富士日記 2.1

May. 31 sun. 「岡田利規君と話したことなど」

土曜日(30日)は新国立劇場で、岡田利規君が演出する『タトゥー』を観た。とてもよかった。その後、佐々木敦さんが刊行する、「エクス・ポ」という雑誌のために岡田君と対談。そのとき、ブレヒトの話が出て、というのも、岡田君が創作を組み立てる参照先のひとつにブレヒトの演劇論があるからだ。たまたま、家に戻って『同時代演劇』の第三号(七〇年九月刊行)を読んだら、菅谷規矩雄さんが、「『ブレヒト論』以降」という論考を書いているのが目に入った。それで興味を持ち菅谷さんの書いた『ブレヒト論──反抗と亡命』を古書店に注文。
こうして、演劇について刺激を与えてくれる実作者は、いまでは、岡田君と、「地点」の三浦基君になるだろうか。三浦君からは、チェーホフの『桜の園』をもっと政治劇の文脈で読んだらどうかとアドヴァイスされたが、それは青土社から出した、『チェーホフの戦争』が前提にあり、あそこで僕はロバーヒンに焦点をあて、「不動産の劇」として『桜の園』を考えた。時代背景にもっと意識的になるべきだったと思うのは、なにしろ『桜の園』が書かれた数年後に、ロシア革命が起こっているのだし、チェーホフがそれを予兆していないはずはない。とするなら、『桜の園』の細部に革命へと大きく動こうとするロシアの政治状況が反映しているはずだ。
ところで、岡田君は、自身の戯曲について、いつまでも自分も若者ではないから、「若者言葉」として戯曲を書くつもりはないといった旨の発言を対談でしていたが、いや、むしろ、あれは「若者言葉」ではなく、「岡田言語」なのではないかと思いべつに変更することはないと思った。というのも、かつて、「演劇をする」ということは、日本中どこに行っても「標準語」、いやむしろもっと人工的な「演劇の言葉」で「演じる」ことがあたりまえだった時代があったからだ。10数年前、地方へワークショップに行くとそれまで地元の言葉で話していた者らが、たとえエチュードでも「演じる」ことをしはじめたとたん「標準語」になるのが不思議でならなかった。

話を進めてゆくうち、「現代口語演劇」の功罪にも話題は及んだが、功罪の、「功」はおそらく演劇の前提となっていた、「演じることは、演劇の言葉を使わなければならない」を崩したことにまずあるのではないか。もちろん、地方の言葉を使った戯曲が書かれていなかったわけではない。だが、演劇の制度のなかに言葉は窮屈そうに押し込められていた。そこからの解放は、まず言葉を発する身体の変容としてあらわれ、変容した身体に見合う言葉が採用され、それが循環して、さらに、その言葉のための身体が要求されることになった。
松田正隆のある種類の戯曲は、九州の、長崎あたりの言葉を使う。同様に、岡田言語があっていいのじゃないか。なにしろ、やはりそれも話題に出たが、平田オリザの一見、リアルと思える表現の、あのきわめて人工的な表現で使われる言葉は、あきらかに「平田言語」だ。いまあげた三人の劇作家は、だからこそ、魅力的なのだろうし、過去に遡れば、別役実さんの言葉もまた、それまでの戯曲の言葉とは異なるからこそ、新しい演劇の地平を開いたと読める。別役さんはそれを変更しただろうか。常に言葉を変更してゆく作家とそうでない一連の作家がいる。そうでなくてもいい作家に僕は憧れるし、それはつまり、言葉の強度をあらかじめ持っているということだ。
で、ブレヒトのことをあらためて考えよう。いまこそ有効な「異化」について考える。「現代口語演劇」以降の、いわば、「ポスト口語演劇」のための、「異化」や「文節化」とブレヒトの方法について。

