週の末は松江に行くのではなかっただろうか。でも、ようやく夏らしくなって、調子があがってきた。七月は一年でいちばん好きな季節だったが、ぜんぜん、夏らしくなくてがっかりしていたのだ。きょうは汗をかいた。気持ちがいいくらい汗をかいた。夏だな。これでこその夏である。

(14:26 Jul, 25 2007)

Jul. 22 sun. Always look on the bright side of life

■北海道に行っていたのだった。「演出ゼミ」というレクチャーである。疲れたので、詳しくはまた書こうと思うけれど、東京に戻って、この湿気というやつのちがいは、以前からよく聞く話だったが、ほんとに実感した。札幌ではきょうは少し蒸すと北海道財団の方が話していたが、東京に帰ったら、そんなのはなんということもないというか、むしろ、とても過ごしやすいではないか。そりゃあレクチャーが終わり、受講者たちと懇親会もしたあと、北海道のホテルのテレビでサッカーを見てしまったさ。すごい試合だった。高原と川口ががんばった。静岡県人だってやるときはやるんだ。で、YouTubeにはすぐにその映像がアップされていたのでサッカー関連のものをいくつか観たが、この映像に少しなごんだ。それにしても疲れた。腰が熱をもっている。危険な状態だ。帰り、羽田に着いたときはぐったりしていた。家について少し眠りそれからこれを書いている。この一週間のことなど、もっといろいろ書きたいが、きょうはここまで。レクチャーでは、太田省吾さんの作品をビデオで観、それから話をしたが、話ながらあらためて発見したこともあった。レクチャーはともかく移動で疲れた。北海道はいいところだ。次は松江。

(7:25 Jul, 23 2007)

Jul. 16 mon. 「それから三日が過ぎて」

太田省吾演出『水の駅』(『水の希望』弓立社より)

■17日(火)は、ポレポレ東中野において、井土紀州監督の最新作『ラザロ』のトークイヴェントに出演します。時間がありましたら、話を聞いてそれから映画を観てはいかがでしょう。
■少しずつ、『ニュータウン入口』を書き直している。いい作品にしようと思ったのです。リーディングがあり、準備公演があり、いろいろ試したけれど、まだ、なにか欠けている。いや、大いに欠けている。参照すべき資料にあらためてあたり考えていた。けれど、いくら太田さんの言葉を反芻しそこから戯曲や演出について考えても、資料をあたっても、書きつつ立ち止まり、書きあぐね、また言葉を記し考えても、出てくるのは自分の内部にあるものだけ。どんなに観念的に考えたところで、いま書けるのは、からだからにじみ出るものだけだ。表現されるものなんてそれだけだ。だから自分が試されるのだけど、ここまでの経歴とか、やってきたこととか、どんなふうに生きてきたとかそんなものの反映だ。いくらかっこつけても、きっとそれが正直に反映してしまうのだから、たとえ焦ってもいま書けるのはそれだけのこと。
■ただ、ほんの少しは成長もしているのです。この数年は戯曲をよく読んでそれを解いてゆくことを意識的にしてきたつもりだ。怠けてしまうといけないから、『東京人』に戯曲を読む連載もはじめた。あるいは大学で、学生と輪読しているとき、いままで気がつかなかったことを戯曲から喚起されることがあった。あれはなんだろう。声に発してはじめてわかること。あるいは、読みを進めつつ、いったん止めては、それを解説しているうち、べつの発見もある。ベケットの『ゴドーを待ちながら』を輪読していたら、いままでなにげなく読み飛ばしていた、「休憩」というト書きには笑ったな。それを読んだ学生の声や読み方もよかったんだけど、そこでみんなで大笑いした。よくよく考えてみると「休憩」がわからない。「沈黙」というト書きはわかっているつもりだったが、なぜそこだけ、「休憩」なのか。では、「沈黙」とはなにかって考えはじめるとまたわからなくなる。その「沈黙」の時間がわからない。

