富士日記 2.1

Apr. 15 tue. 「小説の話は15分で終わる」

警察官に道を尋ねる人

去年、東洋大学でシンポジュウムがあったとき、一緒に参加させてもらったGさんから『ニュータウン入口』芸術劇場版の感想を送ってもらった。とてもうれしい感想だったが、なかでも、お子さんが、太一の姿に大喜びだったというのを聞き、あの奇妙な動きだし、子どもが喜ぶのはなんとなく分かる気がしたものの、素直にうれしかった。Gさんにとても感謝。
午後、「新潮」のM君とKさんに会って、主に「前田司郎はどうなんだ問題」を語った。映画の話もしたが、このところ時間が取れなかったのもあるけれど、時間があっても外に出て行く気力がわかないのもあり怠けていることを反省。いま、どんな映画が話題になっているかすらわからない。僕の新しい小説については15分くらいで話が終わる。『都市空間論』を講義するにあたって、さまざまなストリートの現象をもっとこの目で見なくてはと思う。「サブカルチャー」関連の資料図書をあらためて読む。「サブカルチャー」をまた、異なる切り口からいまこそ、そして、僕だからこそ語ることがあるはずだ。それを発見できればと。で、そうした本の一冊を読んでいたら、ロラン・バルトがかなり参照されており、あ、そうか、と思ったけれど、現象だけではなくもっと歴史的な視点から考えること、しかし、それがアカデミズムに偏ることなく(それがサブカルチャーのあるべき姿ではないか)、「現在」とどう切り結ぶことができるかについてまた異なる視点を発見しようと思う。そこがむつかしいよ。だからストリートだ。音楽、ファッション、ストリート・アート、そうしたものらが内包する政治性、それがサブカルチャーの現在。
夜は、ある用事で知人と会う。ゆっくり話ができてとてもよかった。だいぶ気候がよくなった。きょうは気温も上がった。気持ちのいい一日。

(8:21 Apr. 16 2008)

Apr. 14 mon. 「眠る一日」

早稲田の研究室

掛川から、日曜日(13日)に戻ってきたのは夜だった。とても疲れた。少し風邪気味にもなって調子が悪かったのもあるが、高速をずっと運転していたのが疲れたのだと思う。タイトなスケジュールだった。というか、NHKの芸術劇場の仕事にかかりっきりになっていた三月からの疲れがたまっていたせいだろう、きょうは一日、ほとんど眠っていた。掛川から帰ってすぐに眠り、七時間ほど睡眠をとって、午前中、いくつかの用事をすませると、また午後眠り、眼が覚めたら驚くべきことに夜の八時になっていた。少し本を読む。大学の予習。
そういえば、テレビディレクターのO君にメールで、「テレビってこんなに忙しかったっけ?」と書いたところ、「テレビは忙しいんですよ!」と返事が来たのは、もう10日ほど前だっただろうか。忙しいんだな。それで考えたのは、やはり放送関連は若いときの仕事だということで、僕は三十代になってすぐにやめてしまったから、その後は自分のペースでだらだらと、そしてのんびり仕事をしていたような気がする。もちろん舞台の仕事はそれはそれで忙しいものの、からだの使い方がちがう。慣れもあるな、きっと。久しぶりに映像の仕事をしてすっかり疲れていたのだろう。だから眠った。ひたすら眠った。
写真は、早稲田の戸山キャンパスにある僕の個人研究室である。まだ荷物が届いていないのでがらんとしているし、きれいに整頓されているが、これからどんどん荒廃してゆくと思われる。家で余っているコンピュータ(PowerMacG5)を持ち込もうと思っているが、重いんだよな、あれが。どうやって運ぶか思案する。で、家にある演劇関連の本をぜんぶ研究室に運ぶと自宅の仕事部屋がずいぶん片付くが、失敗したのは大学から荷物を運ぶに際して、新学期前の日程を指定してくれればクルマを構内に入れてもいいと通達が来ていたのに、その時間が取れなかったことだ。これからせっせと運ぶことにしよう。