山手線に乗ろうとする新宿駅の裸足の人の写真を掲載したところ、「私も裸足でした」という人のメールをもらった。そんなに裸足の人がいるのだろうか。その人は下北沢を歩いていたら、向こうから裸足の男が現れ、それがボ・ガンボスのドントだったそうで、見た途端、なにか啓示を受け「これだ」と思ったという。また、別の人のメールでは、あれは、最近、流行りの足の裏にぺたっと貼るサンダルではないかとあった。確認のため拡大してみた。こうして拡大し、確かめると、「足の裏にぺたっと貼るサンダル」とは思えない。あきらかな裸足ではないだろうか。
どうなんでしょう。
どうなんでしょうと言われても困るでしょうが。というか、考えてみたら、俺、この人を目の前で見ているわけで、目視した状態でそれはあきらかに裸足だったのだから、まちがいない。

『資本論も読む』(幻冬舎文庫版)、『チェーホフの戦争』(筑摩文庫版)のためのゲラの直しで忙しかった週末である。幻冬舎のTさんは、もともと単行本のときの担当者でその後、幻冬舎へ移ったという事情もあり、『資本論も読む』は幻冬舎から文庫として出してもらえることになったのだった。とはいっても、べつの出版社、筑摩とか、河出書房の方からも声をかけていただきたいへんありがたかったが、やはり連載のときからの縁もあるし、いちばんこの本をTさんが理解していると思うのだ。だから引き続き担当をお願いした。
『チェーホフの戦争』のゲラの直しはたいへんだった。というのも、一部、書き直しをしたからだ。それに関しては文庫版の「あとがき」に詳しい。青土社から刊行された直後、長野にお住まいのあるご高齢の方から丁寧な手紙をいただいた。そこに、僕が仕掛けた「うそ」をきっぱり見破ってそれを訂正する文章があった。とはいっても、これは研究書ではなく、「読み物」、もっというなら創作物だと思っているから、「うそ」でなければいけなかったのだ。そのことを補足するように少し書き足した。
で、正しいことを書くため、「うそ」を書いた『三人姉妹』の、正しい部分を引用しようと思ったら、うちにあるチェーホフの新潮文庫がぜんぶ、大学の研究室にあると思いだし、あせる。だが、待てよ、全集があるはずだと思い、多少、翻訳が異なるとはいえ、同じ神西清さんの翻訳だからそこから引用しようとしたら、全集の『三人姉妹』が入っている12巻だけ、やっぱり大学の研究室だ。仕方がないので新宿の紀伊國屋書店でまた新潮文庫を買った。この数日、ずっとゲラを直し、「文庫版のためのまえがき」「文庫版のためのあとがき」を書いて根を詰めたせいか、外に出たら駅でめまいがした。

そこでふと気がついた私の変化は、煙草をやめて以来、どこで休憩をとればいいかそのタイミングがつかめずでたらめに集中してしまうことだ。疲れはまず目に来る。以前、岩松了さんが、老眼のせいでめまいを起こした話をしていたが、それに近い疲労。疲れた。へとへとになった。でも、仕事は一段落。あとひとつ原稿。でもなにより小説。

(4:38 Jun. 1 2009)

May. 27 wed. 「夏のような日、または夜、青山で」

夏のように日差しが強い日だった。新宿から山手線に乗ろうとしたら、写真の人がいたのだった。僕は高田馬場に向かい、時間がなかったので残念だが、この人のあとをつけたかった。むしろ話を聞きたかった。
同じ、山手線の車内には、人が貼ったと思われる「怪文書」のようなステッカーもあった。それに気がついたのは電車が高田馬場に着いたころだったので写真も撮れなかった。これも残念。それにしてもいったい、なぜあの人は裸足だったのか。プロゴルファー猿なのだろうか。しかも、裸足以外は、べつにこれといっておかしなところはなにもない。つくづく謎だ。
大学へ。「サブカルチャー論」。一九五〇年代の「ビートニク」の話。ギンズバーグの続きと、バロウズについて大急ぎで話を進めた。なんか、話すのに余裕がなくなっている気がする。どんどん授業を進めなくてはいけないような感じになり、雑談とか、脱線が、去年より少ないのではないか。とはいうものの、きょうはマダガスカルの話をした。余裕をもって授業を進めよう。というか、「サブカルチャー論」の本質はことによったら、そうした「逸脱」にあると思える。だから、あれだな、あの裸足の人の写真を、いまそこで目撃したと見せればよかった。

