富士日記 2.1

Dec. 30 wed. 「帰郷の前に」

年末はせっせとブログも更新しようと思っていたがそれはかなわなかった。というか、12月後半がたった一回になってしまう恐れがあるので、あがくかのように、今年(おそらく)最後の更新をしよう。ですからまあ、浅い内容になってしまうことをお許し願いたい。これから帰郷しようと準備をしているのである。年明けの更新ができるか、新年の挨拶ができるか微妙なところなので、少しでも書いておこうと思ったしだい。
榛名山から戻って小説の準備をいろいろしていたものの、もうひとつうまく書けずに苦しんでいた。あせる。ひどく焦燥。なにせ年が変わってしまう。むかしから、「こんなんじゃ年も越せないよ」と人はしばしば口にしたが、年は自然に明けてしまう、というか、時間は残酷に過ぎてゆく。またひとつ歳をとりますね、あまねく誰もかれも、絶対的に。そして、「年をこせないよ」と言うのはまあいろいろ意味が深いのだろうけれど、あっけなく31日の夜は過ぎて、なんだか照れ臭い気持ちで家族と「あけましておめでとう」と言葉を交わすのだった。そして年は明ける。やっておかなくてはならなかったことに誰だって思い残しをするのだ。後悔ばかりの人生だ。あのときなあ、ああ、しておけばって、年末はそのような時期である。
ものが書けず、仕事が進まないとどうもネガティブになりますが、今年一年、まあ、無事に生きてこられたのでそのことには感謝しよう。去年がね、父親の死、手術と二ヶ月の入院、といろいろあり、まあ、たいへんだったわけだから、今年は健康だっただけで感謝しよう。

今年はなんだったんだろう、大学がやけに忙しかった気がする。来る日も来る日も、大学の準備をしていなかったか? ただ、成り行きでそうなってしまううち、やっていたら楽しくなるから仕事とは不思議なものです。50年代の「ビートニク」からはじまり、その背景に流れる思想、あるいはそれらと距離があるようでしかしなんらかの影響があったロラン・バルトや構造主義を手がかりに、「サブカルチャー」について考えることの愉楽があった。あるいは「都市空間論」はまだ勉強がぜんぜん足りないものの、フィールドワークして街を見つめる愉楽、建築から見つめる都市の側面、そしてストリートカルチャーを結び付ける悦楽は大いにあった。そうした仕事が「作品」に結びつくかどうかなんて、まあ、僕は研究者ではなく実作者だけど、どうでもいいと思える。作品は、生まれてくるものだし、結びつくかどうか、意識したところで意味はない。それが自然にからだからにじみでればいい。
だから生まれてくるのを待つのが来年の目標である。というか、来年は10月に本公演がある。久しぶりの舞台だ。そこに力を注ぎ込む。で、告知になりますが、「遊園地再生事業団ラボ」という活動をいま継続してやっており、2010年2月13日、リーディング公演があります。ドイツの劇作家・ジョン・フォン・デュッフェル『バルコニーの情景』を、遊園地再生事業団メンバー上村聡の演出で上演します。場所はドイツ文化センター。詳しくはまた追って告知しますが、ぜひとも足を運んでいただきたい。あと、豊崎由美さんと「外国文学」についてのトークがどこかの書店であります。まだ詳細は決まっていませんが、これも2月。それから『時間のかかる読書』(河出書房新社)が刊行されたのはとてもうれしかった。なにせ、11年と三ヶ月ほどの連載だったんだよ、あれは。すごいことになっていたっていうか、愚鈍というか、まあ、うれしかった。そして、来年、春までに二冊のエッセイ集が出ます。新潮社のエッセイ集『考えない人(仮)』はもうゲラも出て着々と準備が進んでいる。あと筑摩書房からも出ます。こちらは遅々として進まないけど、出ます。出るはずです。
そんな年の暮れ。反省と後悔の2009年。まあ、いい年でしたけどね、大学が面白かった。学生たちと接するのがことのほか楽しかった。あるいは、飴屋さんとか、リミニプロトコル、あるいは美術家、映像作家(ゴダールをあらためて見たんだよ、今年の前半は)、小説家、ダンサー、多くの創作者たち、表現者たちから刺激をたくさん受けた。そのことにも感謝しよう。その刺激からさまざまなことが生まれてくる。