最近驚いたのは、早稲田文学の編集長の市川さんが、前田塁というペンネームで文芸批評を書いているのを知ったことだ。「前田塁」という名前はもちろん知っていたが、まさか市川さんだとは想像もしていなかった。このところ早稲田で何度もばったり会い、このあいだ前田塁名義の批評集をいただいてはじめて知った。こういう驚きはとても楽しい。なにか、心地よいだましにあったような気がしたのである。それにしても、映画『靖国』問題といい、ネグリの来日中止といい、さまざまなニュースに触れるにつけ息苦しい時代の空気に腹立たしい気持ちをいだきつつ、そのことでなにもできない自分にもいらだつが、ロンドンマラソンに水不足を訴えるために参加したマサイ族のニュースをネットで読み(ほかにもこのニュースを、なんとかしたい気分にいよいよなった。新銀行東京に200億つぎこむんだったら、そのほんの一部でいいから、アフリカに飲み水を供給する施設の建設に援助をしたらどうかと、ごく素朴に思う。なにしろ、訴えるために「歌い踊りながら走ろう」とした人たちがいるのだ。助けてやりたくなるじゃないか。
あと、あれですね、『ニュータウン入口』芸術劇場版について、「舞台を観て、さらに、あれを観た人」と、「舞台は観られなかったが、あれを観た人」が、どう感じ方がちがうかを知りたい。もしよかったら、感想をいただけたらと思うのだ。

(5:21 Apr. 15 2008)

Apr. 12 sat. 「授業がはじまって、いろいろあって」

早稲田の授業がはじまった。また客員教授としての早稲田での日々がはじまる。8日(火)と、翌9日(水)は授業の準備を進め、授業で使うためのDVDを作りもしたが、講義の内容はしっかりまとまらぬまま、というか、どうしようか悩んでいるうちに10日(木)は3限も授業をしたのだった。僕が担当するのは、「サブカルチャー論」「サブカルチャー論演習」「都市空間論演習」「戯曲を読む」の主な四つと、教員五人で担当する「メディア論」がある。木曜日は忙しかった。
まず、午後、「メディア論」の講義に参加。さらに夕方から「戯曲を読む」と「サブカルチャー論」が立て続けにあり、一日中、あたふたしていた。「メディア論」は五人の教員の担当だし、受講者280人でもいいのかもしれないが、「サブカルチャー論」がだ、やっぱり教室がでかいんだよ。受講している人数も多い。知らなかったよ、そんなの。翌日の金曜日は二つの授業がどちらも演習で、人数も少なく直接、学生に語りかけるような、距離感が近い話ができるのに、大きな教室では誰に向かって話せばいいのか、まずそのことに戸惑って、結局、音楽ばかりかけて終わった。というか、教室のAV機器を使うのに手間取っているうち、コンピュータに用意した講義用のファイルを開くのを忘れていたんだ。経験でわかったが「講義用のメモ」はやっぱり紙に印刷しておくべきだった。だいたいファイルをどこにやったかわからなくなっていたし。
金曜日にあった「都市空間論演習」の授業には、白水社のW君と、卒業生のK君が来てくれた。『東京大学[ノイズ文化論]講義』のような本を出そうという計画があるが、授業が終わって家に戻ってから思いついたのは、演習の授業だし、講義をまとめるというより、授業の全体像がわかるような、つまり、『ドキュメント 早稲田大学[都市空間論]』といった本にすることだ。この授業では学生たちに街をフィールドワークさせようと考えているし、あるいは、僕も学生たちと街を歩こうと思う。そうした作業をドキュメントするような本になると面白いんじゃないかと思ったが、前期はそれでやり、後期は、その作業で発見した資料を元に講義を中心にしようと思う。それというのも、後期になると外を歩くのは寒いからだ。寒いのはいやだよ。