夜、青山へ。スパイラルホールの地下にある「レストラン・CAY」で、CLUBKINGが主催する、なんていうんでしょうか、パーティのような催しがあり「赤塚不二夫論」を話す。会場は想像以上のにぎわい。ただ、僕の話をみんな静かに聞いてくれてうれしかった。
「赤塚不二夫論」は去年の秋にやった「サブカルチャー論」の授業のひとつである。授業は、もちろん90分だが、この日は30分でと頼まれていたので、普通だったら内容を短くするだろうけど、とにかくものすごい勢いと早口で進行。30分を少し過ぎたけれどなんとかまとまった。赤塚さんのお嬢さん、えり子さんにも久しぶりにお会いした。それから曽我部恵一さん、後藤まりこ(ミドリ)さんも加わり(二人とも、赤塚不二夫トリビュートCD『四十一歳の春だから』に参加している)、赤塚不二夫さんについてトーク。終わったときにはすでに午後11時を過ぎていた。
終わってから、いろいろな方に声を掛けられた。僕の話を目当てに来てくれたという人もいた。ありがたい話です。そういえば、元MACPOWERの編集長のTさんには、はじまる前に会ったが、終わったあと話ができなかった。あるいは、以前とてもお世話になったアップル社のSさんとも話したかったのは、Macそのものや、あるいは、Keynoteについて聞きたいことがいろいろあったからだ。

この「赤塚不二夫論」は、夏の北海道、あの「ライジングサン」で、こんどは、しりあがり寿さんと一緒にやることになっている。また画像を増やしてさらに内容を充実させようと思っているが、なぜこんなに情熱を燃やさなくてはいけないか、自分でもよくわからないのだ。

(10:14 May. 28 2009)

May. 24 sun. 「福岡にいた」

福岡に行っていたのだった。
福岡市文化芸術振興財団が主催する「創作コンペティション 『一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!』」の審査をした。戯曲を読んで、それを論じるのとはまた異なり、評価することを通じてまたあらためて演劇について考えた。とはいうものの、日々が忙しくて、大学の授業、単行本、文庫本、そのほかの仕事を平行して進めていると、頭の切り替えがむつかしい。なにせ授業のあと、飛行機に乗って福岡に向かったくらいだ。意識がはっきりしないまま空港に着いたような、ぼんやりしたまま、というか、たとえば高速道路をクルマで走った直後、なかなか、あの速度からからだが普通の時間に戻れないときのような、そんな日々だから、福岡にいること自体が奇妙な体験になったのだ。
翌日は朝の五時ぐらいに眼が覚め、東京から持参したDVDを見たけれど、これもまた仕事といえば仕事。朝食後、あらためて少し眠り、午後、三団体の作品を鑑賞するため、会場にあてられた「ぽんプラザホール」という劇場に向かった。あらかじめ渡された、地図と説明のメモを手にぶらぶら福岡の町を歩いた。土地勘がないのでいま自分がどこにいるのかまったく見当もつかない。説明された通りに歩く。ただ歩く。商店街を入って進むとその先に銃砲店。時間があればなかをのぞいたが、銃砲店というのは、一般の、銃の取り扱い免許を持っていないような者が、なんとなく入っていいものなのだろうか。それで思い出したが、en-taxiのTさんに連れて行ってもらった西麻布にある「またぎ」という店のトイレにあったカレンダーは、どこかの商店とか企業が出しているネーム入りのカレンダーだったけれど、それが「ガンショップ」だったのが「またぎ」らしいと思って笑ったのだ。