では、よいお年を。

(18:02 Dec. 30 2009)

Dec. 24 thurs. 「旅から帰ってきた年の暮れ」

群馬県にある榛名山(はるなさん)まで取材の旅をしたのだった。小説の取材。クルマで関越を走れば意外に近い。途中に伊香保温泉。温泉につかりたいがいや遊びではなく仕事に来たのだ。その話はあとでまた書くことにする。

それにしても「ツイッター」である。いったいこれはどういったことになっているのか。「ツイッター」をはじめてたしか二ヶ月半ほどになる。いや、三ヶ月か。まあどうでもいいけど。すると、ブログを書かなくなった。同じように書かなくなったというのは多くの人の一致した意見だが、一方でブログを読まなくなる傾向もあるのではないか。「ツイッター」を読めば、ある人について多くのことがわかるというか、なにかその人に接したい気分が充たされるとでもいうか。
ブログを読む行為には、たとえばひいきにしている誰か、あるいは知人、いま遠くにいる古い友人の、息づかいのようなものを知る側面もあったと思うのだ。もちろん、ある人物の批評や、少し大げさにいうなら思想、さまざまな領域に関する思考の軌跡のようなものを読ませてもらえるメディアでもあった。あるいは日常でもいい。まったく知らない誰かの日常を読む興味深さもあった。その大半がツイッターで解消されるとは思わないが、いくつかは充足する。逆に言えば、批評は140文字では書けないし、そうしたメディアだとは思えない。
個人的なことを記しておけば、僕は書きながらものを考える傾向が強い。だからブログ(このノート「富士日記2.1」)はそうした場所として書くことが多いし、かなり大事なメディアだったのだ。「ブログ」と「ツイッター」のちがいは人それぞれだろう。一方で「ツイッター」は、「つぶやき」だけに、かなりゆるく言葉を発信できる楽しさがある。しかもそうした短い言葉がメッセージにもなるし、アジテーションにもなる。つぶやきが、「つぶやき」だからこそ、詩のような言葉として人に響くこともあったように感じる。ここでは「短さ」に意味がある。言葉を短縮する技術のようなものを要求される。あるいは場所を選ばず、携帯電話、iPhoneなど使ってどこからでも発信できる軽快さがある。また読む側は、フォローしているある人物と、またべつの人物が、かなり近くにいるのを知ることができる面白さがあって、これは多くの人が指摘する通り。あと、どうでもいいけれど、個人的なことでいえば、iPhoneで文章を入力するのに慣れた。かなり早くなった。これはこれで重要かもしれない。

べつに「ツイッター」を必要以上に持ち上げるつもりはないけどとにかく面白いとしか言いようがない。人それぞれのタイムラインがちがうことで、目にする世界がまったく異なることの不思議さは、世界を把握する感覚というか、その性質を変えるように感じる。って、おおげさか、それこそ。
だからこそ、ブログはブログで書かなければいけないのだ。しかもできるだけ長く書かなければ意味がない。このバランスがね、うまくとれればと思うが、そうはうまくいかない。たとえば舞台の感想はしっかりブログにまとめたいと考えるものの、しかしなんだね、「ツイッター」のおかげで「ブログ」の地位がやけに上がってしまったのではないだろうか。「地位」と記すとおおげさか。「敷居」みたいなものか。もともとそんなメディアではなかったはずだ、ブログ。しっかり書かなくてはいけない場所になってしまった。それもまた「ツイッター」が変えたこと。
たとえば、「ブログ」→「ミクシー」→「ツイッター」とか、「ブログ」→「巨大掲示板類」→「ミクシー」→「ツイッター」という流れがあるとして、わたし個人でいえば、あいだの「巨大掲示板類」や「ミクシー」にまったく興味をいだかなかったのに、いまなぜこれほど「つぶやく」かはきわめて謎である。なにより「つぶやき」というコンセプトが発明としてすごかった。そのシステムの構築。さまざまなデータが数値化されること。そして「つぶやき」が多くの人に届くすごさ。フォロアーが万単位でいる人はすごい。けっこうなメディアになっている、そうなると。