YouTubeより

さて、金曜日の11日は夜NHK教育テレビで『ニュータウン入口』芸術劇場版が放送された(上の画像は、単なるキャプチャした静止画ですので、残念ながら動きません)。放送が終わってすぐに担当ディレクターのNさんから電話があっていろいろ話しをしたが、それよりさらに早く、早稲田の岡室さんから、放送終了直後にメールが届き、「かっこよかった」とあったのと、「テレビという映像媒体で放映することの意味が追求されて」という言葉があってとてもうれしかった。たとえばテレビでサッカーや野球を観るとする。あれは、サッカーや野球を観ているのではなく、人はやはり、テレビを観ているのだと思う。テレビのプログラムとして加工されたスポーツの映像を観ている(たとえ生中継だとしても)。舞台を、映像化することについてこれまでも数多く語られてきたし、舞台を映像として再現することは無理というのはそもそも、自明になる。だったら、「テレビという映像媒体で放映することの意味」をあらためて問えば、ほかにも方法はきっとあるはずだ。今回の「芸術劇場版」のような方法は、数多くあるはずの「試み」のひとつとしてあるだろう。
それで、Nディレクターと話したのは、もっとできたことがあったんじゃないかというさらなる野望である。Nさんは次に遊園地再生事業団が公演するときには、リーディング公演から関わって、最初から、「テレビで舞台を放映するまた異なる方法」を追求してゆきたいという。もちろん、舞台で公演することが作品の目的だ。けれど、その先に、映像化するための方法がまだなにかある。映像が単なる記録だけではないべつのなにものかとして存在できないか。試みをさらに深めることはできないか。そんなことを考えながら放送を観ていた。もっとできることがあったと思えてならない。
舞台は舞台だし、映像は映像って、あたりまえのことだけど、ここで「舞台」という言葉は、「身体」ということでもあって、そのことの追求がまずあるが、「舞台(=身体)」と「映像」によって、またべつの「作品」があるとした場合、しかし、その基本となるべき「戯曲」をあらためて問い直さなくてはと思う。だから、まず、書くことからはじまる。

といったわけで金曜日は遅くまで起きていたが、その後、少し眠って早朝(12日)、静岡へ帰郷。父の四九日の法要と納骨だ。眠い。ものすごく眠いし、喪服は窮屈だ。本谷の『偏路』という戯曲では「親戚は気持ち悪い」といった意味のことが書かれていたが、うちの親戚は、とにかくにぎやかだ。誰も人の話を聞かずに、一方的にみんな同時に話をはじめる。うるさいったらない。父は墓に眠った。にぎやかなことが好きな人だったから、これくらいにぎやかなほうがきっと喜んでいるだろう。

(8:50 Apr. 13 2008)