無事に会場到着。三団体の作品を観る。審査。博多の劇団に賞が贈られた。とはいっても、こりゃすごいな、というか、こちらを驚かせてくれるようなものすごい刺激的な作品があったかというとそうでもなく、「みんな巧い」としか言いようがないものの、もう何年も、いや十年以上も前から、舞台を見るにつけその多くに「巧いなあ」と口にしてきた。もっと異なる言葉を発見できないだろうか。しかも、誉め言葉としてはほぼ使っていない。しかし、こうなったら「誉め言葉」でいいんじゃないかと思う。で、「巧いな」はもう「あたりまえ」だとして、異なる位置にいったんカッコで括ってから、またべつの言葉で語り出すべきではないか。では、その言葉をどう紡ぐか。
そんな感想だった。その後、懇親会。受賞した劇団は、財団から助成を受け、来年、本公演を打つことになっている。そのために僕もできるだけアドヴァイスをすると約束した。そういうのをドラマドクターというそうだ。知らなかった、っていうか、ほかにも「ドラマなんとか」って、新しい言葉による役割の人がいるけれど、どこからそういった仕事、言葉、あるいは概念が輸入されたのだろう。まあ、ともあれ、なにかできることがあればいいけど、ドクターはどうなんでしょうか。ドクターかよ、俺。
早起きだったこともあり、夜、懇親会が開かれたのに、途中で眠くなったので、わりと早めにホテルに戻った。申し訳ないです。翌日もまた早起き。またべつのDVDを観る。それでも飛行機まで時間があったので映画館へ。旅先で映画を観るのはいいけれど、まあ、なんだかんだで、疲れた。スケジュールがタイトだった。というか、札幌に行っても、福岡に来ても、いつも思うのは、できたら、二、三日いられたらいいということ。町をさーっとながめるだけで終わってしまう。そういったスケジュールが組めない生活は私にはむいていないはずなのだが。

東京に戻ったら戻ったですぐにべつの種類の仕事。やっぱり切り替えがむつかしい。そんなに器用にはできていない。でも、あっちへうろうろ、こっちへうろうろも、わたしらしいのかもしれない。

(4:40 May. 25 2009)

May. 20 wed. 「暑い一日」

去年の秋、「サブカルチャー論」の教室に漂っていた、よくわからない熱気はなんだったんだろう。教室がいまの場所より狭くて学生がぎっしりいたこともあるがなにかただごとならぬ空気に包まれていたのだった。
七限という時間もあったかなと思うのは二文の学生が多かったことがある。今期の「サブカルチャー論」は四限。学生の顔を見ても少し子どもという印象を受ける。そんなことを書いたら怒られるかな。でも反応が去年に比べると薄いんだけど、僕の授業のほうも、なんていうんですか、だんだん僕自身が慣れてきて、いかにも講義らしくなってるのが問題だ。きょうは、アレン・ギンズバーグの詩を読解したけれど、それ「サブカルチャー論」というより文学の授業みたいだし。とはいうものの、本日の授業は、前置きにテーマとはまったく関係のない写真を見せたり、日本語ラップのPVを見せたり、そこいらはおよそ授業らしくないだろう。べつに学生へのサービスってことではなく、僕が見たかった、あるいは見せたかった、という単純な理由である。今後も、「奇跡のシャツ」の話などしてゆこう。「奇跡のシャツ」はほんとうに奇跡なんだよ。
そんな前置きが長かったものだから、予定より早く終わってしまった。話がいっこうに一九五〇年代から離れない。いまの学生にしてみたらもうかなり遠い過去だろう。僕だって生まれる前後なわけだし、それを歴史として語っている。でも、サブカルチャーにとって一九五〇年代の文化はきわめて大きな意味を持つ。ギンズバーグ、バロウズ、そしてケルアックの、ビートニクのなんて魅力的なことか。ところで、素材に使うのは、ビートニク関連のドキュメンタリー映画が多いけれど、なぜアメリカではそうした映像が多く残され、また、いまでも映画としてまとめられるのかだ。というのも、日本で、一九五〇年代の映像って、どれくらい残っているか(懐かしい昭和みたいなニュース映像はかなり残されているけど)。あるいはそれを回顧し、過去から現在を考える試み、しかもサブカルチャーの文脈でそうすることがなぜほとんどないかという疑問がある。