■太田さんの戯曲や、評論集を書棚から引っ張り出して再読していたのだが、生前の太田さんは、生涯に出す本は、自分の骨箱に入る程度の数でいいという意味の話をしていたのを思いだした。それは太田さんの美学だったといまになって想像する。切りつめて、そして削いで、最小限の言葉だけを残せば、そこに美しい形が出現するという意味ではないか。太田さんの舞台とそれは同じだ。考えつくした果てに残された言葉だ。ふだんの太田さんもそうだった。たとえ、シンポジュウムで発言を求められても、しばらく考えたあとで言葉をしぼりだすように発していた。一緒に参加しているとそれを待っていなければならなかった。沈黙をただ、待っていなければならなかった。湘南台市民シアターで、市民と一緒に太田さんの原作による『千年の夏』という舞台を演出したときだ。打ち上げでなにかスピーチをするようにうながされた。なかなか言葉が発せられず、少し黙っていたら、太田さんが「沈黙はだめだぞ」と冗談でそう言った。あんたに言われたくないよと思ったけれど、それが僕にはとてもうれしかった。あの演出を頼まれたときもそうだが、京都の大学に呼ばれたときも、さらにいうなら、岸田戯曲賞のときに僕を推してくれたことも、いまとなっては、どうして声をかけてくれたり、そうしてくれたのかわからないままだ。はっきり聞いておけばよかった。たとえば、『水の希望 ドキュメント転形劇場(弓立社)をいま、あらためて読むと、なぜ僕と太田さんに接点があったかそれがわからないのだ。
■京都の大学に呼ばれたときは、太田さんに声をかけられたというだけで、単純にうれしかったけれど、それを素直に言うことができなかった。太田さんから受け取った招聘の内容のFAXの文字が読めなくてしばらく京都の大学だと気がつかなかったことを冗談にして話した。素直に話せばよかったと後悔する。ほんとに嬉しかったな、太田さんに声をかけてもらえたことが。あるいは大学にいたころ、なにかあって懇親会のようなものを居酒屋などで開くと、僕はほとんど酒を呑まないし、そういうとき最初に座った席から立ちあがらない。すると太田さんがやってきてなにか話しかけてくれたのに、太田さんを前にすると緊張してなにも話せなくなってしまった。もっと質問することがあったんだ。記憶を頼りに太田さんの言葉をあらためて振り返り、その意味を考えている。太田さんのようには、ぜったい僕はできないけれど、太田さんから学んだことが少しでも作品に反映すればいいと思える。
■そんなことを考えながら、『ニュータウン入口』を書き直している。だけど出てくるのは、僕のからだから発せられるものでしかない。あるとき、それは京都の太田さんの家だったが、大学の人たちが集まって食事をしたことがあった。ある演劇人についてその政治的なふるまいを指摘し、そこにいた誰かが太田さんに、「太田さんは、ああいったことをしないですよね」と言った。すると太田さんは、「いや、しないんじゃない。できないんだ」と否定した。つまり太田さんは自分の「できないこと」に忠実だった。「できないこと」への忠実さが、たとえば『水の駅』という傑作を生んだと読める。だから、その「忠実さ」や「正直な表出」が太田さんの最大の表現の原理だったと考えられる。一番、学ぶべきはそのことだったにちがいない。『ニュータウン入口』をいい作品にしたい、なんて欲望がそもそも、自分のあるがままへの、「忠実さ」や「正直な表出」から遠いものだ。結果としてそれがなんらかの成果をあげればいい。そのための努力はする。少しだけ、センチメンタルなことを書けば、それが太田さんへの感謝の気持ちになればと思っている。

■台風が通り過ぎ、新潟中越地方の地震は甚大な被害を与えた。いろいろなことがあって無関心でもいられないが、茫然とした日々はつづき、けれど、働かなければ、働かなければねえ。

(6:50 Jul, 17 2007)

Jul. 13 fri. 「太田さんが亡くなられた」

太田省吾『なにもかもなくしてみる』

■東京外語大で、東大の内野儀さん、チェルフィッチュの岡田利規くんと話をした。谷川道子さんにもお会いした。東京外語大はとても遠かった(その話はあらためてまた詳しく書きます)。それで、家に帰ってメールをチェックすると、青土社のHさんや、京都造形芸術大学の卒業生から連絡があり、太田省吾さんの訃報を知った。身体の調子が思わしくないのは去年の暮れから知っていた。それで今年の三月、京都造形芸術大学の仕事で京都に行ったとき病院に見舞いに行こうと思っていたが、そのときはすでに自宅治療をされているとのことだった。それでも、まだ会う機会はあるだろうし、話をする機会はあるだろうと思って、ぐずぐずしていたのだ。いまはただ、茫然としている。会わなかったことを後悔している。最後に会ったのは、世田谷パブリックシアターの地下にある稽古場の廊下だった。まだ病気のことは知らなかった。太田さんはそのとき、ベケットのリーディングを稽古中で(出演していたのは、やはりつい最近亡くなられた観世栄夫さんだ)、僕もちょうど、『鵺/NUE』の稽古をしていた。背の高い太田さんが廊下の向こうから来るのが見え、僕に気がついた太田さんが、よお、というように声をかけてくれた。少し話をしたが、最後にどんな言葉を交わしたか忘れてしまった。もっと聞いておくべきことがたくさんあったはずだが、なにを聞けばいいのかさえ思いつかなかった。京都造形芸術大学で教えていたころ、2年生の発表公演があったのは、いまと同じ七月だった。公演が終わると、その数日後にはきまって合評があり、そこで太田さんから短い感想の言葉をもらう。授業のなかでの発表だったから、感想の言葉にも限界はあったけれど、それで教えられることは多かったし、とくに僕にとって最後の発表公演になった年の合評で、太田さんが話してくれたことが印象に残っている。その言葉をあらためて反芻している。いまはそれしか僕にはできることがない。

(23:04 Jul, 13 2007)

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