Apr. 7 mon. 「岸田戯曲賞授賞式」

将棋を指す二人の男

岸田戯曲賞の受賞パーティの日であった。パーティは夕方からだったが、午前中はまたしてもNHKに行き完成した『ニュータウン入口(芸術劇場ヴァージョン)』のプレビューを観たのだった。朝九時からだよ。まあ、一般的には人が仕事をはじめる時間なので、べつに早くはないが、昨夜、その『ニュータウン入口』の完全版をDVDに焼こうとしていろいろ試行錯誤しており(その話はまたあとで書くことにしよう)、眠ったのは午前四時ぐらいだ。あまり眠らぬままプレビューを観たものの、自分で言うのもなんだが、舞台とはまた異なる面白さになっていたので、むしろ目が覚めた。
担当ディレクターのNさん、それから芸術劇場を担当なさっているアナウンサーのNさんと観終わってからいろいろ話をする。芝居に含まれた、(まず人が気がつかない)テーマについて話しをしたら、アナウンサーのNさんにびっくりされた。もっと話しをしたかったが、私は早稲田に重要な書類などを取りにゆかねばならなかったのだ。それで帰ろうと思って玄関に向かっていたら、京都造形芸術大学の卒業生に声をかけられた。『ニュータウン入口』でカメラマン役をやった今野と同期だった学生で、いまはどうやら映像関係の仕事をしているらしい。それでNHKに出入りしているのだろう。がんばっているようだ。よかったよかった。といったわけで、そのままクルマで早稲田へ。事務所で、教員証とか、そういったものをいろいろ受け取って帰ろうとしたら、こんどは教員のSさんにばったり会った。Sさんは、外国から帰ってきたばかりだそうだ。『ニュータウン入口(芸術劇場版)』の予告編を観てくれたというが、放送日について僕が、「こんどの金曜日です」と言うと、「あさってですね」とSさんは言う。「金曜日です」と僕がさらに言うと、「あさってですね」となおもSさんは言った。外国から帰ってきたばかりの人は日付の感覚が麻痺するらしい。というか、時差ボケにもほどってものがあるじゃないか。その後、家に戻って仮眠。
岸田戯曲賞の授賞式の会場になっている日本出版クラブに向かう途中、岩松了さんから電話があった。いきなり岩松さんは「宮沢、行くのか?」と言ったのだった。そして、「俺はいま、渋谷だ」というが、それはよく意味がわからなかったけれど、どうやら遅刻しそうだということらしい。授賞式のはじまる時間を質問されたが、僕はすっかり七時からだと思いこんでいて、あとでわかったが、正確には六時だった。「大丈夫ですよ、七時からですから」と岩松さんに断言してしまったのだ。けれど、岩松さんは立派だ。きちんと時間通りにやってきた。受賞者の前田君にははじめて会った。なにかよくわからない面白さを持った人だ。やる気があるのか、ないのか、ちっともわからないような妙な力の抜け具合。それで授賞式は始まったが、選考委員を代表し、受賞作決定までの過程について僕が話すことになっていた。そのなかで、選考会のとき岩松さんが前田君の作品について「だまされたくない」と話していたことを強調して語り、むしろ、岩松さんが怒っているということにした。まあ、冗談だというのは会場に来ていた人、みんな理解してくれたが、するとそれを受け、乾杯の音頭をとった野田秀樹さんがやはり冗談で、岩松さんが怒っているというふうに話しを引き継ぎ、いよいよ、岩松さんのスピーチになって、いやがうえにも盛り上がる。なにしろ、「前田君の受賞に怒っている人」ということになっている人の祝賀のスピーチである。面白かったなあ、岩松さん。怒っている人にさせられてしまって、わーっと話しをしたあと、一段落ついたところで会場に向かって、「なにか質問は?」と。笑ったなあ。とてもいい授賞式になったが、それも、前田君の人柄かもしれない。

で、会場ではたくさんの編集者の方たちにお会いしたのだった。なかでも、書くと言っていながらちっとも書かなかった「群像」のYさんがいらしたので、申し訳ないととにかく先手を打って謝る。まあ、「新潮」には、20年待ってもらって、ようやくこのあいだ書いたくらいだから、あれだけど、いずれにしてもなんというだめさだ。前田君の岸田戯曲賞の受賞もめでたいが、岡田利規君の大江健三郎賞受賞もとてもめでたい話だった。前田君、岡田君をはじめ、いま三十代の演劇人がたいへんなことになっている。すごいぞ、みんな。演劇の新時代が来たとでもいうか、なにかがふつふつと動いているのを感じ、そのことにいたく刺激されるのだ。刺激されても、私はのんびりしている。まあ、自分のペースでやるしかないし。舞台をやらなくちゃと思うが、いま舞台を上演することにさまざまな困難を強く感じる。むつかしいな。うーん、悩むのは、いま、やりたいことをやるための困難だし、つまり、やりたくないことをしないためにはどうしたらいいかという問題だ。悩む、悩む、悩む。
この数日はなにをしていただろう。三日と四日は、『ニュータウン入口(芸術劇場特別版)』のMAがあって、NHKに深夜までいたのだな。それから多摩美に行って顔合わせと懇親会に参加したのが五日。日曜日は、先に書いたようにDVDの作業をしていたけれど、DVDからデータを取り込もうと買ったソフトがどうもうまく機能しない。それに格闘。なんて無駄な時間だろうと思うけれど、そういうことが面白いから困るよ。今週から、早稲田の授業がはじまる。また新しい学生たちに出会えるのはうれしい。授業も面白くなりそうだ。

(10:27 Apr. 8 2008)

Apr. 3 thurs. 「ニュータウン入口予告編」

(10:43 Apr. 4 2008)