雑誌「BRUTUS」で、僕も取り上げてもらった大学の授業特集の号、黒沢清さんの授業の様子を読むと、大島渚が過小評価されていると語られている。まあ、ギンズバーグがカリカチュアされて描かれるようなことはある(たとえば映画『アイム・ノット・ゼア』において)。五〇年代の末、ビートニクは流行現象となり、誤解されて語られ、あるいは揶揄され、それにいやけがさしたギンズバーグはインドに逃げているし、ケルアックは精神的に追いつめられる。まあ、バロウズはニューヨークでひょうひょうとドラッグを打ち続けていたらしいが。
とはいえ、多くのミュージシャン、俳優、映画監督、作家、美術家から、ビートニクたちはいまでもリスペクトされている。そうした文化の連続性がこの国では薄くないだろうか。もう、あれは過去のものといったぐあいに、簡単に消費されるかのように文化が存在し、それがひどく貧しく感じる。たとえば、いま「金坂健二」という名前をどれだけの人が記憶しているだろう。あるいは、記憶していても「金坂健二」がどれだけ語られてきただろう。なにしろ、日本ではじめて「サブカルチャー」という言葉を、六〇年代末、雑誌「美術手帖」の評論で書いたのが、たしか金坂さんだったはずなのだ。
一ヶ月ほど前になるか、原宿にある不思議なお店の二階、ギャラリーのような場所で金坂健二さんの写真展があった。点数はそんなに多くなかったがこうした試みがあるだけでもかなり貴重だ。「金坂健二、アメリカを撮る」といった内容だった。六〇年代にアメリカに渡った金坂さんが、たとえばウォーホルと並んだ写真があったり、貴重だけど、ただ、もっと膨大な写真を当時金坂さんは撮っているはずだ。あるいは映像作家でもあった。大きな回顧展があってもいいじゃないか。「サブカルチャー論」ではそんな話をもっとしたいと考える。失われた時間を掘り起こす作業。歴史について、それは高校までの授業ではあまり語られてこなかった文化を振り返り、現在がどのようにして出現したかという内容になるだろう。少しでも興味を持ってもらえたらね。

その「サブカルチャー論」に商学部の学生がもぐっていて、終わってからその学生を研究室に呼び、TAのK君らと話しをした。「来週ももぐっていいですか」と質問されたが、こういう学生がいるとうれしい。あ、TAのK君で思い出したが、もうひとりこの授業にはTAの学生がいて、花粉症の彼はいつも鼻にティッシュを詰めているのだった。どうなんだ。その人が、つまり鼻にティッシュを、常時、詰めている者が前方にいる授業である。受けている学生はどう感じているのだろう。
それにしても夏みたいな一日だった。新型インフルエンザのニュースが気になるものの、そんなに騒ぐことなのか、大慌てでマスクを買いに行くようなことなのか……ことかもしれないけど……いろいろ疑問を持つ。

(6:08 May. 21 2009)

May. 16 sat. 「そんな一週間」

火曜日からあまり余裕のない日々。しかも来週末は福岡に行く予定になっていた。いろいろ計画していたことが少しずつずれてゆく。予定は先延ばし。で、「新潮」のKさんにぐちを聞いてもらったりした。仕事を引き受けすぎた。断れなくて困っているが、それというのも、ずっとフリーで仕事をしてきたから、いまこれを断ると、次がないんじゃないかという恐怖を感じ続けていたからだろう。でも、さすがに限界はあるし、体力もかつてに比べ、落ちているし、俺、去年、とんでもない手術したことを忘れていた。
「サブカルチャー論」など、授業の準備に時間をかなり使うが、作っていると面白くてしょうがないというか、かなりわたしは、アップルのプレゼンテーションソフト「Keynote」をマスターした。まあ、Windowsにおける「PowerPoint」と同じことなんだろうけどたまたま使っているコンピュータがMacだっただけの話。ちょっとしたことでも「Keynote(つまりプレゼンテーションソフトだが)を使うと、授業とか、ほかにも、なにか発表するような作業はてきぱき進行できる。それがたとえば、DVDとかビデオとか、映像を出そうとしてうまく頭出しができないとか、もたもたしていると、授業を受けている学生が、というより、やっている自分がいやになってくるのだ。スムーズな進行はストレスがない。
ただ、映像を「Keynote」の素材にするためには、編集と、(データを可能な限り小さくするための)圧縮が必要になって、考えてみればそこがやっかいだ。すると、「Keynote」っていう、比較的、手軽に使えるソフトの前段階として作業が煩雑になる。たとえば、CS放送の映像を教材として利用させてもらうためには、何段階か手順を踏むことになる。まず、映像を放送から取り込む(1)。次に、その映像ファイルを編集できるソフトで分割する。使いたい部分だけを取り出す(2)。ここまでWindows上での作業。それをMacに転送(3)Final Cut Proに読みこめるファイル形式に変換する(4)Final Cut Proで編集(5)。その後、QuickTimeで圧縮(6)し、できたムービーファイルをKeynoteに貼り付ける(7)。というわけで、七段階の工程が必要だったのか。いま書いてはじめてやっている作業が自分でもわかった。