なにを書こうとしていたのかよくわからなくなってきた。
年内の大学の授業は先週の金曜日で終わった。二週間ほどの休みだ。とはいえ、この休みを利用して小説を書くと約束したのである。「新潮」のY編集長、Kさん、さらに「考える人」で僕の連載の担当をしてくれるN君と食事をしつつ、小説のこと、あるいは来年刊行されるエッセイ集の話をしてからもう二週間ぐらいになってしまうか。時間が経つのは早いよ。そうだ、宣伝であるが、来年に入って、新潮社と筑摩書房からエッセイ集がそれぞれ刊行される。まだタイトルなど決まっていないが、ぜひ読んでいただきたい。
このノートを書かずにいたあいだも、日々はいつものように進行しており、わたしは百円バスで大学に通っていたし、誕生日に学生たちに祝われたり、そのとき学生に鍋をごちそうになったので、そのお返しにと思って、後日、学生たちにたらふく食わせたり、小説のことを考えていたり、日々、大学の準備でばたばた走り回っていた。今年もよく働いた気がするが、『時間のかかる読書』が刊行できてよかった。河出書房新社のT君のおかげだ。週刊文春で仲俣暁生さんに書評してもらったり、週刊ポストでも取り上げてもらった。ありがたい。

小説を書いている途中でどうしても知りたいことがあって榛名山に向かったのは、22日だ。もちろん電車やバスを利用する方法はあるものの、クルマで行かなければ、いろいろ見て回ることはできなかったろう。冬季は路面が凍結するんじゃないかなど、行く前は不安だったし、実際、山を登るのはたいへんだったものの、まあ、なんとか標高1100メートルほどある榛名湖に着いたのだ。出発する前、地図であたりのことを調べていたが、実際行ってみなければわからないことはかなりある。まず、想像していたより榛名湖は小さい。クルマで一周するのに30分もかからないと思う。さらに山道の印象もずいぶんちがう。人の姿や、周辺の人々の様子も少しだが知ることができた。
ホテルにチェックインするまで時間があったのでいろいろ調べる。森のなかはなんの音もしない。なんだこの静寂は。鳥さえ鳴かない。寒すぎて鳥もいないってことなのか。わかったこといろいろ。チェックイン後の夕ぐれどき、あたりはもう暗くなり、外に出るとおそろしいほどの寒さだった。で、湖畔でイルミネーションのお祭りが開かれていてなんだかよくわからない気分になったのだ。翌日の計画を練ってあらためて見ておかなければいけないポイントなどメモしつつ、夜はふけてゆくが、あたりはすごく静かだ。そのおかげかいつもよりぐっすり眠れた。というものの五時間ぐらいで目が覚める。
翌日(23日)、ホテルのご主人から話をいろいろ聞かせていただいた。話を聞くのは大事だな。いろいろなことがわかった。ホテルを出てさらに榛名山とその周辺を調べた。あるいは、ご主人にすすめられた榛名神社に行ったりと、もう、いろいろ見て充実し過ぎたというか、おなかがいっぱいになったような気分だ。だけどよかったなあ、榛名山と、榛名湖。ほんとに行ってよかった。これで小説書かなかったら、わけがわからないが、わたしは書くだろう。きっと書くにちがいない。冬休みなど関係ないのだ。今年も大晦日は原稿を書く。なにか書きながら年を越す。あ、そうか、年越しのツイッターはなんだかにぎやかそうだ。年越しはツイッターをしないというのもひとつの生き方だ。

そんな年の暮れである。あとクリスマスなのか。そうか、そうでしたか。地味にしていよう。寒いからじっとしていよう。

(10:41 Dec. 24 2009)

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