Apr. 2 wed. 「四月になっていた」

桜とビルディング

少しからだの調子が回復した。気がつけば外は桜がもう散りはじめている。でも、散ってゆく桜もまた、風に舞ってきれいだ。きょうは、きわめてプライベートな事情があって戸籍謄本をもらいに、本籍のある府中市の市役所に行ったのだった。府中の桜並木がとてつもなくきれいだ。学生のころから、しばらく住んだ町だ。駅近くの欅並木といい、いい町だな、あそこは。父親の納骨は12日だが、そのころにはもう桜も散ってしまっているだろう。見せてやりたかった。満開の桜を。
贈呈していただいた、河合祥一郎さんの『謎ときシェイクスピア』(新潮選書)を少し読んでいた。もちろん「謎とき」も楽しいが、ためになるのは、「謎とき」のあいまにシェイクスピアについてさまざまな角度から教えられることだった。世界中のシェイクスピア学者や研究者はとんでもない調査、分析をしているのだなあ。たとえば、田舎町出身の俳優だったシェイクスピアにあれほどの戯曲を書ける教養があったのかと疑問を持った研究者は、シェイクスピアの生れ故郷の古い家をしらみつぶしに調査して、シェイクスピアの蔵書がどこかに埋もれていないか調べたという(資料によれば、シェイクスピアはほとんどの蔵書やメモ類を残さず死んだとされている)。へえ、いろいろ教えられる。つくづく感心する。研究者という人たちの仕事にただただ感心するのである。河合さんも、その一人なわけだが。
早稲田の授業のために、白水社のW君と打合せをしたのは、月曜日のことだったが、まだ体調が本調子ではなかったものの、W君と話しているうち、ひとつのもやもやした気分が晴れたのは、授業の見通しがだいぶたってきたからだ。面白い授業になりそうである。誰にとって面白いかというと、もちろん自分にとってだ。僕が苦しみながら、というか、悩みつつ授業を進めていたら学生にもためにならないだろう。あと、多摩美には非常勤で教えにゆくことになっているけれど、こちらは戯曲を書くための授業で、それはそれでたいへんだ。でも、まずは「戯曲を読む」ことからはじめようと思う。早稲田でも、戯曲を読む授業が一年を通してあるが、とにかく読む。とことん読む。

ともあれ、四月になっていたのだ。写真は家の近所の遊歩道の桜である。からだの調子がだいぶ上昇してきたのでほっとしている。このあと、さらに芸術劇場版『ニュータウン入口』のMAと呼ばれる音の調整の作業があるのだけど、南波さんに一部、ナレーションをしてもらう。あと少し音楽を入れるにあたって選曲をしなければいけないんだけれど、選曲って、やりはじめるとすごく時間がかかる。まあ、基本は舞台で使った桜井君の音楽だから、さりげないブリッジ部分などの音楽を選ぶだけだから気が楽なものの、選びはじめると熱が入ってしまう。また、渋谷のHMVに行こうかと思うのだけど、時間がない。深夜までやっていてくれればいいのに。それでいいますと、「webちくま」の原稿を書くために「テク」に関する本を探そうと思って深夜の〇時ごろ、六本木の青山ブックセンターに行ったけれど、あそこはいいよな、こういうときほんとに助かる。
「新潮」のKさんから、新聞などの「文芸時評」に取り上げられた『返却』の評をいくつかFAXで送ってもらった。取り上げてもらっただけでもうれしかったが、なかでも驚いたのは、登場人物の一人「赤木」の名前が、後藤明生さんの『挟み撃ち』の主人公と同じだという指摘があったことだ。あのですね、もちろん『挟み撃ち』は読んでいますが、それはかなり無意識に使ってしまったとしか言いようがない。むしろ、この無意識が恐ろしい。後藤さんの小説から受けるもの、影響は常に感じていて、たとえば『サーチエンジン・システムクラッシュ』は、かなり『挟み撃ち』なわけだけれど、無意識にそうしてしまうということは、どこかで、その影響を抱えていたのだとしか言いようがない。もっと後藤さんの小説を読もう。むしろ、後藤さんからもっともっと学ぼうと思ったのだ。

(7:43 Apr. 3 2008)

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