でも、ここまでの作業のうち、詳しく書けないグレーな部分があって、なんていったらいいか、方法とか、手段を、広く公開し情報を共有したくてもできないのがもどかしい。いったい、どうやってCS放送の映像を取り込むか、とかね。知ってる人は知ってると思うし、そこんところ、なぜWindowsの作業になってるかとか……
それはそれはもう、Windowsの世界にはありとあらゆるソフトがありますよ。かなり優秀なソフトがフリーというケースがやたらに多い。いま、CS放送って書いたけど、もっといろいろな映像をファイル化できるとはいうものの、書くのははばかられる。ただ探せば情報はネット上にいくらでも転がっている。
金曜日の「サブカルチャー論演習」は学生がそれぞれの発表をする。発表で必要だから、前日までにメールが届き、YouTubeの、いくつかの映像をダウンロードしてほしいと依頼がある。深夜にその作業。で、やはりKeynoteを使って流すと、スムーズに授業が進行する。ところが、学生の一人がCDを持ってきて、ある曲の1分32秒から流してほしいと頼まれた。TAの近藤も、僕も、それがうまくできない。できないとなると、ひどく厄介で、これもコンピュータに取り込んでおけばなんなくできる作業だ。まあ、コンピュータがなんでもすぐれているわけじゃないし、コンピュータを使えばいい授業かっていったら、けっしてそんなことはなく、内容がいちばんに決まっているとはいえ、なにか見せたい、聴かせたいとき、スムーズにことが運ばないとやってるこっちがいらいらしてくる。そんなことでストレスをためるのはいやだよ。

今週は、「メディア論」の担当の週だったので、都合、授業が5コマあり、その準備もあって疲れた。「メディア論」は受講者の数が多く、戸山キャンパスではもっとも大きな教室ではないかと思われる講堂みたいなところで授業。一番前の席までやけに距離があって変だった。「貼り紙からグラフィティまで」というテーマで150枚くらい写真を見せた。時間が足りないだろうと早口でどんどん進めていったら、逆に、時間が余った。
と、書いてる内容が大学のことばかりだ。うーん……考えていること……いただいたメールによって喚起されたこと……目を通した本のことなど書きたいものの、少し疲れた。先週の土曜日(5月9日)のこと(「ミュージックバー 道」でのトークイヴェント)、そこで考えたことも書きたいが……。あと、情報の共有という意味で、「プレゼンテーションソフト」の使い方とか、映像の取り込み、編集など、もっと具体的に書ければいいけど、先にも書いたようにグレーだからな。大学の授業とか、ワークショップとか、セミナーとか、参考資料として舞台映像を流すようなケースはこれまでいくらでもあった。ただ、いま書いている「グレー」というのは、「コピー」にまつわる、ある種類の機器やソフトの使用が違法になるらしい、という意味だ。そうした種類の「機械」を使う作業を「どこかの誰か」が違法だと決めたのだ。あるいは、「B-CAS」カードの存在とかね。おかしい。地上デジタル放送に向けてなにかが奇妙な方向に動き出している。利権がそこにまた生まれる。僕の周辺の学生はほとんどテレビを見ていない。地上デジタルになったらいよいよ見なくなるだろう。いいプログラムも数多くあるのに、手続きがいろいろ面倒になったり、「B-CAS」カードみたいな制度が、人をテレビから遠ざける。
目の前にある、「既得権」を守ることが、むしろ自分の首を絞めかねないとどうして気がつかないのだ。情報を開示することがまた異なる種類の利益を生むはずである。

と、そんな一週間。

(18:22 May. 16 2009)

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